2015年 10月

1980年に上映されたイタリア=フランス合作映画「パッション・ダモーレ」を原典とした本作「パッション」は、1994年にブロードウェイで初演を迎えている。実はこの「パッション」、とても観たい演目だった。“あの”物語を一体どのように万人受けするミュージカルに仕立て上げたのか興味津々であり、しかも手掛けたのは、スティーブン・ソンドハイムだというのがその理由である。そして、トニー賞4部門受賞という栄誉まで奪取したとくれば、期待が高まらないわけがない。日本、初上演である。

そのストーリーなのだが、かなり辛辣な展開を示していく。人妻ではあるが美しい恋人を持つ美男将校が、赴任滞在先で病を患った醜女と出会い、その醜女に猛烈なアプローチを仕掛けられるというのが物語の主軸である。映画ではホラーの様相さえ呈していたと記憶しているが、本作では登場人物や状況の奇異さに偏り過ぎることなく、人々の心の奥底からピュアな真情を掴み出し、美しいメロディと融合させることで、純愛を浮かび上がらせていく。

ブロードウェイ版は未見だが、本作では醜女のフォスカをシルビア・グラブが演じることで容姿の美醜が強調されることなく、病気がちでネガティブなのだが愛には一途な女を造形する。しかし、フォスカの一方的過ぎる思いは、今でいうストーカーそのものだ。その、まさに強烈な「パッション」に観客席からも時折失笑が洩れていくが、次第にそのストレートな思いに、観る者の気持ちがほだされていくのだ。シルビア・グラブはこの難役を生々しく活き活きと造形した。

美男将校ジョルジオは井上芳雄が演じ、まさにぴったりのはまり役だ。当初は執拗に迫ってくるフォスカへの嫌悪感も露わに、音美桜が演じる人妻クララとの逢瀬を享受している。しかし、クララが今ある家庭を壊すつもりがない心情などが物語の展開と共に差し込まれていくと共にジョルジオの気持ちは徐々に離れ、フォスカへと傾いていく男の真情をナチュラルに表現し説得力がある。

人妻クララは音美桜が担い、美しく、可憐な女性を造形するが、夫と子どもを捨て駆け落ちするつもりなど毛頭ないという姿勢を明確に示し、女性の揺るがぬ強靭さを刻印する。クララのこの一見“陽”の存在感があるからこそ、“陰”のフォスカがクッキリと浮き上がってくる。

感情が行き交う男女3人の鞘当てを、宮田慶子の演出は、観る者に分かりやすい手捌きで具現化していく。カリカチュアとリアルとの丁度中間にストンと腑に落ちる地点にポイントを据え、作品の本質に迫っていくことに成功していると思う。舞台転換の節目に将校たちの行進を挟み込んだり、違う空間を同時に存在させたりする、人や空間の駆使の仕方も面白い。

スティーブン・ソンドハイムは、ステージの上で生きる人物たちの感情を見事に楽曲に集約させていく。歌を謳い上げていくというよりも、切なる思いを吐露していると感じるため、突然歌いだすというミュージカルの違和感は皆無であり、あくまでもそこで展開されるのは人間のドラマなのだと感じ入る。音楽監督の島健、指揮者の小林恵子や演奏家の方々が、スティーブン・ソンドハイムの世界を確かな技術で表現し、作品のクオリティを引き上げる。

演劇を鑑賞する際に、一番楽しみにしていることは、その舞台にどのような“驚き”を与えてくれるかということである。その点に於いて言えば、本作は既成概念を覆しながらも決して嫌な気持ちにならず、男女の諍い事を純愛に昇華させることで観客のテンションも満足させるという難技をやってのけた。

スティーブン・ソンドハイムが創造した感情が複雑に絡み合うドラマ・ミュージカルを、的確に具現化し感動作として仕上げられた逸品である。この話、クセになりそうである。再演も期待したい。

登場人物が劇場後方より入場し、舞台上に登壇し一礼すると、会場からは拍手が沸き起こる。蜷川演出において度々あるこのオープニングは、ステージと観客との垣根を一気に取り払い、劇場内は温かな空気感に包まれる。

同作は、シェイクスピア初期の作品であるが、細かな思索などを吹っ飛ばしていく勢いに満ちた瑞々しさに溢れており、どこか物語の辻褄合わせが強引だったりもする若々しさも抱合した実に興味深い戯曲だ。この素材をオールメールで演じるというのも、観客にとっては楽しい趣向であるが、創り手にとっては越えなければならないハードルが幾つもあるのではないかと推察される。

「ムサシ」に続き、蜷川演出に登板する溝端淳平が、伊達男プローティアスの許婚ジュリアを演じるというキャスティングが本作のキーとなる。ミラノ大公の娘のシルヴィアは、オールメール・シリーズの常連である月川悠貴で、その乳母ルーセッタを演じる岡田正しか本作に女性役は登場しない。しかし、初の女形を溝端淳平は、可憐さといじらしい女心とを綯い交ぜにさせながら、愛らしいジュリアを造形し、役者として一皮剥けた感がある。

物語の中軸に立つ溝端淳平のジュリアが放熱するパワーが、作品に溌溂とした印象を与えていく。ヴェローナからミラノへと遊学したプローティアスの動向が気になるジュリアは、男装でミラノへと向かうのだが、男優が女形を演じる役どころで男装をするという何とも複雑な設定であるが、観客にとってはその捩れが面白味へと変化していく楽しみを堪能出来る。所詮、虚構の劇世界である。そのバーチャルを、リアルに楽しめるこの設定には、思わず嬉々としてしまう。

ジュリアの許婚プローティアスを演じるのは、三浦涼介である。「私を離さないで」において、氏の繊細な資質が大いに活かされていたため、本作では女形を担うのかと思いきや、婚約者がいながらミラノ大公の娘のシルヴィアに横恋慕する役どころを演じるのも面白い。

ミラノ大公の娘のシルヴィアはオールメール・シリーズのミューズとも言える月川悠貴が演じるが、安定感あるその存在感は女形が奇異とは映らぬスタンダードさを作品に与えている。そのシルヴィアとの駆け落ちを企てるプローティアスの親友ヴァレンタインは高橋光臣が担うが、男性が男性を演じるという当たり前なことも新鮮に映るのが不思議である。

演じ手が演じている自分を新鮮に感じていることがヒシと伝わるため、荒唐無稽とも言える物語にシカと命が吹き込まれ、リアリティすら生まれる瞬間が何とも楽しい限りだ。

あらかじめあるイメージをいい意味で裏切るキャスティングは、俳優自身が役と自分との間を埋める創造力を喚起することにもつながることにもなると思われ、予定調和を許さぬ作品創りの意気に、観る者は前のめりになっていくことになる。

脇を固める俳優陣の確かな存在感が、作品にふくよかな印象を付与していく。正名僕蔵は実際の犬を引き連れ格闘する姿も可笑しく、クラウンな役回りを表面的になぞることなく悲哀さえ感じさせラーンスという役柄に陰影と奥深さを与えていく。横田栄司はプローティアスの父アントーニオとミラノ大公を嬉々として演じ、氏が持ち得るスケール感と相まって作品に威厳と大人の視点をクッキリと刻印する。シルヴィアの許婚シューリオを河内大和が演じるが、役柄からコミカルなスピリッツを発掘し、台詞に行間を笑いで埋めていく。

最後の大団円の、あっと驚く能天気な展開もまた楽しいと感じさせるような説得力が生まれるのは何故であろうかと思案するが、役者たちのリアリティある存在感がストレートに伝わってくることに他ならない。ジェンダーの概念を軽々と超越した彼方に広がる自由な世界を創造した喜劇として記憶に残る作品になったと思う。

日本のみならず海外でも大人気の漫画「ワンピース」の舞台化である。しかも歌舞伎という日本の伝統芸能での上演となる本作であるが、一体、どのような作品に仕上がるのかが予測不能な演目であるところに、大いに惹かれて劇場へと向かうことになる。

「ワンピース」という冒険活劇は、先代の猿之助が打ち立てた“スーパー歌舞伎”の源泉である「ヤマトタケル」にも似た武勇伝であり、歌舞伎というスタイルに非常にマッチする題材であろうことは、観る前から予測はしていた。しかし、本作はその予想を遥かに凌駕し、第一級品のエンタテイメントとして成立する出来栄えだ。

本作の成功の要因の一端は、先代の猿之助から、これまで“スーパー歌舞伎”の創作に寄与してきた横内謙介が脚本・演出を担っていることが大きいのだと思う。長大な原作の中から、主人公ルフィの兄エースを奪還する“頂上戦争編”が取り上げられているが、「ワンピース」の様々なキャラクターが居並ぶエピソードが、過不足なく実に上手い塩梅でまとめ上げられ見事である。

座長の猿之助は、主演はもちろんのことであるが、演出も手掛けている。歌舞伎の伝統を踏まえた弾ける発破は強烈で、これでもかという外連味を惜しげもなく披露し観客を決して飽きさせることがない。宙吊り、早代わり、本水の中での立ち廻り、ゆずの北川悠仁作詞作曲のオリジナル歌曲が流れるなど、これでもかと様々な趣向が連打され、長尺な上演時間であるが飽きさせるような瞬間を与える隙がない。

猿之助が物語のセンターに聳立することで、歌舞伎界以外のフィールドからの参戦組を含む大所帯のカンパニーが一つにまとめ上げられ、強靭なパワーを遺憾なく発揮する。猿之助はルフィのキャラクターの中からスピリットをシッカリと掴み出し、漫画のキャラクターであるルフィを違和感なくリアルに造形する。また、女帝ボア・ハンコックをも演じ、女形の色香も堪能できるのも観客にとっては楽しい限り。オーラスでは赤髪のシャンクスまでに扮し、もう大満足である。

巳之助がいい。冒頭で、麦わらの一味のゾロを演じていたかと思うと、インペルダウン監獄のボン・クレーの愛らしくも力強いキャラクターを嬉々として演じ印象的だ。役に込める思いが、人一倍多いのではないかというパワーが放出され、思わず惹き付けられていく。白ひげ海賊団のスクアードを演じるのもおまけみたいでお得感タップリだ。

麦わらの一味のサンジにニューカマーランドのイナズマを演じる中村隼人は、現代的で溌溂とした氏のフレッシュな資質を全開させ、「ワンピース」という素材と、古典・歌舞伎とをブリッジさせる役割を担い、見事にその期待に応えていた。

右近の貫禄、春猿の艶やかさ、猿弥の洒脱、笑也の粋も、クッキリと印象に残る。浅野和之や福士誠治、壽島典俊などの現代劇からの参戦組も、歌舞伎役者たちの中でも違和感なく溶け込み、歌舞伎の新たなる可能性を斬り拡げ具現化するために大いに寄与している。

歌舞伎の外連と、漫画のダイナミックな展開との相性が抜群に良いことが証明された。子どもから歌舞伎初心者の大人までもが楽しめる新生歌舞伎の演目として、永きに渡り記憶に残る作品になったのではないか。続編も期待したい、エンタテイメントの逸品に仕上がった。

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