ロビーに入るとこれから役者が使う衣装がところ狭しと吊るされている。劇場に入ると、演出の蜷川氏、演助の井上氏、そして20人以上の役者が舞台上で開演に向けての思い思いの準備をしている。舞台中央には、「カピトリーノの雌狼」のオブジェが据えられる。純白の舞台上には設計図面のラインのような線の照明が映し出されている。開演時間。蜷川氏の掛け声と共にラインの照明は消え、ステージは一気に真っ白となり芝居が始まっていく。
日常から非日常へと跳躍する見事な幕開きである。
シェイクスピア作品の中で最も残虐な戯曲と言われる本作を、蜷川氏は単なる復讐劇として終わらせることなく、登場人物の行動に起因する欲望を掴み取り、人の本質というものを明らかにしていく。皆それぞれの人が自分の欲望を達成させるがために起こる悲劇は、欲望が強ければ強い程強烈に相手に突き刺さりはするもののそれだけに留まる訳もなく、その欲望は更なるパワーを持って乱反射し、自らを破滅に導いてしまうのだ。その直情さ、その愚直さ。人の人たる悲劇を俯瞰した視点で語る本作は、悲劇を通り越して喜劇にも思え、現在に至るまで相も変らぬ人間の欲望の愚かさを暴いて提示してくる。
残酷な流血は赤い糸で表現され、リアルではない、心が血を流しているのだと言う言い換えに成功している。また、純白の舞台の効果と相まって、残虐さではなく美しさが際立つ美術も出色である。
タイタスの吉田鋼太郎は運命に翻弄される武将を弱さも含めて表現し観客の心を捕らえて離さない。麻美れいの凛とした高貴さはこの振幅の激しい作品の中において中軸であるという説得力と美を体現している。真中瞳の迷いなき真摯さが心を撃つ。岡本健一は残酷さと色香を強烈にアピールする。その強烈さは最初に登場し暫く台詞もなく捕虜として囚われているシーンにおいてもその眼光鋭き眼力が客席にまで突き刺さる程だ。
あらゆる残忍な行いの後、物語は終焉を迎えるが、最後の最後、タイタスの孫が岡本健一演じるアーロンの生まれたばかりの息子を抱きかかえて「アー、アー」と何度も慟哭するシーンは忘れることが出来ない。結局は、自分自身の欲望は回りを巻き込み全ての人間を傷つけ嘆かせてしまうのだ、というメッセージを発し、それも、これからの世を担う子供にその思いを託すことで、グサリと心を抉られると共に微かに光も見出すこととなる。
簡単に割り切ることが出来ない人の善悪喜悲劇を全て包括し、ひとつの宇宙を作り上げることに成功した本作は、紛れもない秀作である。
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