楽しかった。見終わった後、単純に面白いと思えた。男が女を教育していくという物語のアウトラインは、現代では、その性差間の描き方に異論を唱える向きもあろう。しかし、本作は、台詞を変えたり特殊な設定を設けることなくストレートに戯曲と向き合い、ある種、教条的ともいえるこのシェイクスピアの喜劇に、見事に生命を吹き込んでいく。
その生き生きとした溌剌さを獲得し得た大きな要因は、市川亀治郎演じるキャタリーナと、筧利夫演じるペトルーチオ、この二人が持つ技量と他を圧倒するパワーに他ならない。シェイクスピアの台詞を、自らの役柄の強烈な意思として消化させ、発酵させ、そして、爆発させていくのだ。
しかし、この二人は出自も違うし、演技形態も全くといって良い程異質である。片や歌舞伎の薫陶を受けてきた異能であり、もう一方はつかこうへいや鴻上尚史の長大で深遠な戯曲世界を体言させてきた異彩である。朗々として瞬発力あるキレの良さで相手に発破を掛ける亀治郎を受け、筧は息をもつかせぬ機関銃のようなトークで矢継ぎ早に台詞を叩き付けるという応酬が連続して展開していくのだが、どう見ても1つの作品の中心に居並ぶには、テイストが違い過ぎるという印象を抱いてしまう。しかし、面白いのだ。これは、決して相手に与することなく、両人が絶対的な自己スタイルを確立しているからこそ成立し得ているのだと思う。この二人は、戯曲の両端から、演劇の既成概念を敢えて越えた地点へと、悠々と本作を押し上げてしまっているのだ。
中心に揺るがぬ巨木があると、周りもそれに釣られて更なる高みへと上っていくことになる。キャタリーナの妹ビアンカを演じる月川悠貴と、彼女に恋焦がれるルーセンショーを演じる山本裕典のカップルも、フレッシュな資質を生かしながらもパワフルな演技で存在感を示していく。しかし、このパワフルなトーンに微妙に乗り切れない御仁がいたということも否めない。これまで切ったことのないようなカードをスピーディーに提示していかなければ、逆に変に浮き上がってしまうという、役者にとってもこの上なく技量が試される場が、形成されることにもなった。
絶妙なキャスティングであるが、その資質を寛大に受け止め、最大限に才能を引き出し、また、作品世界が壊れぬよう、作品全体のパワーバランスを繊細に配慮していった蜷川幸雄の演出も特筆すべきだと思う。今回は敢えて仕掛けを設けることもなく、背景としてボッティチェリの「春」を部分的に使用しているだけのシンプルな構成である。しかし、この布陣であれば、役者を全面に押し出すという戦略は正解であったと思う。結果、観る者も役者の演技に集中することとなり、安心して物語世界と対峙することが出来たと思う。
また、本作はこの戯曲に潜む他の側面も炙り出していく。ルーセンショーは高貴な身分であることを隠し従者と立場を逆転させ、家庭教師としてビアンカの傍に近付くことになるが、ここには階級の転換を遊ぶ視点がある。従者トラーニオやピオンデロを演じる田島優成と川口覚も溌剌として印象に残る。
そして、当時の女性にとって婿探しという当時の習いが重要な位置を占めているということも、登場人物たちの意識を縛る大きな要因であったことが、しっかりと通底音として描かれている。自由奔放なキャタリーナである。今であったら、我が道を行くという選択肢もあるだろうが、その当時は女性が一人で生きていくというチョイスはないのである。その見えざる空気感が、彼女たちの行動の起因として染み込んでいるため、言動が破綻して見えることがない。
また、物語の枠組みとして、領主が酔いつぶれた小作人を高貴な身分であると騙すシーンが冒頭で描かれ、小作人を演じる役者が実際に劇場の観客席でこの芝居を見続けている。これは、ここで演じられている物語は旅役者たちが演じる虚構であるという視点を持って描かれており、作品が持つ説教臭さを押し付けることなく、中和させる役割を担っていく。男女の睦みごとで右往左往する人間を、パースペクティブに高みから哄笑しているようでもあり、まさに、喜劇、であると思う。
じゃじゃ馬のキャタリーナはこれまでとは打って変わって従順な妻となり、お淑やかなビアンカも貴公子ルーセンショーと結ばれることになるわけだが、ビアンカがこれまでの態度を一変させ、ルーセンショーに対してかかあ天下振りを垣間見せる最後の台詞廻しが、現代へと物語をブリッジさせて大いに笑えるアクセントになっている。
隣の席に居た、多分普段はそう芝居もあまり見ないであろう山本裕典ファンと思しき20代前半の女性たちが、観劇後「超面白かった、DVD出たら絶対買おう」と話していた。本作のアプローチは、正解であったのだと思う。
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