2010年 10月

楽しかった。見終わった後、単純に面白いと思えた。男が女を教育していくという物語のアウトラインは、現代では、その性差間の描き方に異論を唱える向きもあろう。しかし、本作は、台詞を変えたり特殊な設定を設けることなくストレートに戯曲と向き合い、ある種、教条的ともいえるこのシェイクスピアの喜劇に、見事に生命を吹き込んでいく。

その生き生きとした溌剌さを獲得し得た大きな要因は、市川亀治郎演じるキャタリーナと、筧利夫演じるペトルーチオ、この二人が持つ技量と他を圧倒するパワーに他ならない。シェイクスピアの台詞を、自らの役柄の強烈な意思として消化させ、発酵させ、そして、爆発させていくのだ。

しかし、この二人は出自も違うし、演技形態も全くといって良い程異質である。片や歌舞伎の薫陶を受けてきた異能であり、もう一方はつかこうへいや鴻上尚史の長大で深遠な戯曲世界を体言させてきた異彩である。朗々として瞬発力あるキレの良さで相手に発破を掛ける亀治郎を受け、筧は息をもつかせぬ機関銃のようなトークで矢継ぎ早に台詞を叩き付けるという応酬が連続して展開していくのだが、どう見ても1つの作品の中心に居並ぶには、テイストが違い過ぎるという印象を抱いてしまう。しかし、面白いのだ。これは、決して相手に与することなく、両人が絶対的な自己スタイルを確立しているからこそ成立し得ているのだと思う。この二人は、戯曲の両端から、演劇の既成概念を敢えて越えた地点へと、悠々と本作を押し上げてしまっているのだ。

中心に揺るがぬ巨木があると、周りもそれに釣られて更なる高みへと上っていくことになる。キャタリーナの妹ビアンカを演じる月川悠貴と、彼女に恋焦がれるルーセンショーを演じる山本裕典のカップルも、フレッシュな資質を生かしながらもパワフルな演技で存在感を示していく。しかし、このパワフルなトーンに微妙に乗り切れない御仁がいたということも否めない。これまで切ったことのないようなカードをスピーディーに提示していかなければ、逆に変に浮き上がってしまうという、役者にとってもこの上なく技量が試される場が、形成されることにもなった。

絶妙なキャスティングであるが、その資質を寛大に受け止め、最大限に才能を引き出し、また、作品世界が壊れぬよう、作品全体のパワーバランスを繊細に配慮していった蜷川幸雄の演出も特筆すべきだと思う。今回は敢えて仕掛けを設けることもなく、背景としてボッティチェリの「春」を部分的に使用しているだけのシンプルな構成である。しかし、この布陣であれば、役者を全面に押し出すという戦略は正解であったと思う。結果、観る者も役者の演技に集中することとなり、安心して物語世界と対峙することが出来たと思う。

また、本作はこの戯曲に潜む他の側面も炙り出していく。ルーセンショーは高貴な身分であることを隠し従者と立場を逆転させ、家庭教師としてビアンカの傍に近付くことになるが、ここには階級の転換を遊ぶ視点がある。従者トラーニオやピオンデロを演じる田島優成と川口覚も溌剌として印象に残る。

そして、当時の女性にとって婿探しという当時の習いが重要な位置を占めているということも、登場人物たちの意識を縛る大きな要因であったことが、しっかりと通底音として描かれている。自由奔放なキャタリーナである。今であったら、我が道を行くという選択肢もあるだろうが、その当時は女性が一人で生きていくというチョイスはないのである。その見えざる空気感が、彼女たちの行動の起因として染み込んでいるため、言動が破綻して見えることがない。

また、物語の枠組みとして、領主が酔いつぶれた小作人を高貴な身分であると騙すシーンが冒頭で描かれ、小作人を演じる役者が実際に劇場の観客席でこの芝居を見続けている。これは、ここで演じられている物語は旅役者たちが演じる虚構であるという視点を持って描かれており、作品が持つ説教臭さを押し付けることなく、中和させる役割を担っていく。男女の睦みごとで右往左往する人間を、パースペクティブに高みから哄笑しているようでもあり、まさに、喜劇、であると思う。

じゃじゃ馬のキャタリーナはこれまでとは打って変わって従順な妻となり、お淑やかなビアンカも貴公子ルーセンショーと結ばれることになるわけだが、ビアンカがこれまでの態度を一変させ、ルーセンショーに対してかかあ天下振りを垣間見せる最後の台詞廻しが、現代へと物語をブリッジさせて大いに笑えるアクセントになっている。

隣の席に居た、多分普段はそう芝居もあまり見ないであろう山本裕典ファンと思しき20代前半の女性たちが、観劇後「超面白かった、DVD出たら絶対買おう」と話していた。本作のアプローチは、正解であったのだと思う。

塩野七生の「ローマ人の物語」は人物に迫る筆致が、その者に対する功績や人物像への評価と相まって、氏が感じる男としての魅力を冷徹に描いて独特であるが、本作「カエサル」は、歴史的なエポックにおける武勲としての姿と、プライベートでの放蕩さをパラレルに描いていくことで、カエサルという人物に迫ろうという構成になっている。

時に叙事的に、また叙情的にと、ともすると物語が散逸しかねない危険性を同時に孕む側面を持つ脚本であるとも思うが、作品に大きなうねりを作り出す要因となったのは松本幸四郎の存在があったからに相違ない。物語の矛先や俳優陣の意識などが、松本幸四郎という大木に向かって全て収斂していくのだが、松本幸四郎はその全てを受け入れる土壌があるため決して破綻することがないのだ。

作品としてはまとまりを見せる出来であるとは思うが、松本幸四郎のパワーを持ってしても、本作がカエサルという人物像にどこまで迫ることができたのかというと、少々、疑問が残る。「ローマ人の物語」という原作があるため観る者のハードルも自然と上がることになるが、両作はカエサルを英雄としてではなく一人の人間として描くという点において共通しており、台詞にも原作からの引用があることなどにも起因するのであろうが、どうしても原作の断片の集積である印象は免れない。

また、独白が多いというのも気になるところだ。沢山の人物を描くには独白は必要な表現であるのだと思うが、そこでは登場人物たちが相まみえるような舌戦が描かれることはない。カエサル以外の者たちは毅然と立ち続けるカエサルの周りを巡る衛星のようであり、まるでカエサルを語るエピソードのピースのひとつとして存在しているように思えてくる。個々の個性を際立たせるというよりは、各々が現状や心情を説明するために台詞を利用しているような感じさえする。しかし、台詞の中で何回も語られる、暴力の連鎖を断ち切るために必要な「寛容」という言葉は、松本幸四郎演じるカエサルを通じて我々観客の胸にズシンと響いてくる。

演出的には、石柱を盆で廻し、シーンを切れ目なく継続させていく工夫などがされているため、エピソードは切れずに繋がっていく。また、台詞を頼りに物語をどう正確に伝えていこうかということに執心しているようでもあり、2幕冒頭の亡霊とカエサルが対峙するシーンなどは、その演出が見事に結実した場面であると思う。

それぞれの場面を捌き方は上手いなと思うのだが、テキストと役者を注視する演出家の視点は、その作品を覆うローマという時代そのものの空気感を体感させてくれるような雰囲気造りにまで手さばきが及んでいない気がする。石柱やトーガ以外にも、可視的、可聴的なるもので、何かその時代の雰囲気を醸し出すことは出来なかったか。「ローマ人の物語」であり、「カエサル」でもある。全体を貫く、何か一貫した強烈なローマというものが立ち上ってくると、作品がさらに豊かな香りを放つことになったと思う。

小澤征悦は安定感があるが、高橋惠子演じる母との間の葛藤があまり見てとれない。瑳川哲朗と勝部演之は、重鎮の存在感で作品にグッと重厚感を与えている。渡辺いっけいの軽妙さは異彩を放つが哲人の重みが感じられない。高橋惠子は何ものにも捉われることのない奔放さでカエサルの洒脱と上手く拮抗する。水野美紀は意外な役どころで新たな顔を見た気がする。小島聖はクレオパトラのカリスマ性ではなく人間性を滲み出させるが、強烈な御仁の中において少々印象が薄い。小西遼生はピュアさが際立つが初代皇帝の資質の核が見えてこない。

松本幸四郎の力はやはり偉大である。例えその作品がどのような要因を持っていたとしても、それを自らに引き付けパワーアップさせてしまう天賦の才能を持ち合わせている。松本幸四郎が造形するカエサル像が、本物のカエサルと似ているかどうかということは、もはや問題では無い。カエサルのエッセンスを松本幸四郎が掴み取り、自らの肉体を通すことで、ある一人の英雄の生涯の断片を浮かび上がらせていくのだ。松本幸四郎を得て、「カエサル」は、カエサルに生命を吹き込むことが出来たと思う。

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