2009年 11月

どういう経緯があったのかは分からないが、蜷川幸雄がこの密室劇を手掛けるとは思ってもみなかった。この戯曲が名作ということに異論はないであろうが、派手なスペクタクル性がある訳でもなければ、大勢の人物が登場する群集劇でもない。氏の興味とは程遠いところにある戯曲だと感じていたからだ。しかし、時代性ということであれば、陪審員制がスタートしたこの今の日本において、あくまでもアメリカという異国の話であった内容が、グッと親近感を持って訴えかけてくることにはなったとは思う。時代を斬る氏の興味のポイントは、そんなところにあったのであろうか。

作品は叙情的にスタートする。洗面台の蛇口から流れる水がフューチャーされ、観客はその滴り落ちる水をしばし眺めることになる。水が流れるという、ごく当たり前のことに、演出家は何を象徴させたかったのだろうか。自然が自然のままであることの自然さ、そんな当たり前のことを正しく捉えることの大切さ。そんな思いが頭の中をよぎっていく。

実にいい作品に仕上がったと思う。面白い。感動した。戯曲が内に秘めた、爆発寸前のスペクタクル性が見事に掬い出されていたので、観客の目が思わず釘付けにされてしまうのだ。何がスペクタクルかと言うと、それは人の思い、である。誰もが秘めている何かしらの思いや葛藤、そんな気持ちが交錯する様が、実にスリリングに展開していくのだ。

そのヒリヒリする緊張感を作り出していたのは、技術と年輪を併せ持った俳優陣に他ならない。どの役者も、その実力をいかんなく発揮出来ていたことが、その成功の大きな要因であると思う。また、誰もが変に突出することなく、実にいいアンサンブルを組めていたことも、作品にリアリティを付加させていたと思う。大仰な芝居をやられると、浮きますもんね。
その辺は皆さん大ベテランなので、他の役者さんや、その場面の状況を冷静に捉えながら、チューニングをされたのでしょう。出るところは出る、抑えるところは控えるという緩急が効いているんです。だから、抑えている時でも、突出した時の感情がつながっていているので、全員の気持ちが途切れない。その感情の紡ぎ方を実に繊細に組み上げていっているので、無罪、有罪の判定を翻していく様に、説得力が生まれてくる訳なのだ。

また舞台を観客席が四方から囲むという設定も、演じる方は勿論のこと、観客にもいい緊張感を与えることになった。自分も、舞台上で演じている役者の一員になったような錯覚を覚えてしまうのだ。また、向こうに別の観客が芝居を見ている様が見れるという状態は、この事の顛末を一緒に目撃している共犯者のような気分にもなってくる。観客を物語に巻き込む、いい舞台設定であると思う。

中井貴一は、三谷芝居などのコメディ演技とは打って変わって、軽妙だが牽引力ある座長の風格で、物語全体を引っ張り上げていく。対するは、西岡徳馬。真っ向から無罪判決に対抗するこの役柄は、声高に自分の主張を回りの人々をアジテートしていくという、テンションの高い感情を要求されるが、西岡徳馬のべたつかないクールな資質が、激昂するだけではない、複雑な感情を滲ませ絶品である。筒井道隆のピュアさ、辻萬長の父性的な視点もいいアクセントだ。田中要次の洒脱さ、斎藤洋介の愚直さ、石井愃一の一本木さ、大石継太の世をすねたような態度も面白い。ちょっとした間合いに可笑しさを滲ませる柳憂怜、岡田正の体躯と誠実さ、大門伍朗の怒りの持続、品川徹の枯れ加減、新川將人の精悍さ。誰をとってみても、くっきりとその役柄の性格付けを自分のテイストに染め上げ、よくぞここまで生き生きとした人物に造り上げていったと感心しきりである。個性のぶつかり合いが面白いのだという、まさに見本のようなケースであると思う。

名戯曲を語り継がれるような名作に仕上げた、この作品に関わった方々全員にエールを贈りたいと思う。

「赤鬼」は、タイの大衆芸能“リケエ”の様式で演じられる。起源は、マレーシアからのイスラム系移民により伝えられたイスラム教の詠唱“ディケー”にあるという。タイの伝統楽器による伴奏に台詞をのせ、一種のタイ版ミュージカルのような形式で物語は進行していく。衣装もタイの古典舞踊などで着られているような、ゴールドを多用したきらびやかなものなので、演目は「赤鬼」なのだが、一見、タイ古典舞踊の様相だ。台詞は舞台上下にあるスクリーンに字幕が投影される形式である。

様相は独特であるが、中身はしっかりと「赤鬼」であった。原本を、ただタイ風な演出を施しただけとも言える位、野田秀樹の戯曲に忠実だ。器を入れ替えても見事に成立する戯曲の素晴らしさを再認識すると共に、タイのアーティストのクォリティの高さも感じられる作品に仕上がっていた。

伝統に裏打ちされた技術が魅力的であるのはもちろんなのであるが、役者たちのコミュニケーション能力が極めて高いことにも驚いた。舞台の上で演じられる日常とは別次元の話を、役者たちはしっかりと客席の地平にまでブリッジして届け、観客をうまく話に巻き込んでいくことを飄々とやってのけるのだ。これは、役者としての資質というよりは、一人の人間として、他人に心を開いているから成せる技なのではないかと思う。

相手のことを思いやるという視点を、きっと普段の生活から持ち得ているのだ。そこには、自我の強い独りよがりな我がままさなどは微塵もないため、だんだんと観ているこちら側も、気持ちが良くなってくる。しかもタイ語で、タイの装束で、タイの伝統音楽である。しばし心はタイへと飛翔しゆったりと癒され、また話の展開にもキューンと胸がしめつけられた。極上のエンタテイメントがたっぷりと五感で堪能出来る秀作に仕上がったと思う。

「赤鬼」もそうであるが、「農業少女」にも装置らしい装置は存在しない。いくつかの箱が、椅子やビルになったりはするのだが、このイマジネーションを喚起する手法が随所で見事に成立しているのだ。一瞬の内に状況や人格がチェンジするスピーディーな展開は野田芝居の醍醐味だが、その難易度の高いハードルを易々とクリアしているのだ。台詞はイヤホンガイドで日本語のフォローがされている。

作り手も演じる側も、クレバーだということなのだろう。いらないものを出来るだけ削ぎ取ってシンプルに真髄のみを抽出するのは、上級のアーティストだからこそ出来る技であるが、このカンパニーは誰もがその上級の感覚を身に付けている。役者たちのプロフィールを見ると、皆、役者以外の肩書きがあるんですよね。作家、演出家、音楽家、プロジェクト・マネージャーなどなど。だから、役柄や物語なども、いい意味で客観的に捉えることが出来るのでしょう。どう見えるのかという視点が欠如したアーティストは、逆に観るのが辛いですからね。「赤鬼」同様、こちらのカンパニーの役者たちも、コミュニケーション能力の高さが、やはり目に留まります。

翻案・演出:ニコン・セタンは素晴らしい才能だと思うが、パリのルコック国際演劇学校で学んだとある。やはり他流試合をされているんですね。文化を創造する者は一部の例外はあるにせよ、やはり様々な文化と対峙することで、更に硬度の強い作品を生み出すことが出来るのかもしれない

充分に堪能できた濃密なひとときであった。演劇を観たというより、刺激的なアートを体感した感覚に近い観後感である。それは日常をなぞると言うよりは、現状に発破を掛ける提案になっているということだ。他のタイ演劇を観たことはないが、野田秀樹のような卓越した才能のDNAが、異国の地でこうして花開いているとは、日本人もうかうかしてられないなと、ヒシヒシと感じさせられたプロジェクトであった。

アメリカを代表する名門一家でジャクリーン・ケネディの叔母と従姉妹である母子の話である。1幕目は、母子がかつての栄華を謳歌する時代を描き、2幕目は住む屋敷はそのままに、困窮した生活に流されるままゴミ屋敷と言われ州より退去命令が出る程落ち込んでしまったふたりをフューチャーする。アメリカではドキュメンタリー映画の公開でカルト的な人気を誇るふたりのようであるが、本作はあらかじめ事前知識がなくとも楽しめる分かり易いミュージカルになっている。

誰もが観て理解できるものがブロードウェイミュージカルの基本ではあると思うが、こういったちょっとクセのある題材でも、すっきりと綺麗に物語の枠組みの中に当てはめられて見せられると、もうちょっと、ドロドロとした部分も見たいなという欲求が出てくる。いや、母子が罵倒し合うように相手を罵る会話などもありアンダーな切り口もあるのだが、やはりクライマックスは歌で昇華されてしまうので、健康な後味が残るのだ。それを良しとするのかしないのかは、観る者によって様々ではあるとは思う。

また宮本亜門の演出も華やかなんですね。観客の大部分は異次元の夢物語も観にわざわざ劇場に足を運ぶのであるのだから、演出家の意図は正しい判断なのではあると思う。しかし題材の本質を深くえぐり出すというよりは、母子の関係性の在り方と生活様式の変化にポイントを置いていると思われるため、いつもとは違った包装紙ではあるがこういった模様もいいでしょうというような、表層的な印象を抱かされてしまうのも否めない。故に、宮本演出では、どれだけ作品の幅を拡大できるノイズを持った役者がキャスティングされるかによって出来が大きく左右されることが多いと思う。

そういう意味では、「スィニー・トッド」に続いての大竹しのぶの起用は、作品をより深く広く拡大するパワーに満ち溢れていて圧巻である。悪態をつくその表向きの其処此処から、クルクルと目まぐるしく変化させながら感情のヒダを表出させ、美しく整えられた物語や歌、そして演出家の世界観を、内側からあっさりと破いてみせるのだ。そこにはある種様式化したスタイルを持つミュージカル女優などには決して出せない、リアルさが見えてくる。1幕では母の若かりし頃、2幕目ではオールドミスの娘を演じるが、母の苦悩と娘の苛立ちをそれぞれに演じ分けて見事である。しかも、この作品全体のテイストと自分とのバランスを考慮しながら、自らがノイズとなりながらも大きく突出し過ぎることはない。

草笛光子は貫禄、である。舞台に存在しているだけで、イコンと成り得ているのだ。勿論、大竹しのぶとの舌戦も見事で、軽く一歩引いての丁々発止の様はまるで音楽のように流麗で心地よい。大竹しのぶとはまた違ったエンタテイメントの方向性へと舵を取り、作品に清廉なふくよかさを付け加えていく。

話の内容に比して、意外にも薄味な印象ではあったが、この劇場でこの観客層に提示するテイストとしては、正解に近い照準なのかもしれない。但し方剛の美術が、特に2幕目に関しては毒気を牽引する装置として異彩を放っていたとは思う。観劇後、ドリンクを傾けながら語らうには暗くなり過ぎないいい頃合なのだとは思うが、やはり、もう少し異質なアクセントで作品世界をもっと広げて欲しかった気がする。

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