2014年 12月

開演時間になると、舞台上からスルスルとスクリーンが降りてきて、日比谷近辺の空撮シーンが映し出された後、カメラは日比谷公園に居る人々を活写していく。そして、その中に居る人々が、其処此処で歌い始める。どうやら、“フリーハグ”を信条とするグループの人たちが、行動を起こしているようであるのだが、その人々は、本作の出演者であることがだんだんと分かってくる。

公園に集っていた人々と抱き合い、歌うことで幸せを分かち合いながら、皆が一丸となって走り始める。日比谷公園から日生劇場のエントランス、大階段、ロビーへと映像は進み、集団は1階客席へと向かい、ドンと扉が開け放たれると皆が劇場内に、雪崩れ込んでくるという趣向だ。

12月の17時開演時に間に合うように劇場に入った際に、辺りはすっかり暗くなっていたのだが、映し出されていた映像は、晴れた昼間のシチュエーション。本編導入へのダイナミックさは感じられたものの、サプライズ感は少々薄まってしまったかな。福岡、愛知、大阪での公演もあるとのことなので、毎回、映像が変わるのでしょうね。

ヴェローナで暮らす二人の若者と従者が、大都会ミラノへと飛び出て巻き起こすコミカルな音楽劇は、シェイクスピアの戯曲が原本に据えられている。1971年初演の本作は、当時の政治的気運や風俗などが織り込まれ、シェイクスピア作品を見事に換骨奪取し、その時代を生きる観客との意識を地続きにさせる仕掛けが施されていく。本作においても、上演台本・演出を担当する宮本亜門はその精神を受け継ぎ、可笑し味の中にも現代社会をシニカルに皮肉る視点を盛り込んでいく。

プロテュースを演じる座長の西川貴教が作品を明るく元気に牽引していく。プロテュースはミラノへ武者修行へと向かうのだが、ヴェローナに残した島袋寛子演じるフィアンセ、ジュリアから解き放たれ、ミラノ大公の娘に恋してしまう。先に、ミラノへと出ていた同郷のヴァレンタインは堂珍嘉邦が演じるが、奇しくも同じ女性を好きになっていた。その女性シルヴィアは霧矢大夢が演じている。その4人の恋のさや当てを中軸として物語は展開していく。アーティストとしての個性と、歌を生業とする演者たちの魅力が存分に生かされ見事である。

音楽を担うガルト・マクダーモットが手掛けた「ヘアー」のフリーダムを希求するスピリッツが、物語展開や音楽に確実に影響を及ぼしていると思う。多分、当時、其処此処のストリートで勃発していた様なムーブメントが、そのままエピソードとして作品に持ち込まれているのだ。冒頭の“フリーハグ”の演出も、作品の奥底に流れる通低音にリンクする。

作品が抱合するあらゆるエレメントが、宮本亜門のエンタテイメントに徹する演出の手綱捌きによって、様々な人々の思いを収焉させ、見事に昇華させていく様は心地良い。

ミラノ大公を演じるブラザートムの、肩の力を抜いた洒脱さと尊大さが、体制側が孕む膿をカリカチュアライズして染み出させ惹起してしまう。プロテュースのフィアンセ・ジュリアの侍女を保坂知寿が演じるが、ベテラン陣がしっかりと脇から支えるこの布陣は、作品にドッシリとした安定感を与えていく。

堅苦しいことは一切抜きにして、出演者が皆弾けまくる楽しさに満ち満ちたハッピーな場面が続く展開は、どのような人々にも喜びが享受出来る様なサービス精神に徹していている。但し、政治的なアイロニーなどを、時折チクリと差し込むアクセントがボディブローとして効いてくることにより、混沌とした今を生きる人たちに向けてのエールがスクッと際立っていく。余談ですが、アフター・トークでのぶっちゃけ話、結構面白かったです。

2000年、2005年に次ぐ、松尾スズキ作・演出「キレイ」の再々演である。松尾スズキが創り上げる世界が、“世界”と地続きとなり活き活きと息づいていく。カスパーハウザーの如く10年もの間、地下に監禁されていたケガレと名乗る少女が物語の中心に聳立するが、タイトルに「キレイ」とあるように、「マクベス」の魔女の言葉なども呼応し、この世の矛盾を突く予感を彷彿とさせられていく。

世は3つの種族が100年に渡って闘いを繰り広げているという時代背景が機軸となっているが、過去と未来との時空間がランダムに刺し嵌め込まれていくため、叙事詩のような壮大さを誇ってもいくことになる。しかし、壮麗な体裁を取ることなく、現実に生きている人々を下世話な地平で活写していくため、人間が内包する可笑し味が前面に出てコミカルな様相を呈し面白い。

しかも、歌とダンスも擁するミュージカルでもある。これでもかと、エンタテイメントの要素を詰め込んだ、サービス精神満載の「キレイ」である。松尾スズキが、かつてシアターコクーンに乗り込んだ際に挑んだ溌溂とした意気込みが、これでもかと感じられるサービス精神が其処此処から溢れ出てくる。

戦争は果てしなく続き、なかなか終焉を見出すことが出来ない袋小路へと追い詰められていく。初演から14年を経た現時点においても、そのメッセージの強度は弱まることはない。奇しくも再々演という時を越えて、人間が犯してしまう普遍的とも言うべき愚考さを、明らかに証明してしまうことにもなる。

大豆を素材として作られた戦場で戦う兵士の存在が、近未来的な設定であると感じ入る。所謂ロボットなのではあるのだが、創作者の気まぐれで性器を持ったダイズ丸なる兵士が誕生し、ケガレと図らずも出会うことになる。性というファクターが持ち込まれることにより、人間という存在が戯曲の枠を超え、生々しくリアルに立ち上がってくる。

ケガレを多部未華子が、成長したケガレを松雪泰子が演じると言うシーンが交互に入り混じる構成が、物語が拡散し過ぎる勢いを回避する。ある女性に物語が収焉していくため、流転する展開に感情を載せ易くなっていくのだ。ケガレは、戦場で銃弾を受け危篤状態となるが、5年後に目覚め、ミソギと名前を改める。重層的に仕掛けられた構造に、まんまと翻弄されていくことになるが、それも何故かしら心地良い。

ケガレとミソギは、多部未華子と松雪泰子という女優の精神によって一つに連結する。決して時代に翻弄されることのないピュアさを保ちつつ、変異しながら逞しく生き延びていく姿は、まるで、生物の中から人間が勝ち抜いてきた生命力を誇っているかの様でもある。ダイズ丸を演じる阿部サダヲの軽妙さは作品の風通しを良くしながらも、観客が物語の術中に嵌る枷を取り払う客観性を作品に付与し、やはり稀有な存在なのだと認識していくことになる。

小池徹平演じるハリコナの阿呆で底抜けな明るさは作品に元気を注入し、大人になってからのハリコナを冷静に演じる尾美としのりとの隔世の差をクッキリと際立たせ、ケガレ=ミソギの変わらぬ姿と対比していく。

皆川猿時がしっかりとコメディ・リリーフの役割を担って笑いを噴出させ、田畑智子の上から目線の能天気なお嬢様振りが、ある種のクラス感を造形する。伊藤ヨタロウはアーティスト特有の独特な存在感を示し、登場するだけで場をさらう松尾スズキは、やはり圧巻だ。個性的なキャラクターが目白押しの座組みは、生のライブを堪能出来る楽しさに溢れ、楽しい限りだ。

登場人物たち全ての存在が乱反射を繰り返しながら、それぞれが浮き立ち輝き合うという幸福さに満ち満ちて嬉々としてしまう。戦争の無意味さを、ケガレ=ミソギは一体どのように捉えているのかは、観客の想いに完全に委ねられていく。松尾スズキ一座による顔見世興行の様なこの賑々しさは、観客を圧倒しながらも、観る者の心のシコリとなる置き土産をスッと差し示す秀逸な娯楽作であった。

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