2008年 5月

ああ、女性たちは、皆、こういうものが観たくて度々劇場へと足を運んでいるのだなあ、ということが良く分かった。

この「ルドルフ」であるが、ハプスブルク家の皇太子・ルドルフが男爵令嬢マリー・ヴェッツェラと不倫して自殺する話である、と概略だけを語ってしまうと味も素っ気もない。皇帝である父との確執、ハンガリー独立を願う勢力の胎動に心動かされ、冷え切った妻との関係性に苛立っている悩み多き青年が運命の女性と出会い、運命の歯車を狂わせていくのである。霧の中に差し込む光、救いの神! ロマンス小説と言うなかれ。歴史的史実に基づいた物語、なのだ。

宮本亜門は、その逡巡するルドルフの苦悩を徹底的にエンタテイメントとして描き出す。観客が思考せずとも分かり易く語られる華やかなロマンス、そして、悲恋というシンプルな物語。宮廷生活というセレブなライフ・スタイルも疑似体験出来る、目にも鮮やかな舞台美術やデコラティブなコスチュームやアクセサリー。そして、美男美女が歌い上げる歌の数々。まさに、夢のワンダーランドのような世界が息も吐かせぬスピードで繰り広げられていくのだ。

絢爛豪華な紙芝居とも、少女漫画趣味とも言えなくはない。しかし、五感にのみストレートに訴える方法は、ある意味潔いとも思える。五感を震わせることで、アタマの中がスッキリとクリアになるのだ。心情や言動を深読みしたり考えたりする必要がないことが、実はとても楽しいのだということに、今更ながら気付かせられた。

タイトルロールを演じる井上芳雄は、舞台全体を牽引する主役としてのパワーに溢れていた。また、彼が醸し出す清潔感は物語の中で純化され、作品全体に叙情的なニュアンスを与えることになった。また、笹本玲奈の明晰な演技は、作品に明るい印象を付加していく。資質が違うふたりであるからこそ出せる広がりがある。岡幸二郎は、笹本玲奈と歌の舌戦を展開するシーンが圧巻。そして、重鎮・壌晴彦。彼が出演していなかったら作品にこれ程までに人間的な厚みを与えることが出来なかったはずだ。劇団四季で培った朗々たる歌いっ振りも見事である。ベテラン勢を脇に配した贅沢なキャスティングの醍醐味を堪能させていただいた。

初日ということもあり、カーテンコールには主要スタッフの方々が登壇した。皆、過去にオーストリアという地で起こった出来事を、このように再生出来る喜びをかみしめていた。また、井上芳雄は、この舞台が新作ミュージカルということにも関わらず、1ヶ月弱という短期間で作られたことの大変さを語ったのが印象的であった。ドンドンとシーンを固めていかなければならないにも拘らず、宮本亜門はもっともっとと、いろいろな要求をしていたようだ。モノを作る時の、ギリギリまでこだわる姿勢は大切なことだなと感じ入りました。

開演直前まで雑事に忙殺されていたのだが、観ている内にスッカリ舞台に引き込まれていった。しかし、観終わって暫くすると、舞台のことはスッポリと抜け落ちていた。まあ、それはそれで、いいのかもしれないですね。

1980年に清水邦夫が劇団民藝に書き下ろした作品である。平安末期の源平合戦の時代を生きた平家の武将・斎藤実盛を軸として物語は展開していく。演じるは野村萬斎。そして、まずのっけからこの実盛の今は亡き息子、尾上菊之助演じる五郎が亡霊として父・実盛の守護神のように付いて回るシーンから話は始まる。この父だけが息子の存在を確認できるが、他の者は五郎のことは見えないという設定である。此岸と彼岸が混在し、幻想的な幕開きだ。また、以降展開していくエピソード自体も、現世なのか浮世なのかが判然としないシーンが織り込まれており、その幽玄さを湛えた雰囲気が独特の世界を創り出していく。

亡くなった五郎も、その兄弟六郎も、父の敵方である木曾義仲の元に走るが、五郎は死に、六郎は元の平家の軍勢に戻ってくる。また、かつて実盛が源氏に使えていた時、幼い木曾義仲の命を助け救ったという過去がある。運命の皮肉とでも言おうか。しかし、この物語には、木曾義仲の姿は登場しない。しかし、木曾義仲軍の内部が混迷し荒んでいる状態が突き付けられる。木曾義仲に代わり、秋山菜津子演じる巴が指揮を執っているが、裏切り者として、仲間たちがどんどんと粛清されていく。傍で見るのとは違い、崩壊の一歩寸前という有様だ。

この集団の崩壊に、かつてあったラジカルな政治活動集団をだぶらせて見ることはできる。壮絶な倶利伽羅峠の戦いが起因なのか、何か、他者が入り込むことが出来ないエアポケットのような時空間にハマってしまい、集団内部で抗争し続ける羽目に陥ってしまうのだ。しかし、ここでは「幻の心もそぞろ狂おしのわれら将門」であったような、浅間山荘事件等具体的な事柄を彷彿とさせるような演出は排除された。もっと普遍的なレベルに意識が押し上げられているのだ。現と幻が混在する話である。はっきりとした要因が曖昧なまま内部から自然壊滅していく集団の、状態、ではなく、意識、を掴み出すことに成功し、戯曲の本質があぶり絵のように浮かび上がって見えてくる。

野村萬斎が素晴らしい。具体的な集団を想起させられるような物語であるにも関わらず、それを超越させ語ることが出来た一因は、野村萬斎にあると思う。現実のあれやこれやの出来事に決して自分をまみえず、現実世界では戦いという一点だけに注視し、立ち回りの剣捌きも鮮やかであるが、また、亡霊である五郎と語り、敵軍である巴とは夢の中で出会う等、意識は其処此処へと闊歩して、留まることをしない。そうやってあちこちへと浮遊しながら意識の軸を変化させ、戯曲の底から核を掴み出してくるのだ。

尾上菊之助は、実は粛清されたのだという残忍さを引きずらず、明晰な台詞廻しにて、孤高のステージに佇む野村萬斎と見事に拮抗していた。狂言と歌舞伎の枠を超えた競演に全く違和感はない。流儀ではなく、両者共、物語や役柄の本質を掴み取っているからなのであろう。歌舞伎界からは坂東亀三郎も参加するが、直情的とも言えるストレートな演技が胸を突く。台詞廻し等に歌舞伎役者っぽい痕跡がなく、新劇の俳優のような印象を持った。秋山菜津子も揺れ動く心のひだを繊細かつ大胆に演じて安心して観ることが出来る。

そうであるのか、なかったのか。この世なのか、あの世なのか。戯曲に描かれる曖昧な設定が、ふわりと幽玄的に、かつ力強く描かれていて見事である。コンセプチュアルなテーゼを持ち込まなかったことが、うまく作用したのではないか。蜷川演出が、また、新たな側面を見せてくれたと思う。想像力を掻き立てられ、知的欲求を満足させてくれる作品であった。

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