三浦大輔の新作は、思いの外、温かな印象を与えてくれた。人間が心の内に秘めている欲望を掴み出し観客に叩き付けるような衝撃度は薄まり、切っても切れない家族の絆が自然と立ち上がってくるのだ。但し、そこで展開されるのは、やはり一筋縄ではいかない人間関係の綾の絡まり合いであり、予定地調和な芝居的な感情運びに陥ることなく、あまりにもリアルな光景が繰り広げられる様を注視せざるを得ない強靭な求心力はそのままだ。
物語は、小汚い男の一人暮らしのアパートの1室からスタートする。ベッドの上で半ケツを出しながらダラダラと寝そべっているのは峯田和伸。携帯電話にも出ず、ただただだらしなく横たわっているシーンがしばし続くことになる。物語が大きく動くことのない舞台と対峙しなければならないこの表現は、観客の嗜好性を真っ二つに分けるのではないだろうか。意図の有無は定かではないが、三浦大輔は演劇的ではない日常のリズムを提示することで、観客に演劇表現の新たな方向性を問うているようにも思う。
男はけだるく起き上がり、財布の中身を確認する。財布に何枚かのお札が入っているのかを確認した後、携帯電話を掛け始める。デリヘルへの電話だったようだ。会話の内容から、どうやら男は常連な様子だ。と、手にした携帯電話の留守電を聞き始める。弟から何度も留守電が入っている。その合間に、田舎の友人からの伝言が入っており、男の母親が亡くなったのだと告げている。茫然自失の男。慌ててデリヘルをキャンセルした後、男は田舎へと向かうことになる。何の外連味も帯びない淡々とした筆致で描かれるため、男の、無念さがひんやりと胸に突き刺さってくる。
男が実家に着くと、弟が家に待機していた。葬儀を終えた後、丁度、父が親戚の人たちを送っていって不在にしているらしいのだ。池松壮亮が演じる弟は、電話にも出ない、葬儀にも間に合わなかった兄への忸怩たる思いをストレートに言い放っていく。兄は、申し訳ない気持で一杯だ。この二人の感情表現のぶつかり合いのリアルさに目を剥く。そして、遂には取っ組み合いの喧嘩になる。身体のあちこちをぶつけながら合い見舞える二人の格闘振りは、真剣そのものだ。その迫力にドキリとする。
ハキハキとではなくトツトツと。隠喩ではなく短いフレーズで紡がれた日常会話。段取りは排除され、感情が生まれるまで語られない台詞。そして、その結果、長い沈黙の時間が舞台を覆うことにもなる。この創り手の急ぎ過ぎることにないペースが心地良い。
世の中ですんなりと居場所を見出せない人たちにとって、この劇空間は居心地が良いものに感じられるのではないかという気がしてくる。物事が自分の目の前でどんどんと進んでいく様を見て感じてしまう、ささやかな違和感、欠落感、決してのめり込むことが出来ない微弱な不協和音を身に纏う者たちなどが、自らの思いを滑り込ませることができる、エア・ポケットがここにはある。会話と会話の狭間に、自分の居場所を確保することが出来るのだ。ある意味での弱者がコミットできる優しさが、劇作の根底には忍んでいる。
話は、母の死後、時間を置かず父が連れてきた女の存在へとシフトしていく。父を田口トモロヲが、女を片岡礼子が演じていく。そのあまりの急展開さに、母を心から慕っていた兄弟は、女に反発していくようになる。しかし、自分の存在が肯定されていないと感じながらも、料理や洗濯など日常的なあれこれを日々黙々とこなしていく女の姿に、兄弟の心は掠め取られていく。
亡くなった母と女との存在が、“母”という存在において二重写しになっていく状態と、母になりたかった女が仮の息子に寄せる思いとが交錯していく。しかし、そこでは、誰もがアグレッシブに行動することはない。ただただ、事に成り行きに身を任せているだけなのだ。この何も起こらない微弱な熱量がリアルで良いのだ。
峯田和伸の役者にはない混沌とした感情を噴出させる様が、人間の多面性をクッキリと浮き立たせ観る者の共感性を獲得していく。池松壮亮の感情表現は絶品だ。憎悪だけに寄りきることのない、普通の男の安寧さも併せ持ち合わせるという、混沌とした矛盾に満ちた思いを明晰に体現していくのだ。田口トモロヲの二面性ある飄々とした中年男振りも面白く、片岡礼子の感情を押し殺したように佇む存在感も強烈に印象的だ。
メインストリームに乗り切れない、常に葛藤を抱えた人々の切ない気持ちを描いて絶品であった。三浦大輔がリアルさを突き詰め新たな表現方法を獲得した衝撃作である。
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