2014年 7月

三浦大輔の新作は、思いの外、温かな印象を与えてくれた。人間が心の内に秘めている欲望を掴み出し観客に叩き付けるような衝撃度は薄まり、切っても切れない家族の絆が自然と立ち上がってくるのだ。但し、そこで展開されるのは、やはり一筋縄ではいかない人間関係の綾の絡まり合いであり、予定地調和な芝居的な感情運びに陥ることなく、あまりにもリアルな光景が繰り広げられる様を注視せざるを得ない強靭な求心力はそのままだ。

物語は、小汚い男の一人暮らしのアパートの1室からスタートする。ベッドの上で半ケツを出しながらダラダラと寝そべっているのは峯田和伸。携帯電話にも出ず、ただただだらしなく横たわっているシーンがしばし続くことになる。物語が大きく動くことのない舞台と対峙しなければならないこの表現は、観客の嗜好性を真っ二つに分けるのではないだろうか。意図の有無は定かではないが、三浦大輔は演劇的ではない日常のリズムを提示することで、観客に演劇表現の新たな方向性を問うているようにも思う。

男はけだるく起き上がり、財布の中身を確認する。財布に何枚かのお札が入っているのかを確認した後、携帯電話を掛け始める。デリヘルへの電話だったようだ。会話の内容から、どうやら男は常連な様子だ。と、手にした携帯電話の留守電を聞き始める。弟から何度も留守電が入っている。その合間に、田舎の友人からの伝言が入っており、男の母親が亡くなったのだと告げている。茫然自失の男。慌ててデリヘルをキャンセルした後、男は田舎へと向かうことになる。何の外連味も帯びない淡々とした筆致で描かれるため、男の、無念さがひんやりと胸に突き刺さってくる。

男が実家に着くと、弟が家に待機していた。葬儀を終えた後、丁度、父が親戚の人たちを送っていって不在にしているらしいのだ。池松壮亮が演じる弟は、電話にも出ない、葬儀にも間に合わなかった兄への忸怩たる思いをストレートに言い放っていく。兄は、申し訳ない気持で一杯だ。この二人の感情表現のぶつかり合いのリアルさに目を剥く。そして、遂には取っ組み合いの喧嘩になる。身体のあちこちをぶつけながら合い見舞える二人の格闘振りは、真剣そのものだ。その迫力にドキリとする。

ハキハキとではなくトツトツと。隠喩ではなく短いフレーズで紡がれた日常会話。段取りは排除され、感情が生まれるまで語られない台詞。そして、その結果、長い沈黙の時間が舞台を覆うことにもなる。この創り手の急ぎ過ぎることにないペースが心地良い。

世の中ですんなりと居場所を見出せない人たちにとって、この劇空間は居心地が良いものに感じられるのではないかという気がしてくる。物事が自分の目の前でどんどんと進んでいく様を見て感じてしまう、ささやかな違和感、欠落感、決してのめり込むことが出来ない微弱な不協和音を身に纏う者たちなどが、自らの思いを滑り込ませることができる、エア・ポケットがここにはある。会話と会話の狭間に、自分の居場所を確保することが出来るのだ。ある意味での弱者がコミットできる優しさが、劇作の根底には忍んでいる。

話は、母の死後、時間を置かず父が連れてきた女の存在へとシフトしていく。父を田口トモロヲが、女を片岡礼子が演じていく。そのあまりの急展開さに、母を心から慕っていた兄弟は、女に反発していくようになる。しかし、自分の存在が肯定されていないと感じながらも、料理や洗濯など日常的なあれこれを日々黙々とこなしていく女の姿に、兄弟の心は掠め取られていく。

亡くなった母と女との存在が、“母”という存在において二重写しになっていく状態と、母になりたかった女が仮の息子に寄せる思いとが交錯していく。しかし、そこでは、誰もがアグレッシブに行動することはない。ただただ、事に成り行きに身を任せているだけなのだ。この何も起こらない微弱な熱量がリアルで良いのだ。

峯田和伸の役者にはない混沌とした感情を噴出させる様が、人間の多面性をクッキリと浮き立たせ観る者の共感性を獲得していく。池松壮亮の感情表現は絶品だ。憎悪だけに寄りきることのない、普通の男の安寧さも併せ持ち合わせるという、混沌とした矛盾に満ちた思いを明晰に体現していくのだ。田口トモロヲの二面性ある飄々とした中年男振りも面白く、片岡礼子の感情を押し殺したように佇む存在感も強烈に印象的だ。

メインストリームに乗り切れない、常に葛藤を抱えた人々の切ない気持ちを描いて絶品であった。三浦大輔がリアルさを突き詰め新たな表現方法を獲得した衝撃作である。

ハイバイの前川知大は主宰する劇団の活動の他、佐々木蔵之介や現・市川猿之助などとのコラボレーションも旺盛に行っているが、戯曲のみを提示し演出を委ねるケースは稀なのではないか。しかも、手綱を預けるのは演劇界の巨匠・蜷川幸雄。どのようなバトルと相成るのか、観る前から期待感が高まっていく。

舞台は21世紀も半ばを越えた日本。物語は、人が陽に焼かれて息絶えるシーンからスタートする。焼かれるのはノクスという新人類。仕掛けるはキュリオという旧人類。バイオテロに見舞われた後、奇跡的に回復したのがノクス。ノクスは若く健康な身体を保てる反面、太陽光の下では活動できないというダメージを抱えている。対するキュリオは、生き残ったこれまでの人間たちという設定だ。

ノクスは大きな苦悩からは解放されているが、太陽の下で逡巡しながら生きるキュリオが生み出す活力と相反する存在として双方は対峙している状態。細々と生きていたキュリオが、この事件を発端として更に追いやられることになる事の顛末が、畳み掛けるような短いシーンを積み重ねていく映像的な手法で描かれていく。

昼に生きる世界と夜に生きる世界の人々は、まるで合わせ鏡のようにことごとく相反する。陽の下で生きる、暗闇の中で生きる。老いることがない、歳と共に老いていく。物事を理論で捉える、感情が先行する。老いていく不安も解消されスッと全ての悩みが昇華したノクスに、常に心の中に葛藤を抱えるキュリオの若者たちは、憎悪と憧憬とがないまぜになった感情を抱くようになっていく。

蜷川幸雄は2つの人種が住む世界を、2層の異なる舞台装置を造形し可視化する。キュリオが住む世界は舞台上部に朽ちた長屋を配し、透明のアクリル版の床を通して見える地下にはノクスの住む世界を現出させるのだ。また、驚くことに、キュリオの世界の長屋は、「唐版滝の白糸」で使用したセットを移築したものらしい。朝倉摂の遺功に、思わず襟を正してしまう。中越司との新旧コラボが、物語の核心とも融和し合っていく。

蜷川幸雄は、2つの異なる世界を、決して現代の世相と重なり合わせるという安易な手法を取ってはいかない。二律背反する世界を、人間、誰しもが持っている善悪の要素と、世界という生き物が内に孕んでいる幾多の矛盾とを呼応させながら、グッと1つに収焉させていくのだ。対立構造をことさら拡大させることなく、世界は平和に向かって進化していかなければならないのだという成長を促しているかのようなのだ。

キュリオの若者を、綾野剛、前田敦子、内田健司が、ノクスの若者を、成宮寛貴が演じ、各人それぞれが持つピュアな資質が、作品に新鮮な色合いを付与させる。綾野剛がコミカルな側面を拡大させ存在感を示していく。成宮寛貴はアンドロイドが繊細な感情を持ったかのような硬質さを纏いながら、クッキリと綾野剛との対比を浮き立たせる。前田敦子は穢れのない純粋さが印象的。内田健司が混沌とした若者の心情を特異な存在感で体現する。

六平直政や中嶋朋子は、追いやられた人間の心の葛藤を繊細に情感を込めて造形していく。横田栄司はキュリオの憤懣のロールを受け持ち、憎憎しげな中にもやるせない切なさを滲ませ印象に残る。

山崎一と伊藤蘭は、ノクスとなった人種の特質を明晰に演じ抜く。冷静で淡々とした生き様の中に、さざ波のように微細に揺れ動く感情の起伏の表出に苦悩を滲ませ見事。大石継太は出自であるキュリオと今のノクスとの立場の狭間で逡巡する姿を生々しく体現し、物語を観客にグッと近接させていく。

立場の異なる綾野剛と成宮寛貴とが、今の世の中の色々な場所を見てみようと旅立つエンディングが最高だ。劇場内の通路をグルリと回り、舞台上へと戻ると舞台奥の壁が開陳し、リアルな今の渋谷の街へと飛び出していく様が一気に描かれる。惹起する二人の鼓動が観客とスパークする。“思い”が世界を変えていくのだという発破が心地良い。

生き方を模索する人間と、人間を覆うリアルな現実とをメタファーとして描いていきながら、そこから独自の世界を浮かび上がらせ、未来に向けての希望を暴発させていく。SF的なシチュエーションをリアルな地平から捉えた秀逸な作品に仕上がった。

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