2013年 10月

酩酊した。約2時間の上演時間中、劇世界の中にドップリと浸りきり、登場人物たちと共に生き、共に殉じた。青年アリダが迷い込む、朽ち果てた長屋が立ち並ぶ路地は、まるで観る者の心のエア・ポケットであるかのような袋小路。そこで展開される唐版の滝の白糸は、泉鏡花の世界を裏側から照射し咲き誇る婀娜花の如く、儚く美しい。

アリダと、その彼を長屋まで付け回してきたのであろう銀メガネ。因縁があり気なこの二人の丁々発止のやり取りがオープニングから怒涛のように展開していく。アリダは新進気鋭の窪田正孝、銀メガネは重鎮・平幹二朗が演じていく。

窪田正孝は、情感を湛える口舌の滑らかさで、唐十郎のめくるめくる言霊を明晰に謳い上げ明晰にアリダを演じ抜く。そのピュアな資質が役柄に透明感を付与し、作品にソウルを吹き込んでいく。また、時折、無声音による嘆息などを織り込み、言葉で埋め尽くされた世界に、言葉にならない思いを吐露し、観客の耳目を集めていく。堂々たる存在感だ。

平幹二朗もベテランの力量を最大限に発揮し、アリダとの台詞の応酬の中に、リアルさに帰着する真実さを染み出させていく。老獪な存在感が窪田正孝のフレッシュさと好対照で、絶妙なコンビネーションを示していく。銀メガネという出自がなかなか分かり難い人物を、不透明さを残しつつ演じるアプローチがスリリングだ。

10年程前に、銀メガネはアリダを誘拐しようとして、逮捕・投獄された過去があることがあり、アリダは1年前に兄が心中し、そこで生き残った相手方の愛人から電話を貰い、金を工面しての待ち合わせの場がこの路地であったことが、物語の進展と共に詳らかになっていく。兄が亡くなったのは、正面にある長屋の2階である。朝倉摂が構築した場末の世界は大胆さと繊細さを併せ持つ。

路地に何故か箪笥が運び入れられ、運送屋が広場に置き去っていく。出所したばかりの銀メガネは、アリダが愛人に渡すために用意をした金の無心をする中、羊水屋が現れ二人の間に割って入り羊水を押し売り、収焉しつつあった二人の関係性を四方に散逸させていく。鳥山昌克は羊水屋を体当たりで演じ、精密な台詞劇に猥雑さを打ち込んでいく。羊水屋により、物語は羊水の外へと飛び出した!

物語は風雲急を告げる。箪笥が空き衛門掛けが吊り下がっている光景を見せたその瞬間、箪笥の上に大空祐飛演じるお甲が真っ赤な衣装を纏い立ち現れる。その何とも格好いい驚きの演出に度肝を抜かれる。この登場の仕方は分かってはいたのだが、その光景を目の当たりにすると痺れてしまうのだ。名シーンだと思う。

大空祐飛が、気風のいい小股の切れ上がった情に溢れる女を演じる姿に惚れ惚れとしてしまう。アリダに頼んだ金は、そもそも兄が残した借金であり、小人のプロレスラーの巡業代へと充てるつもりだったようだ。お甲なりの筋は通ってはいるのだが、アリダの視点から見ると身勝手な女と映らないこともない。兄と心中したのではなかったのかと。しかし、お甲は、私は生き残ってしまっただけなのだ、と吐いていく。また、兄の落とし子もいて、困窮しているのだという事情も透けて見えてくる。プリズムのように様々な光を乱反射する人間像が、愛おしく哀しい。

お甲を慕って訪ねて来た小人のレスラーたちが集うシーンも白眉である。お金は工面出来るからと皆を労いお甲の姿を見て、アリダの心が揺り動かされる。小人たちが帰路に向かう際、夕陽が背後から彼らを照らし出す。そこに映し出される影を見て、「デッカイなー」と快哉する姿を見て、思わず目頭を熱くしてしまう。心に染み入る名場面、続出である。

金を手に入れるため、お甲は水芸を見せると言う。慕うものを助けるという切なる想いを、自らの身を切ることで成就させようと惹起する。見事な水芸が展開されるのだが、途中で水脈を絶たれたお甲は、手首を切って自らの血で水芸を見せるという決断を選択することになる。長屋の流し台で手首を切開したその状態のまま、流し台は長屋を突き破り宙を舞う。一部始終を目撃していたアリダは、お甲の返り血を全身に浴びて立ち尽くす。驚愕である。絶景である。至福である。

唐十郎の珠玉の詩情と、蜷川幸雄の唯一無為の演出術が見事にスパークした傑作。この作品に対峙する幸福なひと時の記憶を噛み締めることで、生きていく糧へと繋がるモチベーションがタップリとエンパワー出来る。観た後に、すぐ、また、観たいと思わせる稀有な作品であると思う。

野田秀樹が、美輪明宏を描くという、実にセンセーショナルな企画である。どうやら、美輪が自分を描くことを許諾するのは本作が初めてらしい。野田の才能に美輪が身を委ねてみたということか。どう花開くのかに、観る前から興味は尽きない。

作品は美輪の磁力に引き寄せられ過ぎることなく、美輪の人生に決定的な影響を及ぼしたであろう出来事を、野田秀樹の視点で紡ぎ合わせていく。クルクルと時空が交錯しながら展開していく世界観は、まさに野田秀樹の真骨頂であり、事実を野田流に翻案しながら、美輪の深層へと分け入っていく。

オープニングが天国から始まるのがユニークだ。現世だけには留まらない美輪の資質を描くにあたり、天国=別次元に息づいていた魂が、男か女であるのかの踏み絵を強要されることから脱して、この世に飛来したのだという飛躍した物語の発端を、説得力を持って描いていく。

MIWAは宮沢りえが演じ、共に舞い降りるアンドロギュヌュスならぬ安藤牛乳を古田新太が演じていく。古田の出で立ちは、黄色いヘアーも印象的な今の美輪を彷彿とさせる様相であるが、何せ、古田である。カリスマ化した今の美輪に対して、可笑し味を振り撒きながらも、核にある揺るがぬ信念をパースぺクティブに描き出し絶品である。宮沢りえは、シスターボーイと呼ばれた頃の美少年振りも艶やかに、古田と合わせ鏡のような立ち位置で美輪が持つピュアな美しさを体現する。

赤木圭一郎を彷彿とさせる役を瑛太が、母を井上真央が、三島由紀夫らしき人物を野田自身が演じていく。美輪の人生のキーパーソンをグッと絞り込んで筆致していくことで、ドキュメンタリーではない、一種の寓話化された世界観を創り上げることに成功した。

オールスターキャストであるが、その他の俳優陣は、美輪の生き様を彩る様々な異端の人々を見事に造形し、作品のテーマにグッと肉迫していく。

池田成志は父であったり、クラブのオーナーであったり、MIWAを受け入れる器の様な役回りを目まぐるしい勢いでコロコロと転回させていく。エッジを効かせた演じ分けが作品にキリリとアクセントを与えていく。小出恵介が演じるのは、インタープリター。あの世とこの世、日本とアメリカなど、異次元を繋ぎ翻訳する役割を示していく。小出の客観的な資質が上手く活かされていく。

浦井建治は、人生や水商売の酸いも甘いも嘗め尽くし堕ちゆく青年を、ピュアな資質で朗らかに造形していく。苦味を残さない清冽さが彼の特質だ。青木さやかは、人生の壁にぶち当たりながらも、絶えずポジティブに生き抜く女の強靭さを体現し、観る者に希望を与えていく。

美輪に欠かすことの出来ない“音楽”が、作品にあらゆるシーンに散りばめられているため、野田の我流に寄り過ぎることなく、MIWAに期待する観客の満足感を昇華させる事にも抜かりはない。また、音楽は時代を超え、普遍性を獲得し得るものだということを、まざまざと見せ付けられることにもなる。

物語は、その時代に生きた人物を克明に捉えていきながら、美輪の生地である長崎における原爆投下の歴史的事実も描くことで、購うことの出来ない大きな時代のうねりを明確に指し示していく。歴史の暗部を掬い取ることで、作品に奥行きと深さが生まれ、美輪は、まさに時代と共に生きてきたのだということがキッチリと刻印されていく。

想像もつかぬ逆境の中に身を置きながらも、自分を偽らずに前向きに生きることで、美輪は新しい地平を開拓していってしまうのだということが赤裸々に明かされる。強靭なパワーは、常に時代を切り拓いていくものなのだ。MIWAはいわば、そんな開拓者の象徴のような存在だといえるであろう。美輪を描くことで“生きる”ことそのものを表現し得た本作は、生命の普遍性を訴えながらも、生きることの哀歓を忍ばせ絶品であった。

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