2010年 8月

舞台は自然な流れでスタートする。舞台上で自主練をしていた役者たち数人がダンスのレッスンをし始めると、その輪が徐々に広がっていき、場は役者全員が一斉にダンスを踊るシーンへと一気に変転する。日常から非日常へと地続きで軽々と飛躍するこの幕開きは、前回と同様の演出ではあるが、観る者をグイっと舞台へと引き込む大きな牽引力となっていく。

このように舞台が作られていく背景にある役者たちの準備や努力の過程、プライベートでの葛藤や挫折、そして、本番舞台での迫真の演技という、いくつかの側面を交互に織り交ぜながら物語は展開していく。そして今回は、サブタイトルにもあるように、宿敵のライバル、北島マヤと姫川亜弓が、「奇跡の人」のヘレン・ケラー役をオーディションで競い合っていく姿が大きな見所としてフューチャーされるという構成になっている。

本公演は彩の国ファミリーシアターとうたわれているが、決して子ども向けではなく、大人の鑑賞にも堪えうる出来映えになっている。難解な表現を一切排除した、誰が観ても理解できる平易な表現手段を取りながらも、その表現が人間の本質を突くという鋭い切っ先をもっているため、深い人間洞察力が感じられるようになっている。膨大な量の原作の中から、そのエッセンスを上手く汲み取りながらも、その原作世界に深く斬り込み整理しまとめ直した青木豪の脚本の構成力は見事であると思う。

また、音楽劇ということで、ミュージカル仕立てになっているのだが、俳優陣の歌もなかなか聞きどころとなっており、寺嶋民哉の音楽も役者それぞれの役どころを引き立てる繊細な旋律を紡ぎ上げ、音楽の視点からキャラクターをより深く豊かに広げることに成功している。本作のためのオリジナルの音楽なので、役柄や俳優の資質に合わせた音楽作りが成されたのであろうが、音楽がしっくりと役者に馴染んでいて、何よりも無理めな感じがしないところが、安心して観ることができる要因にもなっている。

音楽劇とはいえダンスも重要なファクターとなっているのだが、キャスティングがやはり役者を中心に構成されているためか、ダンスを専門に極めた者が持つ技術の域に達していないということがどうしても気に掛かってしまう。もちろん役者が踊るという独自の味わいは醸し出すことが出来ていると思うし、不可能なハードルを用意しない振付にもなっているため、違和感なく観ることは出来る。また、時には踊れないことを、笑いへとスライドさせる手法を取ることもあり、これはこれで面白いのだが、他のパートが上手く機能しているがゆえに、惜しいというか、少々浮き上がって見えるシーンがあることは否めないという結果となっていると思う。

俳優陣は前回からの続投組が殆どであるが、やはり夏木マリの月影千草の存在感が圧倒的だ。見た目も原作通りの出で立ちでインパクトは絶大なものがあるのだが、物語の主軸に立つこのカリカチュアライズされたキャラクターがしっかりとこの実力派俳優によって演じられることにより、漫画の世界を劇化する際のキートーンが決定付けられることになる。漫画的なるものを、説得力を持ってリアルに変換することが出来ているということだ。

故に、大和田美帆や奥村佳恵が演じる天才肌の新進女優という役どころも、天才的なひらめきを感じるか感じないかという次元においてではなく、漫画とこのリアルな舞台との狭間のポジションに役者たちを置いて観ることができるため、それぞれの役柄はひとつの設定なのだと捉えることが出来る仕掛けになっているのだ。巧みな演出であると思う。

フライングや装置の素早い転換など、多くの仕掛けが施された演出は舞台を華やかに彩ることにもなるが、シンプルに役者をじっくりと見せるシーンも挟み入れるなど、緩急自在な蜷川演出は、最後まで観客を飽きさせることがない。まだ見ぬ「紅天女」が観られるのはいつのことになるのであろうか。次作も続けて公演できることになるよう期待したいと思う。

1927年にチェコで生まれたトム・ストッパードは、幼少期にナチス侵攻から逃れるため両親と共に故郷を後にする。そして、シンガポールへと亡命し、その後インドに移ることになるのだが、シンガポールに残った軍医の父が日本兵に捕らえられ死亡した後、母の再婚を機にイギリスへと居を移すことになる。この実人生自体が既にドラマチックであるが、革命や侵略が歴史を大きく転換させていく様をダイナミックかつ繊細に描きだした本作に、氏がこれまでに生きてきた半生が反映されていないわけがない。

しかし、氏の筆致はあくまでも冷静だ。生まれ故郷であるチェコの民主化運動「プラハの春」の時代から、共産主義が崩れ去った90年代に至るまでの時代を、イギリスに住むマルクス主義者のケンブリッジ大学教授と、故郷のチェコに帰った教え子であるヤンを通じて、この大きな時代のうねりに翻弄される人々の姿を炙り出す。そこには大規模なデモや闘いのシーンなどは一切なく、あくまでも人々の日常の生活を描くことによって、逆に社会を照射させるという手法を取っていく。

そして本作の一番の特徴は、タイトルにもなっているその時代が生んだ「ロックンロール」が、全編に至って幕間に流れるということ。1960年代当時は、反社会的ムーブメントのシンボルの様に扱われていたロックであるが、時代の変遷と共にその社会的な澱が全て剥ぎ取られ、闘いを無意味だと断じ、愛を持って自由に生きていくことの大切な思いが、現代を生きる我々観客たちに届けられることになる。このオリジナリティ溢れる一種の異化効果が、登場人物たちの人生を俯瞰して眺めるという視点を持ち得ることとなった。

戯曲の重層的な構造は、物語の核をシンボリックに炙り出していく効果を効かせていくが、その物語を開陳していく演出のアプローチが、学問的でいて少々物足りない。言葉の意味を、時代の空気を、台詞にどう載せて行くのかに演出のポイントが置かれているようであり、この壮大な戯曲に描かれた感情のヒダの1枚1枚を読み解くことに執心している。故に、物語が手のひらサイズの小ささに納まってしまい、時空を一気に貫くようなダイナミックなスケール感に乏しい印象を抱いてしまうのだ。時代というファクターが、透けて見え難くなっていると思う。

ケンブリッジ大学教授マックスの家のダイニング・ルームが度々登場するが、舞台の決まりごとで客席側にはもちろん壁も何もない状態になっている。しかし、この手前全面には、本当に何の壁もないかのように、登場人物がどの地点からも出入りが可能になっているという設定も解せない演出である。部屋の手前は庭という設定なのだと思うが、どの地点からでもその庭へと自由に出入りできるため、食器棚、ダイニング・テーブルが据えられ、玄関や奥の部屋へと通じるドアなどがあるにも関わらず、まるでオープンテラスのような状態なのだ。不思議な家である。

市村正親は30年以上に渡り揺ぎ無い信念を持ち続ける大学教授を演じ、その老いの姿も見事に説得力ある演技を披露する。秋山菜津子は1部では大学教授夫人を、2部ではその娘を演じるが、くっきりとそれぞれの役柄の悩みや痛みをストレートに発する役どころで、クッキリと女のリアルな心情を演じ分けで見事である。

武田真治は年齢を経るごとに、正直、その年齢に見合う老いが感じ取れない悔しさがある。時間の経過が彼に与えた、内面や外面の蓄積がなかなか感じ取れないのだ。黒谷友香には驚いた。30年間に様々な変遷を経て大学教授マックスと添い遂げるようになるのだが、全く見た目が変わらないのはいかがなものであろう。決して大袈裟な老けメイクが見たいわけではないのだが、若く美しいままであるという、この変化のなさ具合はどう見てもおかしいと思う。対する市村氏のアプローチと比較してもバランスが取れていない。長い時を経ても変わらず見える人も現実にも稀にはいるのかもしれないが、観客の思いを重ね合わせることができず違和感を抱かせてしまうことになるのであれば、このアプローチは失敗だと思う。また、そういう行為を容認した演出家もおかしいと思う。前田亜季の一本調子の学芸会的演技はパッショネイトだが感情の細かなニュアンスが感じられない。山内圭哉は独特の個性で反動分子を演じ新鮮な印象を残す。

戯曲の力強い世界観を市村正親や秋山菜津子が牽引するが、どうしても他の役者たちが、その足並みを揃えられなかったという悔しさが残る。また、演出は時空が交錯する重層的な本戯曲を、平面的な構築物として作り上げてしまったという印象は免れない。さらに、より深くこの作品世界に斬り込める余地は充分あると思うので、公演を重ねることでより戯曲の核心に迫ることが出来るよう期待したいと思う。

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