2018年 4月

ジョージ・オーウェルの「1984」は、全体主義国家が牛耳る未来世界を描いて文学史に足跡を残す名作である。「1984」年を優に超えた現在も、社会への警鐘を鳴らす存在は揺るぎないものがあると思うが、トランプ政権を彷彿とさせられるということで、トランプ大統領就任後、ベストセラーになったことでも昨今話題になった。

本戯曲は、2013年にロバート・アイクとダンカン・マクミランによって生み出された作品だ。演劇として2018年に上演する今、演出の小川絵梨子が、果たしてどのような趣向を凝らしていくのであろうかと思いを巡らせる。

幕開きは、小説「1984」と、その巻末に据えられた“附録”「ニュースピークの諸原理」について考察する人々が現出する。時代設定はいつなのであろうか。2050年以降であると推定される。しかし、この“附録”がきちんとフューチャーされることで、「1984」の世界は1984年の時代に留まることなく未来の視点を獲得し、2018年に向けて照射される。1984年と2050年以降の世界が地続きとなり、全体主義国家が跋扈する恐怖が観る者に沁み込んでくる。あれ、この恐怖は時代を問わずいつの世にも蔓延っているのではないかと、冒頭より感じ入ることになる。

時空が錯綜し、監視する者、される者が交錯する。善意と悪意の境目が曖昧模糊となり、人間の表裏の現出が予測できず、ままならない状態が連綿と続いていく。事の真実を探り、見極めていくという推理ものの様相も帯びてくる。一体、どの地点がリアルな出来事なのであろうか。妄想なのか、夢なのか、過去を演じることで体験学習をしている未来世界が基軸となっているのか、観る者に解釈を委ね展開が何ともスリリングだ。

全てが透明なベールで覆われている様な劇世界を、エッジの効いた切っ先鋭い手綱さばきで小川絵梨子が、戯曲の奥底から普遍的な真実を抉り出していく。光と影、此処とその向こうの空間が共存する世界の造形、隣り合わせに存在する異なる時代の空間など、相反する事象を、スピーディーでアーティスティックな様相を纏った場面転換で魅せていく手腕は特筆すべきだと思う。面白いし、観ていてとても刺激的だ。

思想、言動、行動が“ビッグ・ブラザー”によって監視される世界に発破をかけるウィンストンを井上芳雄が担っていく。氏が持つ清廉な佇まいは、世界の暗部を浮かび上がらせることに大いに寄与している。反体制の強烈な意思をアジテーションする訳ではないのだが、沸々と湧いてくる思いに拠る行動の一部始終が監視され断罪されていくという顛末が、今を生きる観客の怖れとリアルにリンクする様なのだ。井上芳雄の自然体が、観客と物語とを明確にブリッジしていく。

ともさかりえが作品に艶やかな華を添えていく。物語にふくよかな、人間的なアクセントを付加しながらも、人情に流されることなく、硬質な揺るがぬ意思を堅持し、その存在をくっきりと刻印する。

「ふたつの相矛盾する信念を心に同時に抱き、その両方を受け入れる能力」=「二重思考」の怖さを感じながらも、決して書き換えることの出来ないのがリアルな私たちの姿なのであろうか。今を生きる私たちに警鐘を鳴らす秀作である。この衝撃は劇場を出て、時間を経た今でも、心の片隅から取り除くことが出来ないしこりを残すことになった。

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