2011年 7月

荒涼とした荒野をイメージさせる空間が舞台上に広がっている。そこに何やらシンボリックな木が1本。この抽象的な舞台設定に対峙した時から既に予感はあったのだが、展開される物語はまさしく他に似たもののない、不条理劇とも言うべき、長塚圭史独自の世界観が繰り広げられていく。

世界の様々な戯曲に取り組む演出家としての側面を持つ長塚圭史だが、自作においてはリアルさから大きくかけ離れた物語を創り上げるのは何故なのだろう。阿佐ヶ谷スパイダースというホームグランドだからこそ、実験的な挑戦を推し進めたいという思いがあったのか。それ位、通常のドラマツルギーとは意図的に距離を置くその姿勢に、心が奪われていく。

自らがてんでバラバラの椅子を携えながら、登場人物全員が舞台上に現れるところから、物語は紐解かれていく。横田栄司演じる教師が滔々と教育について語り始めるのだが、かなりの長台詞だ。そして、安藤聖演じる物語の核となる朝緒の話が、次にフューチャーされていく。朝緒は、中村ゆり演じる高校時代の同級生に死を告げられ、葬儀で初音映莉子演じる女と出会うことになるのだが、その後、「目玉をなくした」と告げられる。そこに、中村まことと平栗あつみ演じる両親と、夫の伊達暁が絡み合ってくる。

関連性を消出したつながりのない出来事を敢えて結び付けていくことにより、白昼夢のような不思議な世界が現出していく。まるで、誰かの脳内を斬って開いて貼り付けた、そのままの状態を提示しているがごとく、そこに通底する意識の流れは実にパーソナルだ。これは朝緒の記憶を起点に迷宮の旅に出た想念が、細胞分裂をしながら別の意識とシンクロしている様なのかもしれないなとも感じていく。

そして、なくした目玉を探るため、朝緒は長塚圭史と中山祐一郎演じる探偵に引き合わされることになる。しかし、探偵たちは其処に在る記憶の深みにはまることなく、実に場当たり的に流れる意識に沿って、表層的な擬態を演じていくことになる。

事の成り行きが決して核心に辿り着くことなく、寄り道をする光景が延々と続いていくのは、やはり現実とは一線を画す次元の展開であるからに違いない。本作はその抽象を、演劇というナマものに置き換えようとする、長塚圭史の壮大な実験なのであろう。

実験にはリスクが付き物だが、長塚圭史はそんなことは百も承知だろう。ゴドーを待つというような明確な目的が提示されているわけではないので、観客は意識の持って行き所を探して彷徨うことになるのだが、そういう観客の参加性を意図的に促している作品だとも言える。分からないと言って切り捨てるか、この酩酊感に酔って作品世界に没入するのかは、観客の判断に委ねられていく。そこが、面白い。

観客が頭の中で再構成をしながら感じる演劇であるため、役者の舞台上における在り方も重要な要素となってくる。戯曲世界を観客へと、分かり易くブリッジして伝えていかなければならないからだ。しかし、居並ぶ実力派俳優陣の手に掛かると、リアルと抽象の間を泳いで渡る浮遊感ある漂い方が実に心地良く、心の琴線に触れてくるのだ。また、ハードボイルド小説を読んでいるかのような、次に来る展開をワクワクしながらページを捲っていく高揚感も兼ね備えていて、劇世界にグイグイと引き込まれていく。

どの地点にも明確には帰着しない物語は、魂は永遠に彷徨する様を現している様でもあり、かえって清々しい。何だか自分の意識の中をこの作品が通り抜けることで、心身を綺麗に濾過してくれたかのような感じさえする印象だ。物語から脱することで、観客は筋を追うことに捉われることなく、ある意味自分の感じたいように演劇と接することが可能になったとも言えるのではないか。脳内にチリチリと刺激を受けながら、掴むことが出来ない意識を感知することで自らが癒されるという体験は、演劇が内包する可能性を、一歩推し進めることに成功したと思う。

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