2015年 12月

「ひょっこりひょうたん島」は、1964年から1969年の間にNHKで放映されていた人形劇である。現代に続くまでその威明は燦然と輝いており、リアルタイムで観ていた者も、後にアーカイブで目撃した者も、それぞれがそれぞれの「ひょっこりひょうたん島」のイメージを抱き続けているであろう名作だ。作者は井上ひさし、山元護久、音楽は宇野誠一郎である。

串田和美の陣頭指揮の元、その原典を現代へと甦らせた本作は、タイトル前に「漂流劇」と冠している。その「漂流」というワードが創作の肝となっている。そもそも「ひょっこりひょうたん島」は、海洋を漂流している島であるという設定だ。一定の場所に留まることがない不安定さが作品全体を覆いながらも、その儚さの隙間から生気がムクムクと立ち上がるというアンビバレンツな共存が、観客に対し、そこはかとない刺激を放熱していく。

物語は「ひょっこりひょうたん島」を舞台とした様々なエピソードが絡められながら進行していくが、宮沢章夫と山本健介、串田和美の筆致は、登場人物たちの個性際立つ存在感をフィーチャーさせていく。役者陣は、出自も様々な魅力的な御仁が集まっており、役柄の個性と俳優個人との魅力とが掛け合わされていく。

生の音楽演奏は串田和美演出の楽しみの一つであるが、本作でもその期待に十分応えてくれる。4人の音楽家が奏でる音楽が醸し出すライブのインティメイトな柔らかさが、舞台と観客との間を優しく繋いでいく。音楽は宮川彬良が担っていくが、宇野誠一郎が創造した世界を踏襲しつつ、シーンごとに立ち上がる登場人物たちの思いや、世界を取り囲む環境を取り込みながら、独自のオリジナリティを創造する。

喜劇でも人間ドラマでも冒険活劇でもない、茫漠とした皆の記憶の中にある「ひょっこりひょうたん島」がムクムクと立ち上がっていく。登場人物たちはそれぞれに存在感はあるのだが、何故か実在感がないのだ。物語だけではなく、人々の心も、まさに“漂流”していると言えるであろう。見事なのがその演出家の意を汲み、そこはかとなくカリカチュアライズして役柄をふくよかに造形した俳優陣だ。

アンサンブル劇であることを皆がしっかりと認識をしているため、突出し過ぎる自己顕示欲を誇示する輩は本作には存在しない。井上芳雄のマシンガン・ダンディや、安蘭けいのサンディ先生はキラキラとしたオーラを放ちながら作品のセンターに聳立し、アンサンブルを牽引していく。そして、重鎮・白石加代子が軽やかな出で立ちで、作品に温かな軽妙さを付与していく。

小松政夫が登場しているというのが、何とも嬉しいサプライズなキャスティングだ。昭和の芸能の香りを体現する氏の存在感が、「ひょっこりひょうたん島」の原典の時代を今の世にブリッジする役割を担い、観客にリアルな感覚を届けてくれる。

真那胡敬二、大森博史は串田作品に存在しているだけで作品に安定感をもたらし、中村まことの洒脱が飄々とした雰囲気を醸し出す。山下リオ、小松和重、山田真歩、一色洋平、久保田磨希、内田紳一郎の皆が、曇りのないピュアなアプローチで軽演劇的な楽しさを作品にシッカリと搭載させていく。

人々の記憶の奥底にあるノスタルジックな真情と、「ひょっこりひょうたん島」との追憶をオーバーラップさせながら物語は紡ぎ合わされ、此処でも彼岸でもない空間を行き来し独特だ。過去の素材を軸としながら、未来を、そして、演劇の可能性をも切り拓く希望を指し示す仄かな光明を刻印し、心に沈殿する作品が出来上がったと思う。

寺山修司は「書を捨てよ町へ出よう」というタイトルで、評論・エッセイ、舞台、映画を編み出した。それぞれのジャンルの作品たちは、題名は同一だとしても、その表現手段は様々である。本作は演劇な故、舞台版をベースに置くのかと思いきや、藤田貴大は映画版を基に物語を再構成していく。

寺山修司が1971年に発表した映画版「書を捨てよ町へ出よう」は、悶々としたフラストレーションを抱えて生きている自分を否定し、今の生活から脱出したいと願いながらも、肉親の縁を断つことが出来ない若者の焦躁をいや応なしに観客に叩き付け、決して避けることが出来ないインパクトを与え白眉であった。

街頭の其処此処に、言葉を書き記していく斬新な表現などは、昨今の映画作品でも踏襲されており、寺山修司の才気が後進に影響を及ぼしていることを再認識させられることになる。パゾリーニのアナーキな精神を想起とさせられると同時に、フェリーニの「サテリコン」の売春窟のイメージの踏襲なども感じられる同時代性に感性が刺激された。

藤田貴大が、このあまりにも限定されて描かれた1970年代の“時代性”を、どの様に現代に翻案していくのかというところが、本作最大の興味の見どころであり、焦点でもあったと思う。舞台上に据え置かれた様々な形状のイントレが殺伐とした雰囲気を醸し出しつつも、物語が展開していくに従い、いつものマームとジプシーの目くるめく場面転換の役割を担うことになるが、この設定の時点で既に藤田貴大は自分の世界観に作品をグッと引き寄せていくことになる。

但し、展開される物語は、映画のストーリーをほぼ踏襲していく。しかし、眼球を解剖し視覚の仕組みを説明してく冒頭のシーンから、これから作品を“見る”観客に自身の在り方を問うていく意識付けを行う藤田貴大の発破に思わずほくそ笑む。寺山修司も、様々なエピソードを編集して繋いでいくという手法を取っていたが、働かない父、貧しい家庭、兎に固執する妹、祖母の介護施設問題、10代若者のスポーツに性衝動などを原典から抽出し、藤田貴大独自のオリジナリティを持って筆致していく。

主人公となる村上虹郎が17歳であることが共演者によって語られ、現代の若者を巡るエピソードであることが明確に示されるが、1970年代と現代の若者とが抱え込む鬱屈が、意外にも相似形を示していることが面白い。しかし、双方の肌感は違っていて、かつてはヒリヒリとした焦りの中に追い込まれていた気がするが、今は希望を見出せない諦めにも似た閉塞感に覆われているという状態に置かれているのだと気付かされることになる。

現状から脱出したいという希求は薄味だが、黙って甘受する現代の若者のその様はあっけらかんとしていて明るささえ感じられるから面白い。主人公の妹が乱暴されるシーンの表現などは深刻さからは程遠く、まるでモダンダンスのような軽やかさで描かれる。このリアリティの欠落した描かれ方が、今の時代なのだと感じ入る。肉体と心情とが分離しているため、観念的な方向へと意識は向かっていくのだ。そこには、他人の心身の痛みを感受する余白はあまりなく、あくまでも自分本位な傾向に人の意識は向かっているような気がしてならない。

又吉直樹や種村弘が映像で登場するが、かつて自分が生きてきた若かりし頃の話を断片的に紡ぎ微笑ましい。また、ミナ ペルホネンの衣装が時代の軽やかさを纏い、ファッションショーのシーンも設けられているが、楽しさというよりもささやかな虚勢とも見てとれ、語らぬ自己主張の仕方がユニークだ。山本達久のドラムは、変にアジテートすることなく役者の体内リズムに添うように鳴り響き心地良い。

時を経ても変わることのない普遍的な若者の意識を的確に捉えた寺山修司の原典に、藤田貴大は現代の意気を吹き込み見事に換骨奪胎したと思う。そこに立ち現われてきたのは、未来を見出せない若者像。それをただ現実だと受け止めるか、冷静に観察する批評精神を持って捉えていくのかは、観る人次第であるような気がする。藤田貴大が投げたボールは、観客の手に委ねられたのではないだろうか。

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