2004年 6月

まず、開演時間を少々過ぎた頃、演出のサイモン・マクバーニーが登壇。実は照明の電源がヒートアップし芝居が始められない。回復するまでの間、私がお話をして場を繋げます、とのこと。通訳(実は出演者、立石涼子だったのだが)が、サイモンの話を訳しつつ、途中からは、サイモンが回復の助っ人で舞台袖に引っ込んでから、通訳だけが残され、馴れない風で場を取り持とうとし、客席との暖かな連携が生まれる。キメの台詞を言って通訳が去り舞台はスタートする。構えていった観客の気持ちを軽くほぐすこの芝居とは関係ない導入は、逆に芝居に没入出来る仕掛けとなっていた。

全体的な印象が昨年の初演より薄いと感じたのは、勿論、初回の驚きというのもあろうが、堺雅人の存在感が大きかったのではないかな、とも思った。

都市生活者の中に潜む欲望や狂気、視点の主観と客観、空間の大きさ狭さなど、観念的な概念を、様々なモチーフを用いて表現していくその引き出しの多さに脱帽である。空間を縦横無尽に使い、特に映像を駆使して表現する場作りは、時に、シチュエーションを説明するための背景となり、ある時は自分の心象風景を表わす鏡となり、また、リアルに今の自分を中継し投影するための道具となって、多面的な空間を構築していくことに成功した。映像の切り取り方自体も、イギリスという日本の視点ではない目で捉えていて新鮮な驚きがあった。

戦後、それまでの文化を一切捨て去り邁進してきた日本がある到達点に達した今、この「エレファント・バニッシュ」が提示するメッセージは、一種の警鐘である。意識をひとつ乗り越えた日本は、今、切り離された過去とどう向き合い取り戻していくのか、という命題を、村上春樹のテキストを使い、我々に問いかけてくるのだ。様々な情報に溢れた日本。その中で一番大切何かを皆が見つける時期にきているのだ。個々が孤独と向き合い闘いながら、と…。

役者が道具化しているという向きもあろうが、私は非常に個性を際立たせる演出にて、役者の力量が遺憾なく発揮出来ていたと思う。吹越満の軽さと重みが同時に存在する演技、高泉淳子のコミカルの中に潜むシニカル、宮本裕子の狂気と静謐の狭間、立石涼子の現実と観念の行き来など、いわゆるメソッドに依らない地平での演技幅の広さにも感心した。演技してます、という臭さがないということである。

ニューヨーク、ロンドン、パリ、ミシガンでの公演も決まっているようだが、世界の都市生活者の孤独を、決してエキゾチズムで闘わない方法で日本発信する本作の行方を見届けていければと思う。クールシティ・東京=日本の「立ち位置」で、演劇創造発信のしていく飛躍台となることを、節に願っている。

まず、1役を2~3人で演じるという発想が面白い。1人が何役かを演じることはしばしば行われるが、その逆のこのアイデアはブニュエルの遺作あたりからのインスパイアか。

この発想は人の心理を多重に考察することに成功し、観客に更に創造性を掻きたてさせることとなった。同じ人間との接し方もそれぞれ様々であり、従って行動パターンも自ずと違ってくる。但し、その差異を考察するという難しい方向には決して向かわず、同時に行われるこのキレの良いダンスは、群舞としての面白さにまで昇華していた。

ハロルド・ピンター+ジョセフ・ロージーの映画「召使」をモチーフとしたストーリーも興味深い。イギリスの根底にある階級社会を揶揄することで浮かび上がるバカバカしさが、うまくブラックユーモアへと繋がり、後半、下世話なあれこれのシーンを重ねることで人の立場が逆転していく様は、痛快ですらある。その転覆の仕掛け人が「召使」であるのだが、全てを知る者が知恵を絞り策略を図ることで、何かを変化させることが出来る訳で、盲目のまま地位や名誉という砂上の楼閣に安住し続けることは出来ないのだという、普遍的なアイロニーをも醸し出してくる。

堕ちていく罠は全て性衝動に起因する故、ダンスもエロチックな絡みが多くセクシーなシーンが続いていく。特に後半の主人公のアンソニーとメイドのシーラがキッチンテーブルの上で繰り広げるラブ・シーンは、押したり引いたりの緊張感あるやりとりで、禁じられた一線を越える動揺が観客の心をも疼かせることとなった。とても美しいシーンである。

召使プレンティスやトランペット吹きのスペイトとアンソニーとの関係性の微妙な曖昧さも創造力を掻きたてる要因となり、人を描くにあたりこういった解釈の余地の在る不明確さは作品全体のクォリティを引き上げることになった。良い者悪い者といった単純な図式は成立しないのだ。

60年代ファッションや、ジャズのオリジナルスコアの酔い心地も満点で、こんな粋なステージが日本でももっと沢山見ることが出来るといいな、という思いを強くした。

野村萬齋の圧倒的な力量・技量と鍛錬された声、そして全開のパワーが、この作品を根幹から支えながらも、更なる高みへと隆起させるマグマにも似た作用も持ち得ており、緩急自在に戯曲を操ることが可能な稀有な役者の絶妙が会場を一心に集中させていた。

この場を共有出来たという喜び。何物も無駄な感情も入る余地などなく、皆が自然に舞台を注視してしまうという幸せな劇場空間で、オイディプス王が辿るギリギリの人生をたっぷりと堪能出来た。

コロスのパワーも圧倒的だ。五体投地や慟哭の舞いなど物凄く体力を使う演技であるにも関らず、放たれるパワーは終始全く衰えず圧倒的な迫力を持って観客に迫ってくる。また、同時に叫ぶコロスたちの声の大音量と相まって、オイディプスに拮抗する強力な布陣として成立していた。

競演のベテラン俳優もまた鉄壁な体制だ。特に、クレオン演じる吉田鋼太郎の台詞回しは、野村萬齋と遣り合う丁々発止のシーンにおいて、観るものをも巻き込む強さと弱さを縦横無尽に発揮し、運命の変転に贖うことなく導かれていく人間の在り方を提示して見事である。また、テイレシアスの壌晴彦は、未来を見通す預言者を堂々と演じ、台詞劇の濃密な空間にパースペクティブな広がりを持たせる揺ぎ無い世界観を体現していた。川辺久造、三谷昇、菅生隆之、瑳川哲朗など、申し分ない演者のアンサンブルが、本作品を更なるクォリティの高みにまで押し上げていた。

そして、麻美れいである。母であり、妻であるという難役を、全くの疑問の押し挟む余地の無い厳然たる美しさにおいて、その存在感は特別の異彩を放っていた。

また、贅沢なことに、東儀秀樹の見事にギリシア悲劇とぶつかり合った音色と共に、本人の舞までをも堪能出来、見所満載のサービスに大満足。

俳優の力をとことん絞り出した蜷川演出のコンセプトは見事にスパークし、これ以外の解釈や上演は全く無いであろうと思わせる程絶対的な世界を創り上げた。ギリシア公演の成功は既に約束されたのではないだろうか。

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