2012年 10月

天童荒太の静謐で研ぎ澄まされた世界観が、一体どのように舞台化されるのかという点に於いて興味の尽きない公演である。エンタテイメントに仕立て上げるには、深く重い題材であるのだとは思うが、その難題に挑んだ結果、「悼む人」の核に存在する真情を見事に掬い上げ、観客の想いと共鳴させることに本作は成功したと思う。

小説に登場する多くの人物たちを、舞台では5人に絞り込むことによって、観る者の集中力を高める効果を狙うことになるのだが、そこで採られる手法が、また、独特なのだ。まるで朗読劇のように、心の内底に沈殿した心情や、想い描いている情景を、皆が吐露していくのだ。勿論、シーンを同じくする者同士の会話はあるのだが、どの場に於いても皆、自らの心根を確かめながら、心の内に芽吹いた想いを照射するが如く、とつとつと語り合っていくことになる。

そこに、細野普司が撮り下ろした写真や、演出家・堤幸彦自らが制作した映像が挟み込まれることで、登場人物たちが語るバックグランドが、よりクッキリと視覚化されて舞台上に現出していくことになる。個々の哀感が、舞台上から染み出してくる。

亡くなった人を悼むために全国を行脚する主人公静人の在り方自体が、もはや、死がある意味消耗されているかにも思える現代社会に対する大いなる警鐘を放っているのだと思う。物語は、死にフォーカスを当てることにより、逆に命というものに対して真摯に向き合うという視点を獲得していく。舞台の創り手たちも、静人の生き方にピッタリと沿うように、静人の行動を追いながら生命の残り香を感じ弄っていくことになる。

物語の中軸に立つ静人は求心力ある存在感を放っているのではあるが、寡黙にひたすら行脚を続けているという行動から、彼の本意を見て取るのが難しい。そこは小説に習い、彼の行動にどのような影響を受けたかということや、過去の出来事を遡ることで、静人の行動の起因を炙り出していくことになる。そうした真意が少しづつ露見していく様は、サスペンスの様相すら帯び、スリリングである。

向井理が静人を演じるが、死を悼むという行為を続ける行動が違和感なく自然に感じられるのは、演じる技量の高さにもよると思うが、彼自体が静人になりきっているような感じがするためであろうか。役柄を自分に引き付ける役者だと思っていたが、自分が役に取り込まれていくタイプなのかもしれない。その資質が、自然と観る者に共感性を醸成させていくことになる。

舞台経験も豊富な小西真奈美は、静人と行動を共にする前科ある女を演じるが、その透明感ある存在感と涼やかな声音などが響き合い、陰惨な出来事に対峙したとしても、その全てを純化させてしまうようなオーラに包まれている。彼女の佇まいが、作品に軽やかな温かさを付加させていくのだ。

手塚とおるは、人に暗部に斬り込むジャーナリストを演じるが、静人と出会い、それまでの斜に構えた生き方を是正していくことになる。粋がった気勢はものの見事にへし折られ、生きることに殉じていく変化のプロセスをナチュラルに演じ観客の心を掴んでいく。また、悲惨な状態の中からでもユーモアを掴み出していくセンスに、ホッと胸をなで下ろさせるような温もりも感じさせていく。冷徹な男の中から、魂を掬い出す、そのアプローチが心地良い。

真野恵里菜はベテラン勢の御仁の中において、穢れのない純粋な静人の妹としてオアシス的な存在感を示していく。また、次の世代へと魂を橋渡しする重要な役割も担っており、物語を収焉させていく可憐さに満ちている。

伊藤蘭は静人の母であり、末期の癌を抱えた病人でもあるのだが、常に前向きに生きるその姿が神々しい。また、駄洒落を連発して場を和やかにさせるその優しさが、病の哀しさを一際立たせていく。死するその直前までも、精一杯生きるその姿を見て心が洗われるような想いがした。

この独特な世界観を現出させ、原作の魂を掴み出した堤幸彦の手綱捌きは傑出している。装置や照明なども堤幸彦流に駆使され、従来の演劇公演とは、その効果を異にする趣向を展開させていく。また、心の通低音ともいうべき調べを、チェロの響きを呼応させる絡ませ方も粋である。

俊英映画監督が、舞台という別の世界で、演劇というジャンルを超えた新たなステージの在り方を誕生させた。そのクオリティーは高く、かつ、深いメッセージ性をも叩き突けてくる、そのチャレンジングな意気がまた素晴らしく、ズシリと心に残る逸品に仕上がった。

本作は、主役が降板したことにより、急遽、女教師を菅原永二が演じることになったという経緯がある。菅原永二は勿論、女装をしてはいるのだが、変に女に化けようと心身を捻じ曲げることもなく、男が女を演じているというそのフェイクさ加減が、この物語を一層胡散臭いものに仕立て上げており、面白さこの上ない。

女だからだとか、男だから、と言うような性差の垣根を飄々と超越した地点に本作は偶然にも辿り着いてしまったのかもしれない。誰もが持っているのであろう人間の奇妙な本質部分が、自然と露見してくる羽目になる。

舞台は学校。登場人物は教師4人に、自殺未遂をした生徒の母親の計5人。語られる言葉は辛辣で、ぐうの音が出ない程相手をグイグイと追い込んでいく様は、まるで大人のいじめに他ならない。いじめを苦にして自殺を図った子どもの親が、担任教師を恫喝していくシーンから物語がスタートする。母、片桐はいり、教師、美波のシーソーゲームは、いじめの構図を凌駕し、まるでSMプレイへとズリズリと接近していく。

しかし、こんなことは序章でしかない。菅原永二演じる女教師が、その子どもの自殺行為に一役買っていたことを知った佐津川愛美演じる教師が、その蛮行を暴こうと決意する。普段は覆い隠されていた女教師の、共感性が欠如しているという暗部が浮き彫りにされたことを皮切りに、其処個々で、教師たちの皆が覆い隠していた心の本質部分が炙り出されていくことになるのだ。

共感性が欠如した者が教師を務めている事自体が可笑しな話なのだが、そんな不可思議なことが堂々とまかり通っているのが今の世の中なのではないのかという、アイロニーの効いた本谷有希子流のシニカルな視点がヒリヒリと痛いが、実に爽快ですらあるのは何故だろう。

悪を描いて爽快なのは、観る者の中に、明らかに悪があるからに他ならない。それを、舞台上の登場人物たちが、代弁してくれているので、胸がスクッとすっきりするのだ。舞台上で右往左往している登場人物たちは、観客席と合わせ鏡になっているという寸法だ。

物語は二転三転する。女教師は、嘘を嘘で塗り固めていくのだが、そこで起こるほころびを、全て独断と偏見で自らを正当化する手段へと摩り替えていく。そこでは明らかに価値基準の転換が起こっている訳であるが、論理は一瞬でも正当化されてしまうと、その他の事柄が、何とも嘘臭くなってしまうという始末なのだ。矛盾に満ちた女教師の言動が、実は正しく映り、変に正当性を掲げる御仁の意気は迷走することになる。

母親は、松井周演じる教師と不倫関係と結ぶこととなり、美波はM気質へと目覚め、佐津川愛美はその生真面目さが苦境を乗り越えるための障害となり追い込まれる羽目になる。正論がまかり通る世の中ではないのだと、本谷有希子は筆致していく。

菅原永二は、淡々と事を運ぶ冷静さと、狂気を孕んだ心の内底の爆発具合が上手くミクスチャーされ、スクっと物語のセンターに立ち続けていた。美波の一見清純に見える女の浅薄なM女具合は愛らしくもあり、鬱陶しい女の性をも感じさせ印象に残る。真っ当な正論を吐く佐津川愛美の生真面目さが、カードをひっくり返すがごとく、ことごとく言動を覆される様の矛盾がままならぬ世の中の理を忍び込ませていく。松井周のナチュラルで嫌われ難い男を演じる造形はリアルに観客の心にリーチし、また、重鎮・片桐はいりに女が持つ裏腹な矛盾の同居を演じさせることにより、物語はより深い地点へと観客を誘っていく。

時代を照射し、人を活写する才能に、しばし酔い痴れることができた幸福なひと時であった。共感出来ないという性質の人間を取り上げることにより、観客にどのように思われるかというある種の実験的なトライアルでもあった本作は、刺激に満ち満ちた秀逸な作品として、観客の胸の内に残る作品に仕上がった。心地良い、逸品であると思う。

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