2004年 5月

魔女が骸骨の装いで美しい花畑から続々と現れてくるオープニングから、悲劇「マクベス」はコミカルな様相を呈して“人間喜劇”ともとれる可笑しみを現出させる。木佐貫邦子振付の魔女たちの演技は、ワダエミの絶妙な骸骨衣装と相まって、オペラ歌手の方々が嬉々として演じていて妙に心地良い。この公演の白眉は、この骸骨であった。

1場が終わると花畑は下に沈み、奥からマクベスの城のセットが現れてくる。テラスを持つ二段構造のセットは、トロンプ・ルイユのごとく遠目からは冠を戴いた王の顔にも見え、深層心理を透かし見るかのような効果を表わしていた。

マクベスとマクベス夫人を演じるヴォルフガング・ブレンデル、ゲオルギーナ・ルカーチは、その声量も圧倒的でありながら、情感を込めた歌いっ振りがストレートに響いて来る。
特にゲオルギーナ・ルカーチのマクベス夫人は秀逸。夫を急き立てる悪女をハッキリと戯画化した明快な演技にて表現し、悲劇ではなく人の哀しさや業のようなものまでを漂わせ、観客を魅き付けて離さない。

休憩後の第3幕の洞窟のシーンは、大釜が火を吹くスペクタルなどもあり、また、大量の骸骨魔女の効果もあってか、バンドデシネのようなモダンな漫画チックな分かり易いビジュアル造詣のアプローチが上品なオペラを見世物に変えていった。

ミニマルアートのような余計なものを削ぎ取ったシンプルな上品さを狙うことなく、華美にならない過剰さで人間の弱さや強さを明るく謳い上げる本作は、初演当時のワクワク感を再現したとも言える。現代の歌舞伎を造形してきた野田演出ならではの視点である。現在と作品が作られた当時とが結ばれた1本の線を行き来しながら芳醇な情感を掬い出していく。そんな自由な視点が一見敷居の高いオペラという演目の呪縛から観客を解き放ってくれた。

しかし、意外にもカーテンコールはそれ程熱狂的ではなかった。カーテンコール途中で立席する人々も多かった。“上品”を期待した人のお眼鏡には適わなかったのかもしれない。そういった意味でも、野田秀樹が日本オペラ界に投げたこの緩やかな一石は、大きな意味があったのではないだろうか。オペラの在り方、に思いを馳せることとなるからだ。

宮本亜門のキャスティングは「ユーリンタウン」に引き続き、またもや、実力あるアーティストの異種混合精鋭部隊となった。

中川晃教の圧倒的なパワーがまたしても作品を活き活きと輝かせた。ナチュラルで感情がこもった力強い歌い振りは、ストレートに観客の気持ちに響いてくる。癖なく巧みに気持ちを歌に乗せることが出来る中川晃教のようなアーティストは、そうざらにはいない。

鵜木絵里もまた、観客を驚嘆させる実力を遺憾なく発揮していた。特に、「着飾って浮かれましょ」のナンバーは圧巻。聞き惚れるしかないといった具合だ。

他の出演者もそれぞれ強烈な個性を発揮するが、岡幸二郎が安定した力量を見せ、郡愛子のベテランの味わいが作品に奥行きを持たせた。坂本健児のナンバーが1曲だけであったのが少し残念だが、歌わないがゆえにかえってキャンディードと旅を共にする相棒としての存在感が浮かび上がった。

ポップス、ミュージカル、クラシックなど様々な分野から集まったアーティストの競演は一見バラバラな印象も与えかねないが、この位実力が伯仲するとエンターテイメントとして何故か成立してしまうのだ。中川晃教と鵜木絵里のデュエットなどは、もう、本当にテイストの差異を感じてしまうのだが、“上手い”から現実が観念を超えてしまうのだ。

中軸のキャンディードの存在感がぶれないので、目まぐるしく転換するそれぞれのシーンも、演出が意図するように回転していったのではないか。また、全員が良い意味で肩の力を抜いた変に気張らないスタンスなので、エンターテイメントとして十分楽しめる。宮本演出は、残虐な行為や悲しみもユーモアに包み、決して深刻になることなく「キャンディード」一種の寓話として成立させることに成功した。

あらゆる遍歴の後、最後に辿り着くのは「愛」「家族」というメッセージも、時代を越え今2004年だからズシリとくるテーマである。照れることなく声高に歌い上げる大団円は圧巻。ミュージカルだから成し得るひとつの見本のような作品であった。

最後にではあるが、バーステインの美しいメロディーに酔いしれたことを付け加えておきたい。いくつかのメロディーが、まだ、耳の中で木霊している。

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