2019年 4月

トム・ストッパードがアンドレ・プレヴィンと組んでこういう作品を作っていたんですね。1976年初演。オペラやミュージカルではなく、ストレートプレイとオーケストラとがガッツリと組まれた作品に遭遇したのは三谷幸喜の「オケピ」以来かもしれない。

同作品の創作当時は、ベルリンの壁が厳然と存在する、東西冷戦の緊張感がある時代であった。「俳優とオーケストラのための戯曲」とサブタイトルにあるが、その楽しみに満ちた表記とは裏腹に、舞台はソビエトと思われる独裁国家の精神病院で展開される。

精神病院とはいっても精神を病んでいる者だけが入所しているとは限らない。堤真一演じるアレクサンドル・イワノフは政治犯として同病院に収容されている。「正気な者が精神病院に入れられている」と公表し、自らが囚われてしまったようなのだ。そこで、橋本良亮演じるアレクサンドル・イワノフという同じ名前を持つ青年と出会うことになる。彼は「自分はオーケストラを連れている」と主張し、囚われている身である。しかし、観客にはアクティング・エリアの背景に本物のオーケストラの楽員が見えている。面白い設定だ。

政治犯は自らの主張を貫く行為としてハンストを続けている。オーケストラの囚われ人は、オーケストラが奏でる音楽が気に入らないと癇癪を起す。小手伸也演じる体制側の人間は、「思考し自分の意見をもつこと」は病気だと断じ、「オーケストラ」がいるという主張を排斥していく。まさに不協和音状態であるかのような中、何が真実で、何が真実ではないかという問いを同作は観客に叩き付けてくる。観る者のモラルが問われていく。

この作品が書かれた当時と、現在の世界情勢は勿論違うのだが、この作品が提示する問題は、現代にも通じる深淵な問いかけであると感じ入る。SNSなど個人が情報を発信するメディアが拡散されている今、、より真実が分かり難くくなってきているような気がする。40余年を経て、なおも変わらぬ問題を連綿と引き摺っていることが露見し愕然とする。

ハンストを続ける政治犯はシム・ウンギョン演じるサーシャという息子がいる。体制側から享受する物事をそのまま信じる斉藤由貴演じる教師に厳しく律せられ、父の存在との間で葛藤する。サーシャの存在が同作と観客とをブリッジする役割を担っている気がする。物事を一方的に断じ信じ込ませる政治は正しいのか? いや、正しいはずはない。

政治犯のハンストを止めさせる目的もあり、サーシャは精神病院に送りになってしまう。
体制に逆らわぬよう懇願するサーシャ。ハンストを止めない政治犯。

オーケストラのみならず、ダンスなどの身体表現を駆使し、物語をストレートプレイという枠から拡げ、エンタテイメントとして成立させた演出のウィル・タケットのセンスがクールである。様々な要素を上手く整理し、分かりやすく観客に提示してくれる。

結論は思わぬところからやってくる。権力者である外山誠二演じる大佐が精神病院を訪問し、ある結論を言い放つのだ。世界は瓦解と構築の連続なのかもしれない。視点を変えれば白も黒になるし、時代の趨勢にも大きく左右される。世界は複雑だ。しかし、自分は信念を曲げることなく正しい道を切り拓いていきたい。疑問はひとまず横に置き、長いものに巻かれる「良い子はみんなご褒美をもらえる」世界を創ってはいけないのだと意を強くさせる作品であった。

2000年初演のヤスミナ・レザ本作品は1シチュエーションで3ヴァージョンの物語が展開するという面白い構成である。出演者は4人。大竹しのぶ、稲垣吾郎 、ともさかりえ、段田安則という演劇の猛者たち。期待感は観る前より高まっていく。初日ということもあってか、劇場内の雰囲気も高揚しているのが分かる。

シアターコクーンを改造したステージは、アクティングエリアの四方が観客席に囲まれているという造りになっている。演じる方はかなり緊張感を強いられる設定なのではないかと思うが、ベテランにとってはそれも演じる上でのハードルの一つに過ぎないのかもしれない。

時は夜半。天体物理学者のアンリとその妻ソニアの家が物語の舞台となる。アンリは研究発表の論文を、自らの仕事の準備をしているソニアに見て貰おうとしている。アンリを稲垣吾郎、ソニアをともさかりえが演じている。階下にある子ども部屋からは、未だに眠らない子どもの声がしている。そんな時、呼び鈴が鳴り響く。

アンリの上司であるユベールとその妻イネスが夕食会に訪ねてきたのだ。なかなか成果を上げられないでいるアンリにとっては、この場で夫妻をもてなすことはは大事なプレゼンテーションの場にもなるのだ。ユベールを段田安則、イネスを大竹しのぶが演じている。さて、幕は切って降ろされた。

アンリが現在作作成中の論文をユベールに認めてもらい発表したいというのが物語の端緒であるが、会話が進んでいく内に、様々な事項に話が飛び火し、慌てふためき、繕いながらも、本音を吐露し始めるようになっていく。話はそれぞれの夫婦間のことにまで及び、暴走を止める者がいないこの状況においては、もはや抑えきれない感情の歯止めがきかなくなってくる。

当事者としてはたまったものではないが、それを観客として観るのは何とも可笑しいのだ。他人が右往左往する様をこっそり覗いている感覚を、観客が楽しんでくれることをヤスミナ・レザは承知で筆致していく。

上司夫妻が来訪し、幾つもの悶着があって帰宅するまでというのが基本ラインだが、当然、3つの話は、全く違う展開を示していく。3つのヴァージョンがそれぞれ合わせ鏡のようにもなっていて、結果、人間が内包する多面性の可能性を暴き出していく展開も見事である。

アンサンブルの芝居だと心得ているため、4人のベテラン俳優は自分だけが目立つことなく、上手い押し引きをするその丁々発止の掛け合いが絶妙だ。四方が観客に晒されるステージにおいて、俳優が其処にいる在り方を含め、相手に対するはっきりとした物言い、逡巡する秘めた思いなど、硬軟取り混ぜたテキストをバランスのよい手綱捌きをしたケラの演出も、繊細さと大胆さを備え緩急自在で見事だと思う。

大人の鑑賞に堪え得る上質な会話劇を堪能することができた。こういう演目を、ふらりと観に行けるような劇場環境インフラがあると日本の夜はますます楽しくなるなという思いを抱いた。

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