本作が日本の演劇界に与えた影響は、計り知れないものがあるのではないだろうか。初演当時は、シェイクスピア作品の舞台をジャポネスクの色合いに彩り、商業演劇で上演するなんてことは、邪道とされていたような時代であったような気がする。全くもって、前例のない新機軸なコンセプトであったのだ。
本作以降、シェイクスピアに留まらず、欧米の戯曲を和で装い演じていくという舞台が、数多現れたことであろうか。そんな作品が、蜷川幸雄生誕80周年の年に上演されるというのは嬉しいことであり、では、今、再演された作品を観てどのような感想を抱くのかという点において非常に興味深く、劇場へと足を運ぶことになる。
やはり、本物は本物であった。何者にも揺らぐことのない、本家本元のオリジナリティ満載のジャパネスク美学は、今でもなお、健在なのだということをしかと確認することになる。
今となってみれば、新鮮味がないと映る御仁もいるかもしれない。しかし、プロセニアムを仏壇に見立てた妹尾河童の美術や、場面ごとに叙情性を湛えた美しい光明を挟み込む吉井澄雄の照明、そして、大胆な絵柄と鮮やかな色彩を操る辻村寿三郎の衣装など、第一級のクリエイターたちの創造物は、今観ても圧倒的な存在感で観る者に衝撃を与えてくれる。
音楽の使い方も抜群だ。フォーレのレクイエム「サンクトゥス」は、殺戮が連続する物語をまるで浄化するかのような効果を生み、ルイ・マルの「恋人たち」でも印象的なブラームスの「弦楽六重奏曲」は、マクベス夫妻が流転していく人生を客観的に捉える視点を獲得していく。繰り返し流れるこの名曲の調べが観客の心をグッと掴み、作品に重層的な厚みを与えていく。
役者陣も鉄壁とも言える俳優たちが居並んだ。マクベスは市村正親が演じる。本作のマクベスは、魔女の予言と、妻の強烈な叱咤激励を受け、ダンカン王殺害を実行する男の弱さと芯の強靭さとを緩急自在に使い分け、人間の様々な側面を活写し圧巻だ。しかも、運命に翻弄される悪漢でありながらも、どこか憎めない愛らしさを潜ませることが出来るのは、市村正親ならではなのだと思う。
悪妻と言われるマクベス夫人は田中裕子が演じる。しかし、田中裕子が造形するマクベス夫人は、キツイ口調で台詞を発せず淡々とした物言いなため、観る者をジワジワと侵食していくような怖さを発するのだ。そこにリアリティが生まれていく。
吉田鋼太郎がマクダフを演じるが、第4幕で妻子を殺められた顛末を伝令の者に聞いた後の演技に震撼した。腹の奥底から発せられる慟哭が劇場内を覆い尽くす。蜷川演出の「タイタス・アンドロニカス」のエンディングに叫ぶ少年の悲惨を上回る哀しみが襲ってくる。吉田鋼太郎の演技により、このシーンが本作のクライマックスになったという気がする。
そのシーンで対峙するマルコムを柳楽優弥が演じるが、「海辺のカフカ」で蜷川に起用され本格再生した後の活躍振りは周知の事であろうが、本作での渾身の演技に観る者は陶酔させられることになる。大御所にひけを取らない存在感をクッキリと示していく。
橋本さとしが担うバンクォーは、ダンカン王への揺るがぬ忠信と、マクベスに対する怨念を陰惨にならず色香さえ漂わせ演じ印象的だ。そのダンカン王は瑳川哲朗が演じるが、偉丈夫で豪傑な好感の持てる指導者を造形するため、後の悲劇が一層際立つことになっていく。
終章に迫る場面において、バーナムの森を桜に翻案し可視化するすセンスは抜群だと思う。オーラス、マクベスの最期は、まるで、胎児に帰還していくかのような状態は、ベルドルッチ監督「ラストタンゴ・イン・パリ」のラスト・シーンでのマーロン・ブランドに酷似しているが、観る者の心を揺さぶるということに相違はない。
王座を狙い獲得し、そして、堕ちていく男の悲劇に物語をきっちりとフォーカスし、日本人が親和性を抱く演出にて、シェイクスピアの世界観を描ききった蜷川幸雄の才気を余すことなく浴びることが出来た一級品のレジェンドを体感することが出来た。
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