2016年 12月

2003年のトニー賞作品賞と助演男優賞受賞作である。アメリカのメジャーリーグのロッカールームが舞台であるという程度の事前情報を持って、初めて訪問するDDD 青山クロスシアターへと向かった。元青山劇場脇の道沿いの地下に同劇場は位置している。劇場へと降りる階段はなかなかお洒落なアプローチだ。

フリースペースであろう劇場は、フロアのセンターにアクティング・エリアが設けられ、その両サイドに観客席が据えられているという造りだ。客入れ時には、アクティング・エリアの周囲には金網が張り巡らされているが、可動式なため、芝居中にも効果的に出し入れされ使用されることになる。

両サイドの観客席に視認出来るようモニターが設えられ、そこではチームのメンバーの紹介が英語でアナウンスされていく。思わずアメリカのスタジアムにでも居るような感覚に襲われていく。観る前から期待感を煽る仕掛けが色々と成されており、ライブの醍醐味が芝居が始まる前から享受出来、ワクワク感が高まっていく。

かなり冒頭のシーンで、同球団のスター選手であるダレンが、ゲイであることを告白することから物語は変転を繰り返し始める。ロッカールームでの男たちの四方屋話が展開していくのかと思いきや、人間感情のシリアスな領域へと筆致は踏み込んでいく。

男という生き物が持つ、様々なエゴやアイデンティティが擦り合い、ぶつかり合う。男たちの暗部が抉り出され、開陳される。その生々しい生き様が、グイグイと観る者に迫ってくる。そのヒリヒリとした感覚は、様々に挟み込まれるエピソードと相まって、男たちが繕っている体裁を見事に剝ぎ取っていく。その様が、何ともスペクタクルなのだ。

「take me out the ball game」の楽曲が流れると、メジャーリーグの雰囲気がグッと強調される。そういった雰囲気の醸成の仕方も上手いが、転換するシーンのセットがキビキビと差し替えられる運びがスムーズで、物語にスピーディーな勢いを付与する演出にキレがある。

ゲイを告白するダレンの章平は物語の核に立ち、誰の言動にも揺るがぬ存在をクッキリと作品に刻印する。変にゲイのニュアンスを装うことなく、毅然とした態度を貫く様が清々しい。そんな彼を容認するキッピーの味方良介の細やかな感情表現が、ほのかな優しさを作品に滲ませる。ムードメーカーなような佇まいに、妙な安定感がある。

タレントとしてだけの認識だった栗原類が、実に印象的な好演を示したのには驚いた。チームに新たに参入する天才投手シェーンは、決して幸福とはいえない生い立ちを背負っていることが次第に分かってくる。露骨にゲイを毛嫌いするのも、所以があってのことなのだが、あることをきっかけに感情を爆発させる瞬間には目が釘付けになった。

会計士のメイソンを良知真次が演じる。ゲイの資質を隠すことなくクライアントのダレンへの恋慕も忍ばせながら、物語をナビゲートするロールを担っていく。深刻になりがちなエピソードに氏の華やかな資質が放出され、温かなアクセントを付与していく。

多和田秀弥が持つある種の堅甲さ、小柳心のおおらかな柔らかさ、渋谷謙人が内包する屈折感、吉田健悟が孕むアクの強さ、Spiが醸す大きな包容力、竪山隼太の生真面目な実直さ、田中茂弘が積み重ねてきた年輪など、男優陣のキャラクターが誰一人としてダブることなく、個性を全面的に活かしきった演出と、それに応えた役者の力量が開花し見事である。

芝居は旬な役者を観て楽しむものなのだというシンプルな思いを充足させる秀作であった。人と人とは違うのだということをストレートに叩き付けられるが、そんな厄介なリアルが何とも愛おしく感じてしまう。自分にとって大切なものとは一体何なのであるのかということを省みる、刺激的な時を過ごすが出来たと思う。

「真田丸」後初の、三谷幸喜の新作舞台である。テーマは「エノケソ」。決して「エノケン」ではない。「エノケン」こと榎本健一を名乗った偽物が跋扈したと言われている昭和初期の時代が、本作の舞台となっている。この設定自体がまさに人を食っている。

“本物になりきれなかった偽物たち”は自分好みだと語る三谷幸喜の視座は、やはりコメディにその根幹を据えているのだと思う。かくあるべき姿と現実との差異に可笑し味を醸し出し、さざ波のように物語の中へと伝播させていく顛末を嬉々として描く技は、まさに三谷幸喜の真骨頂だ。

また、作品のスタイルは、かつての軽演劇のように歌あり踊りありの娯楽性が満載で、榎本健一が生きた時代のエンタテイメントを蘇らせようとする意気をしかと感じ取る。誰が観ても分かりやすく、難解さなど微塵もないのだが、少し捻じれた登場人物たちの生き様が、観る者の心に妙なしこりとなって残っていく。

その捻じれた端緒と端緒とが擦り合うことで、そこに物語が生じる。そのスリリングな展開が、緊張の糸を張り巡らせる。エンタテイメントの根幹には精一杯に生き抜く人間の哀感が染み入り、演劇という絵空事に、しっかりとした人間観察の上に成り立ったリアルさを付与していく。

エノケソを演じるのは、市川猿之助。歌舞伎以外への世界にも果敢に挑戦し続きているが、三谷幸喜との手合わせはしっくりと馴染み違和感がない。三谷幸喜は、市川猿之助の中から、非常に土着的な日本のスピリットを掴み出していく。そして、その和の感性を、モダンに斬り拡げる地平が、昭和の芸能の世界へとシンクロする。

はたと気付くが、市川猿之助は昭和顔の昭和体型なのかな、とも思う。中心に聳え立つ役者が放つ資質が上手く活かされているため、物語に余白を作らないという効果を発していく。三谷幸喜の計算づくが、全てのパーツがピタリと嵌る心地良さ。

エノケソの妻を、今や旬の女優、吉田羊が演じていく。「国民の映画」初演時2011年には、まだまだ一般的には知る人は今よりは多くなかった吉田羊であるが、その作品を機にメキメキと頭角を現してきたという感がある。市川猿之助とガッツリと組み従い、不肖な夫を支える妻の愛と冷静な厳しさを、柔らかに表現し、作品に優しいニュアンスを醸し出す。

三谷作品の常連である浅野和之の存在も、また、ふざけた役どころだ。その名も、蟇田(ひきた)一夫と名乗る一座のメンバーだ。口頭だけで聞くと、菊田一夫と聞き間違えてしまうのを完全に認識した確信犯を飄々と演じ、可笑し味を滲ませる。間違える方が悪いのだと言わんばかりの押し出しに、ついつい折れてしまう回りの人物たちのリアクションも、また、楽しだ。

だが、しかし、何と言っても、三谷幸喜がこの布陣の中で、役者として登壇しているのがトピックだ。しかも、古川ロッパならぬ、古川口(くち)ッパというまがいものをいけしゃあしゃあと演じ、当代一流の歌舞伎役者の市川猿之助と対峙する。これが、なかなかイケているのだ。軽業師のような軽妙さが胡散臭さを増長し、観客との共感を繋ぐ存在として異彩を放つ。

山中崇は、かつて「ベッジ・パートン」で浅野和之が演じたロールにも似て、登場する度に全く違う人物として現れる様が、間髪入れずに笑え、何故か作品に安心感を注ぎ込む。一座になくてはならない存在の春海四方は、作品にスパイスの様なアクセントを刻印する。一座に入りたい女を水上京香が担い、真っ直ぐなその思いを素直に表現し、次代の吉田羊と成り得るのか、期待も高まるところだ。

三谷幸喜と市川猿之助との格闘技は、昭和の軽演劇を現代に甦らせて見事であった。楽しかったと感じる舞台を観終えた後の幸福感の余韻に浸れる逸品であった。

藤田貴大が手掛ける「ロミオとジュリエット」は、シェイクスピアの戯曲を解体し、再編集をした、全く独特の構成にて作品を提示する。誰もが知る名作に手を入れるとは、大胆不敵ではあるが、そのタッチは非常に繊細だ。

物語は、ジュリエットが眠る墓場からスタートする。戯曲ではロミオとジュリエットの命運が分かれるクライマックスとも言えるシーンであるが、物語のクライマックスとも言えるシーンをオープニングに据える大胆さに目を見張る。

大胆なのはキャスティングにも反映されている。ジュリエットはもとより、ロミオも女性が演じていくのだ。ロミオを青柳いづみ、ジュリエットを豊田エリーが担っていく。女性が演じる男役は、男の擬態に依ることは一切ない。大森伃佑子の衣装もロミオに男の装いを託すことはない。かといって、女性が女性を好くという領域に入ることもない。人が人として、人間を愛するという普遍的な感情を、戯曲の奥底から掬い出そうとしている様なのだ。

藤田貴大演出は、感情のストレートな発露に向かわぬ演じ手の表現が独特だが、本作は日常生活の延長線上にはない物語。恋して死すまでの5日間に説得力を与えるために、俳優陣は担う役柄に自己を染み込ませ、とめどなく溢れる思いに抑制を利かせながらも、観る者の共感を誘っていく。

マームとジプシーの面々と、オーディションで選ばれた豊田エリーなどの俳優陣とが拮抗し合い、スパークする様が刺激的だ。ここまでパッショネイトに感情を溢れ出される青柳いづみを見たのは初めてかもしれない。思いの丈を叩き付け合うそのストレートさが、ロミオとジュリエットの若気の至りに説得力を与えていく。

山本達久のライブ演奏も作品に緊迫感をもたらせていく。ステージとの緊密なコラボを超越し、演奏者が作品の一部と化していく。傍観者のようでいて、いつしか参加しているというボーダーレスさ。まるでコロスの如く、展開する物語を見届ける視線も観客の眼差しとクロスオーバーする。

しかし、どんどんと舞台美術を転換し、次から次へと新たなシーンを創り出すスピーディーな展開は、藤田貴大の独壇場だ。その目まぐるしい速度と、ロミオとジュリエットとの疾走感とがしっくりと融合していくのが面白い。未来に向かってひた走る若者が抱合するパワーの洗礼を浴びることになる。

未来を信じ、希望を追い求める思いを失った時点で、人間は老いていくのかもしれない。老いるということは、死へと近づくこと。タナトスと背中合わせのエロスが共存するのが、このロミオとジュリエットなのだと再認識させられる。恋に恋する恋人たちを描きながら、希望を希求する未来に向けての思いを持つ大切さを本作から感じられたことは、得難い体験であったと思う。

同戯曲は、岩松了が蜷川幸雄のために書き下ろした作品で、2004年に初演されている。12年という時を経て、作者自身が演出も手掛けた本作は、蜷川演出とは異なる手触りの作品として生まれ変わった。

蜷川演出は、物語の舞台となる朽ちかかった屋敷を黒いヒマワリが囲む美術が衝撃的であったが、岩松演出は、自らの手による戯曲を立体化することに忠実に、いつしか自然と物語は始動していくことになる。

この屋敷に迷い込んだナオヤ、村上虹郎は、友人のケンイチ、鈴木勝大に会いに来たようだ。ケンイチはこの屋敷の住人であり、2階の1室に彼の部屋があるという。しかし、1階にはマリー、小泉今日子が棲みついている。彼女は何処からか追われてきており、空いているこの1室に隠遁しているのだということが、段々と分かってくる。マリーは、“春”を売る女らしい。

そこはかとなく立ち上る曖昧模糊とした雰囲気を纏う登場人物たちの描かれ方が、妙にシコリとなって心に沈殿する。存在感はあるのだが、実在感が希薄なのだ。登場人物たちの逡巡する思いは其処此処で錯綜し、此岸と彼岸との境目を消滅させていく。その先行きの見えないサスペンスフルな緊迫感に、知らず知らずのうちに、だんだんと吸い寄せられていってしまう。

物語の中心に聳立する小泉今日子と村上虹郎が発するオーラが舞台全体を覆っていく。この二人の在り様は、まるでリアルさを超越した幽玄世界の入口に立つセンチネルのような存在にも思えてくる。無意識に波動をチューニングしながら、意識下で闊歩する鬼っ子の様な二人は、何とも魅力的だ。

小泉今日子は初演と同じ役で続投だが、このマリーという女の性をぶれずに掘り下げていくため、年月を経ても、かつての印象と違わぬことがない。蓮っ葉で、世の中を斜に構えて見やる女の格好良さを、小泉今日子は見事に体現する。粋、である。表層と深層を行き来する意識と、表の世界と裏の世界とを熟知する女の生き様が交錯し、融合する。“春”を売る女は、現実を凌駕した女神とさえ思えてくる。

そんなこの世の生業に、矢を放つが如く疾走して駆け抜けるのが、村上虹郎だ。贖うことが出来ない倣いに、風穴を空ける役割を担っているかのようである。青年に未だなりきれていない純真無垢な少年であるからこそ、どんな世界でも容易に跋扈できる勢いに、かつて若かった青二才の自分の姿とをオーバーラップさせて見てしまう。ある種の、希望の様な存在として息づいている。

マリーに横恋慕するアオヤギ、橋本じゅんはマリーの客だったようで、現実世界に生きる男の業を全開にさせ、ポジティブな生命力を発していく。その同僚であるフナキ、豊原功補は、村上虹郎と対のような存在である気がする。様々な人々が行き交う光景を目の当たりにしながら、誰とも、しかと関わり合うことがない、集団の中における不安定な存在。そんな大人と少年とが、物語に一片のおいて照射し合っている。

アオヤギの父、たかお鷹が登場することで、物語に生温かな血液が注がれることになる。しかしその温もりは、父の敵意を懐柔しようと抱き込むマリーの思惑に絡め取られ、懇ろになっていく様の喜劇が可笑し味を付加する。アオヤギの妹とトシミ、南乃彩希は、ナオヤとの間にほのかな感情を交わし、当人の初々しさと相まって、爽やかなアクセントを刻印する。マリーのかつての住居の管理人フクダ、高橋映美子は、マリーの過去を炙り出し、時間軸に奥行きを持たせていく。コミカルな言動が、ホッと心慰められるのも嬉しい存在だ。

岩松了は、蜷川幸雄とは異なるアプローチにて、自身の戯曲を、まさに“花開かせた”と思う。鮮やかに咲く“花”を目の当たりにすることで、明日への希望が見出せる幸福をしかと感じられる心に残る逸品に仕上がった。

楳図かずおが1982年に連載を開始した原作は、的確に時代を先取りした世界観を提示しており、今なお褪せることない刺激を与えてくれる。その傑作が、フィリップ・ドゥクフレの手により舞台化された本作は、原作をアーティスティックな筆致で彩り、観る者誰をも惹き付ける魅力を燦然と放っている。

まずは、楳図かずおが描いた物語の先進性に、改めて驚かざるを得ない。真鈴と悟という小学生が結婚をすると宣言する。大人の世界に堕ちてしまう前の、強烈に純度の濃い思いを二人は共有している。そしてその思いが、真悟という子どもを生み出すことになるのだ。真悟とは、産業用アーム型ロボット。その後、離れ離れになってしまう真鈴と悟が、大人へと成長してしまう前に、真悟は二人の言葉をお互いに届けようと猛進していくことになる。

フィリップ・ドゥクフレは、二人の子どもの言動にセンチメンタルに寄り過ぎることなく、自立した人間として捉える向き合い方が真摯だと思う。ましてや、真悟に対する描き方も機械ではなく意思ある人間にように扱われるため、SFではなく人間ドラマとして成立している。

ミュージカルと謳われているが、ブロードウェイ・ミュージカルとは全く様相を異にする。キーボード、シンセサイザー、オープンリール、ドラム、ビブラフォンなどを駆使した、新機軸の新しいアンサンブルを堪能することが出来るのだ。また、鳥の鳴き声や風の音などの擬音も楽器が担っていく。

フィリップ・ドゥクフレ自らが振付を手掛けるダンスもまた楽しい。それぞれの役柄が活きる人間的な魅力が溌剌と表現されていく。ダンス、歌、そして、衣装、照明、美術、映像などと見事に呼応しながら展開していくステージは、フィリップ・ドゥクフレの独壇場だ。まさに総合芸術であり、しかもエンタテイメントとしても成立させる氏の才能に酔い痴れることになる。

小学生の真鈴を高畑充希が、悟を門脇麦が演じていくが、変に子どもの擬態をなぞることなく、物語の神髄と役柄の真情とをシンクロさせ、それぞれ一個の意思ある人間を造形していく。何にも頼ることのない自立した小学生像は、未来への希望を指し示すサーチライトの様にも感じる。

真悟を担うのは、エリック・マルタンのデザインによるフューチャー・モダンな産業用アーム型ロボットと、俳優の成河である。無機質な中にもエモーショナルなニュアンスを注ぎ込む成河の在り方が作品とピッタリと馴染んでいく。悟のことが好きなしずかを大原櫻子が演じ、子どもが持つ大人の感性を伝播し可憐な魅力を放っていく。大人の悪しき側面を拡大したかの様なロビンを小関裕太が演じるが、自分の都合を最優先しながらも沈殿する哀しみをも感じさせる男を重層的に創り上げた。

楳図かずおの原作を再構成し、作品の中から見事にエッセンスを引き出した谷賢一の脚本という屋台骨があってこそ本作は成立し得たのだと思う。トクマルシューゴ、阿藤海太郎の音楽、青葉市子の詞、そして、トウヤマタケオ、Open Reel Ensembleの演奏は、これまでのミュージカルにはない新しい地平と可能性を押し拡げた。今まで観たことのないステージを体験出来たことの驚きと楽しさを享受出来る。

美術・衣装・振付を受け持つアーティスティック・ディレクター、エリック・マルタンの才能も特筆すべきだ。シーンを説明し過ぎることのなく、しかし、そのシーンからインスパイアされるイメージを最大限に広げて独自の世界観を繰り広げていく。日本の舞台の習わしとは発想を異にするそのプランは実に刺激的だ。

フィリップ・ドゥクフレだからこそ獲得出来たオリジナリティ溢れるステージは、時代を先取りした楳図かずおの思いを、刺激的でアーティスティックに見事に変換して見せ、傑出した作品に仕上がった。更に磨きがかかって本公演に臨む本作の行方が楽しみでならない。

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