2004年 3月

むせび泣き震えるような繊細な感情で紡がれた幽玄な岩松戯曲を、ピンセットで神経をつまみ出すかのようないつもとは違ったアプローチで、蜷川演出はその真髄をすくい出そうとしていく。抽象と具象の間を行き交う物語の地平線を辿った行き着く果てを、二宮和也演じる主人公ナオヤと共に我々は旅(インナートリップ)をすることになるのだ。

オープニングのシーン、二宮和也と勝地涼のふたりのやりとりを見ていると、肩の力を抜いた自然な佇まいでありながら、奇妙にリアルな感情が迫ってくるという透明な空気感が覆う独特の世界に吸い込まれていってしまう。ましてや、小泉今日子が登場するとなると、世界は一気に「シブヤから遠く離れて」だけが持つ世界観を創造し始め、スターというイコンは、揺ぎ無い絶対性を確立していると同時に、大いなる普遍性を持ちえるのだということに気付かせてくれた。

いろいろな人物が行き交っていく。その誰もが、半歩別の世界に足を踏み入れているような人々ばかりで、ここで集うことそれ自体が招かれざるパーティーに強引に参加しているかのような厚かましさと寂しさを両方併せ持ち、その不安定さがこの物語からリアルな具体性を剥ぎ取っていく。

蜷川が仕掛けた舞台を覆う背高の枯れたひまわりの群生を役者が掻き分けながら演技することで、リアルな擦れるノイズが発生し、ともすると抽象的な世界に偏りがちになる役者の生理を舞台上に留めておくことに成功した。その感情は、観客にもストレートに伝わることとなった。

ヒントはそこかしこに点在し、観客はそのパズルを自らの解釈で組み立てるという創造性を掻き立てられる物語の果ては、映画「アザーズ」よりも優しくまた残虐ともいえる終焉を迎えるが、そこには救いの死生観のようなものがあり、最後のパッと花開いたゼラニウムの赤い花と舞い散る雪が、今まで起こったこと、虚実を含めた全てのことを浄化させてくれたような気がした。全ての人が幸せでありたいのだ、というささやかな願いを少しの間だけ聞いてくれたような、感謝の気持ちすら起こってきた。誰に対して? 神?

許し認めるという観念を通過すると、人はまた別の地点に辿り着けるのかもしれない。罪を背負っていたナオヤは、その荷を降ろしてこれから穏やかな眠りにつけるのだろうか?
ゼラニウムの花のように希望に満ちたこれからでありたいと願うばかりである。

野田秀樹、13年前の作品の再演。クルクルと目まぐるしく迸り出る才気溢れた本作は、若さによるスピード感と天才が駆使する言葉によって疾駆した前回とは異なり、今の日本の立ち位置をきっちり見据えながら、憂うべき未来に向けての警鐘とも言うべき深く広いメッセージを観客に突きつけてくる。

砂丘という何もない空間。燃えた日の丸の赤い丸の部分から顔を覗かせる星条旗。新聞紙で作られた登場人物たちの衣装。20世紀で滅びるものを未来に受け継がせようとする行動自体が虚しいと思える程、今、ここに生きる私たち自身は、アイデンティティというものを一体何処に置き忘れてきてしまったのか?という思いが募る。そんな思いに駆られれば駆られる程、私たちは“この世界”にどっぷりとはまっていってしまうのだ。

13年前の地点より、まさに2004年の今の方が、強烈にそのテーマはくっきりと浮かび上がってきたのではないか。本当の自分の居場所を捜しては悩み、模索し、自分なりの答えを導き出そうとする、ヘレン・ケラ、透アキラの、ギリギリの思いと選択が、私たちの心を揺さぶるのである。そして、ある種、諦めにも似た、達観した客観で観客を湧かす野田のサリババ先生が、まさに、作者・野田秀樹の立ち位置かもしれない。

宮沢りえの清楚な輝きは、舞台に一層の華やかさを与え、阿部サダヲの洒脱は、テーマを決して収束させない独特のパワーを振りまいていた。

日比野克彦の衣装が秀逸。前述の新聞紙をモチーフとした衣装はもちろん、透明人間に鮮やかな色彩をまとわすなど、その発想の根拠ある大胆さが目を引いた。

この作品の後、「パンドラの鐘」「オイル」を記すことになる野田秀樹ではあるが、現在の地点から過去をあぶり出すその2作とはアプローチ方法が異なる本作に、現在から未来に向けての思いを発する未来を信じる強い思いを垣間見た気がした。

野田秀樹は、これから未来について書くことがあるのだろうか? いや、堂々と未来を語ることが出来る時代はこれからやってくるのだろうか? そんなことを問いかけられたような気がした。2004年であるがゆえに発せられるメッセージを、我々はどう受け取っていけば良いのかを真摯に考えさせる作品であった。また、時代を超えて語りかける野田戯曲の普遍さに、改めて驚愕させられる本作でもあった。

恋・友情・親子愛を鋭い切り口で斬ってみせる、やはり傑作の舞台であった。いまさらながら、全く無駄のない脚本の出来には驚愕した。何十組かの男女の睦みごとの間を花魁がしずしずと通るオープニングからも明らかなように、より男女の心の機微に焦点を当てた新演出は、一種、形式化していたこれまでの方法論を崩し、熱情がナチュラルに観客席に届く等身大の若者を描ききった。よりリアルな感情表現に立ち返った。「ロミオとジュリエット」にも似た若者の疾走する早急な思いが、よりスピード感を持って劇場を駆け巡る。

寺島しのぶの梅川は、その熱情さにおいては抜きん出ている。忠平衛に向かって駆け込んでくるシーンなどは、舞台裏から走り込んで来るときの足音が観客の耳にもはっきりと聞こえるなど、全身全霊で梅川を生きる演技を超えた存在に圧倒させられる。田辺誠一の与平衛が以外にもひょうきんで軽い味わいを出していたのにも驚いた。三枚目への幅を確実に本作で広げている。阿部寛の忠平衛は迷いのない直球演技でストレートに観客の胸に飛び込んでくる。須藤理沙の愛らしいお亀も、与平衛のことが本当に好きで好きでしょうがないという気持ちが、歴代お亀の中で一番伝わってきた。

登場人物の気持ちを立たせることにプライオリティを置く演出は、よりソリッドに人物を造形し、ますますシンプルで迷いがない。音楽や花や雪も背景として存在し、それぞれのパートのぶつかり合いのような演出でないため、より、役者が引き立つという訳である。
例えば、明治座公演の道行のシーンでの物凄い大量の雪でやんやと客席が湧いたのとは反対に、本演出は、ほんと流れ流れた果てに辿り着いた感がひしひしと伝わり、切なさと寂しい気持ちとがあぶり出されてくる。

遊女がたおやかに座り客を待つシーン、死んだお亀がたびたび現れるシーン、与平衛が最後の言葉を吐き幻影の群集に紛れていくシーンなど、ただ美しいというだけでなく、その時の空気感までもが舞台上に立ち上がり、各シーン共リアルではあるのだが、例えばフェリーニの美学にも似た幻想的な独特の美学にまで昇華されている。

唯一観客の入りの悪さが惜しまれるが、紛れもなくシャープに美しく蘇った本作は、日本が誇る傑作舞台であることに相違はない。

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