むせび泣き震えるような繊細な感情で紡がれた幽玄な岩松戯曲を、ピンセットで神経をつまみ出すかのようないつもとは違ったアプローチで、蜷川演出はその真髄をすくい出そうとしていく。抽象と具象の間を行き交う物語の地平線を辿った行き着く果てを、二宮和也演じる主人公ナオヤと共に我々は旅(インナートリップ)をすることになるのだ。
オープニングのシーン、二宮和也と勝地涼のふたりのやりとりを見ていると、肩の力を抜いた自然な佇まいでありながら、奇妙にリアルな感情が迫ってくるという透明な空気感が覆う独特の世界に吸い込まれていってしまう。ましてや、小泉今日子が登場するとなると、世界は一気に「シブヤから遠く離れて」だけが持つ世界観を創造し始め、スターというイコンは、揺ぎ無い絶対性を確立していると同時に、大いなる普遍性を持ちえるのだということに気付かせてくれた。
いろいろな人物が行き交っていく。その誰もが、半歩別の世界に足を踏み入れているような人々ばかりで、ここで集うことそれ自体が招かれざるパーティーに強引に参加しているかのような厚かましさと寂しさを両方併せ持ち、その不安定さがこの物語からリアルな具体性を剥ぎ取っていく。
蜷川が仕掛けた舞台を覆う背高の枯れたひまわりの群生を役者が掻き分けながら演技することで、リアルな擦れるノイズが発生し、ともすると抽象的な世界に偏りがちになる役者の生理を舞台上に留めておくことに成功した。その感情は、観客にもストレートに伝わることとなった。
ヒントはそこかしこに点在し、観客はそのパズルを自らの解釈で組み立てるという創造性を掻き立てられる物語の果ては、映画「アザーズ」よりも優しくまた残虐ともいえる終焉を迎えるが、そこには救いの死生観のようなものがあり、最後のパッと花開いたゼラニウムの赤い花と舞い散る雪が、今まで起こったこと、虚実を含めた全てのことを浄化させてくれたような気がした。全ての人が幸せでありたいのだ、というささやかな願いを少しの間だけ聞いてくれたような、感謝の気持ちすら起こってきた。誰に対して? 神?
許し認めるという観念を通過すると、人はまた別の地点に辿り着けるのかもしれない。罪を背負っていたナオヤは、その荷を降ろしてこれから穏やかな眠りにつけるのだろうか?
ゼラニウムの花のように希望に満ちたこれからでありたいと願うばかりである。
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