2017年 4月

本作最大の興味は、客席が360度回るというIHIステージアラウンド東京が、そのステージであるということだ。劇団新感線の節目とも言えるタイミングで、度々、上演されてきた演目であるが、1年間を4つのカンパニーで突っ走るという企画の杮落しである本作への期待感は高まるばかりだ。

こういうワクワク感が感じられる演目というのも早々あるものではない。エンタテイメントとしての要素を抱合したプログラムでない限り、同劇場でのロングランは有り得ないと思うが、劇団新感線に白羽の矢が立ったのは納得である。演劇という枠を超越し、映画館においても上演作品を上映するなどの多岐に渡る展開が、多くの人々の支持を得ている実績は燦然と輝いていると思う。

劇場の構造をお話ししてしまうと、劇場内の周囲に様々な場面の美術が仕込まれており、各シーン毎に客席が動くと、眼前にはその場の装置が仕込まれたステージが現れるといった具合だ。客席が動いているのがリアルに体感出来、さて、次はどんな世界へと誘ってくれるのかという期待感が絶えず継続する演劇というのは、何とも新鮮だ。

シーンとシーンとの繫ぎ目は、映像がそのブリッジの役割を果たしていく。期待感を高める音楽も、観客の気持ちをザワザワとさせる効果を放っていく。幕間も飽きさせない仕掛けが施されているのだ。

ステージを華やかに彩る俳優陣の外連と、計算し尽くされた緻密なタイミングを逃さず進行するスタッフワークとが見事に融合する。更には、観客も含めて劇場内が一体化する効果を、360度回転シアターが促進させていく。三位一体とも言うべきエンタテイメントの理想の姿が、ここに形成されている。

本作の中心に聳え、物語牽引するのは小栗旬である。線が細いながらも、まさに旬の俳優が放つオーラ-は他の追随を許さない存在感だ。また、色香を放ちながら、キレの良い殺陣でバッタバッタと斬りまくる姿は、何とも格好いい。

山本耕史の殺陣もスピーディーで魅力的だ。コロコロと変転する心持ちを、安定感ある資質で底支えしているため、その存在にぶれがない。ある種、現実を超越した孤高の存在にも見えてくるのが面白い。

成河が悪の権化のような役回りを担うが、貫禄で押し切らないキャラクターが、かえって狡猾さを浮き立たせる。りょうが気風のいい遊女を艶やかに演じ、斬った張ったの世界に一服の清涼感を与えてくれる。

しかし、何と言っても登場するだけで劇場を沸かせる古田新太の存在は、やはり凄い。その一挙手一投足から目が離せなくなっていく。古田新太が存在するだけで、劇場は笑いに包まれる。エンターテイナーの醍醐味をたっぷりと堪能させてくれる。

近藤芳正の渋さ、青木崇高の洒脱さ、清野菜名の爽やかさも、作品に強烈なアクセントを付加させるなど、俳優陣の個性を掴み出し最大限に拡大することに成功している。仕掛けが満載のステージなのであるが、その外連に引っ張られ過ぎることないのは、舞台上で人間がしかと生きているからに相違ない。

カーテンコールで客席がグルリと回転する中、観客席を取り囲むステージが全て開陳する光景は圧巻だ。演劇としてもアトラクションとしても満足できる娯楽作の極みだと思う。これからのシーズンの公演はキャストも演出も一新するという。どのような変化を示すのか、見届けたいなと思わせる魅力に満ち溢れた作品であった。

大竹しのぶを始めとする、旬の実力派俳優が居並ぶキャスティングに、観劇する前から惹起してしまう、ラシーヌの有名戯曲は、舌戦の台詞劇だ。

本作は台詞を堪能する芝居だ。スペクタクルな演出的な要素は一切排され、ラシーヌの戯曲世界を余すところなく再現しようと腐心する。栗山民也の演出は、台詞を最大限に活かし、その中から生きとし生ける生身の人間の業を掴み出していく。

大竹しのぶ演じるフェードルは神の血を引く王妃であるが、継子であるイッポリットに横恋慕するという人間的感情が発端となり、周りの者全てを巻き込む悲劇へと雪崩落ちていく。その無垢感、特権的意識、信じるものを曲げない強靭な精神を持って、フェードルは迷うことなく突っ走る。人間でありながら、人間を超越した在り方に説得力を持たせるのは、流石、大竹しのぶである。

フェードルの愛を受けるイッポリットは平岳大が担っていく。偉丈夫な中にも繊細な感情が染み出て、市井の人間の苦悩を滲み出していく。大柄な体格と、フェードルに翻弄される小心な心持ちとのギャップが、少々可笑し味を醸し出す効果を発していく。

フェードルの乳母エノーヌを演じるのはキムラ緑子であるが、大竹しのぶと実年齢の差は左程ないと思われる。乳母というより侍女という関係性にも見える。多分これまでの人生は、フェードルのために生きてきたのであることが彷彿とさせられる献身的な態度が印象的だ。フェードルとは一心同体的な感じさえして、結果、フェードルが突き進む道を助長してしまう女の弱さが憐れに感じる。

歌を封じた今井清隆が迫力ある存在感を見せつける。死したと思われていたフェードルの夫君であるアテネ王テゼが、まるで甦ったかのように登場するシーンは緊張感に満ち満ちていた。百戦錬磨の俳優陣が居並ぶ中において、威厳を湛えた存在感は、アテネ王というポジションに君臨する男という役どころに説得力を与えていく。

門脇麦はアテネ王テゼに反逆した一族の娘で、囚われの身であるアリシーを演じていく。どういう経緯を経たためか、フェードルが恋するイッポリットと両想いの仲になっている。まるで、ロミオとジュリエットの様な、許されない恋である。門脇麦の若さが溌剌とした気を発し、心に葛藤と抱えながらも純愛へと突き進むパワーが放熱されていく。

イッポリットの養育係テラメーヌを谷田歩が演じていく。養育係とはいえ、平岳大との
年齢差はほぼないため、ハムレットとホレーショにも似た関係性の様にも見えてくる。フェードルと乳母エノーヌにも酷似したこの揺るぎない信頼感。近しい者同士がお互いの心根を照射し合うことで、本音が浮き彫りになるという構図が面白い。

物語の顛末は、中心に聳え立つフェードルの強烈な情念に引き摺られ、全ての者が悲劇の結末を迎えていく。西洋の個人主義も、大きな運命の流転に巻き込まれてしまうとひとたまりもない。神と対峙する人間の葛藤が哀しみを誘っていく。

実力派俳優の台詞術に酔える室内劇として見応えがある。しかし、台詞に寄ることで生じる文学的な香りは、観客に対して、ある種、高尚なものを提示しているのだという創り手の視点を感じたのは私だけであろうか。しかし、その域を、大竹しのぶは軽々と超越し、作品に突破口を開いていく。生々しい断末魔の叫び声が、今も、耳に残り離れることはない。

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