2012年 7月

開演5分前になると、青木さやかが舞台に登場し、前説を開始する。難解であろうと思われているこのチェーホフの「桜の園」の鑑賞の仕方のポイントを、AKB48の「ヘビー・ローテーション」にリズムに合わせた替え歌に乗せて紹介していく。前口上的な仕掛けで始まる芝居はあるが、こんな完全な前説からスターとする芝居を観たのは初めてである。隅々にまで目を光らせ、何か新しいものを発掘していこうとする三谷幸喜の意気が見て取れる。

チェーホフが“喜劇”と指定したこの「桜の園」であるが、これまで“喜劇”として上演されてこなかったことに三田幸喜は異を唱えた。チェーホフが当初意図したような作品へと「桜の園」を甦らせたいというコンセプトの下、三谷幸喜は既成の戯曲の翻案・演出に初めて取り組むことになった。そして、上演された本作は、その意に叶った、笑える「桜の園」を生み出すことに見事成功した。

1幕・4幕が子ども部屋、2幕が外、3幕がホールに隣接した客間という設定を、全てこども部屋に移し変えたことや、言い回しの作り替えや強調はあるものの、大枠は「桜の園」に他ならない。しかし、ピックアップされる行動や台詞の紡ぎ方が独特で、ついつい笑いが零れてしまうという局面が頻発していく。大爆笑ではないが、クスクス笑い。人間の可笑し味を戯曲の中から掴み出し、確実に観客にリーチするよう紡いでいくその手腕に脱帽した。

ラネーフスカヤはこれまで、没落していく貴族階級を体現した悲劇のヒロインとして演じられることが多かったように思う。しかし本作では、没落していくのが分かっていながらも、何の手も打たず、いずれは何とかなると思い込んでいる、人の話を聞かない女王さまとして描かれていくのだ。ガーエフもまたしかりである。屋敷の使用人たちも、主人には表面的には背かないため、何の手も施されないまま、桜の園は売却しなければならない結果となってしまう。

転換する時代に苦悩しつつもある決断を下す、悩めるヒロイックな描き方が成されるロパーヒンだが、本作での在り方はいつもと少し違う。没落していく側の悲劇に重点が置かれていないため、ロパーヒンの提案や説得に耳を貸さないラネーフスカヤの無知蒙昧振りがクッキリと際立っていくのだ。

ロパーヒンのどんな突っ込みにも、ボケでしか返さない面々を観ていると、唯一まともな感性を持っているのは、このロパーヒンだけなのではないかとすら感じていく。アーニャとトロフィーモフなど若い世代の者は、未来を切り拓いていこうという、漠然とはしているが前向きな意識を持ってはいるが、具体的なビジョンを未来に持っているのは、ロパーヒンだけなのだ。

その意識の“差異”が、ことごとく可笑しいのだ。そして、その可笑しさが、笑いへと転じていくことになる。笑いとは、“差異”から生まれるものである。三谷幸喜は、戯曲への視点の当て方を屈折させることで、笑いを引き出してみせたのだ。小手先の技術だけに頼ったのではない、こうした深遠なアプローチがあってこそ、“喜劇”は成立したのだということが良く分かる。見事である。

本作を喜劇ならしめるための最大功労者は、浅丘ルリ子だ。どう見ても、貴族階級に住む天上人としか思えない外見と、自己中心的で感情的でもあるラネーフスカヤの側面を、優雅に、そして、コメディエンヌの一面も染み出させながら嬉々と演じ圧倒される。特に、桜の園を買収したロパーヒンの話を一言も発せずに聞き入りながら、涙を流す姿は圧巻だ。物語のクライマックスを自らに引き寄せ、観客の視線を釘付けにしていく。

ロパーヒンを演じる市川しんぺーも、また良い。恰幅の良い身体と成金的な装いが、貴族階級との“差異”をくっきりと浮き彫りにし、声質も土着的で、ラネーフスカヤのたおやかさとは全く対照的な存在成らしめている。

見た目や出自がバラエティに富んだ役者陣が集められたということも、作品が従来の演劇的な方向性へと収焉しない大きな要因になっている。役者の個性と役柄とを上手くリンクさせ、生き生きとした人間性を立ち上らせた、三谷幸喜のキャスティング慧眼と演出振りは特筆すべきことであると思う。演出の意を汲んだ黒須はな子の衣装も、登場人物たちの生き方を端的に表現していく。青木さやか演じるシャルロッタの不遜な不思議ちゃん的存在感、迫田孝也演じるヤーシャのジゴロ振り、藤井隆演じるトロフィーモフの青二才が少々枯れ始めた感のある解釈などが、新鮮に映った。

登場人物たちの個性をはっきりと打ち出し、それぞれ人間性をくっきりと浮かび上がらせることにより、個々人の意識の“差異”がはっきり示されていく。そして、その上手く噛み合わない皆の言動が笑いを生んでいくといった手法を「桜の園」に見出した三谷幸喜初の既成戯曲演出作品は、これまでにないオリジナリティーを獲得した逸品として仕上がったと思う。

実に誠実な仕上がりといった印象の本作は、井上ひさし戯曲の粋を実直に掬い出し、思い切り役者がその世界で転げまわり、楽しみながら演じている姿をタップリと堪能できる贅沢さに満ちている。

蜷川演出はいつもの外連味ある仕掛けに拠ることなく、孤高に輝く戯曲を、信頼出来る俳優陣にしっかりと委ね、井上ひさしが描きたかった世界を正確に現出させることに集中している。力量ある役者の肩の力の抜き加減が絶妙で、笑いを振り撒きながらも、乃木将軍の心根の奥底を探っていくことになる。何故、乃木将軍は明治天皇が大葬の日の夕刻に殉死したのかと。

乃木将軍の愛馬3頭と、近所の雌馬2頭とで、その“謎”を解き明かしていこうという井上戯曲のその設定自体に、まず度肝を抜かれる。前足と後ろ足とで1頭の馬が成立しているため、10人の役者が馬の足を演じることになる。敢えて仕掛けを要さなくとも、戯曲の中に他には類のない様な仕掛けが既に施されている訳なのだ。この可笑し味をいかに伝えていくことが出来るかどうかが、作品の仕上がりの大きなポイントになってくるが、本作はその命題に対して真摯に臨んでいく。

前足と後ろ足とが、それぞれ自分の方が偉いのだということを、唱歌の替え歌にのせて丁々発止するような、決して大上段に構えることない塩梅で、物語は進んでいく。花いちもんめを嬉々として演じるベテラン役者たちの、この無邪気さと言ったら。思わず頬が緩み、観ているこちらまでもが幼少の頃にタイムスリップしたかのような感覚におちいっていく。

しかし、ここで取り上げられている歌たちは、最近、とんと聞かないものが多いなと感じ入っていく。こうした庶民の文化は、次代へと受け継いでいかなければならないのだという意識をしっかりと持ち合わせていなければ、途絶えてしまうかもしれないという危機感を感じた。井上ひさしの戯曲がある限り、この歌唱は受け継がれていくことになる訳であるが、戯曲には文化を継承するという役割があることにも気付かされることになる。

馬たちは時に人間ともなって、乃木将軍の側近たちを演じることで、物語は重層的な展開を示していくことになる。その辺の、役柄の憑依具合は、百戦錬磨の役者たちにとって果敢に挑戦しがいのある山であったのではないだろうか。

風間杜夫は乃木将軍と前足を演じるが、重厚さの中にも軽妙な味わいを残しながら、きっちりと乃木将軍の逡巡する想いを伝えていく。後ろ足で風間杜夫とコンビを組む吉田鋼太郎は、コミカルな資質を全開させ、機敏な動作や洒脱な台詞廻しで観客を湧かせる。根岸季衣が演じる乃木将軍の妻と前足は、軽妙さの中にもほっとする優しさを滲ませる、ソフトな雰囲気が心地良い。

六平直政と山崎一のコンビが絶妙だ。お互いが口喧嘩を仕掛け合いながらも、その駆け引きは一種の“芸”の領域にまで達していたと思う。絶えず、可笑しいのだ。朝海ひかると香寿たつきも、また、素晴らしい。馬の他に、それぞれ児玉源太郎と山県有朋を演じるのだが、宝塚風にと戯曲に指定があるように、出自の技術を最大限にカリカチュアライズして自嘲気味に振舞う、その様子が観客に大受けだ。重鎮の中において、大石継太と大川ヒロキは作品にフレッシュな感覚を持ち込むことになった。

天皇の連帯旗を守ったという人物像を生涯生き抜いた乃木将軍が、天皇の大葬と共に死すことで、時代に大きな区切りが付けられたという感を強く抱く。かつて起こった出来事やその時代を生きた人々の想いを受け継いでいくことの大切さを噛み締めながら、井上戯曲の面白さに酔うひと時を過ごすことが出来た。

2008年に上演された宮本亜門演出版も観ているが、全く作品の印象が異なっていることに驚いた。面白かった。グイグイと舞台に引き込まれていった。

ミュージカルではあるのだが、デヴィット・ルヴォーの演出はストレートプレイばりの精緻な人物造形を俳優たちに課している。それぞれの人物が抱える悩みや、無意識下に沈んだ思いなどと俳優陣がキッチリと向き合い、ミュージカルの真骨頂である歌に思いのたけを集約していくため、感情がどのシーンにおいても途切れることなく、突然始まる歌にも違和感を感じることはない。皆が、その役を生き抜いているのだ。

物語はスピーディーに展開していくのだが、作品自体はその速さに決して引っ張られることはない。あくまでも、人間が主体として描かれていくため、物語が表層的に展開していくことはなく、次のシーンへと果断なく感情が繋がっていく。そして、そのストーリーを無理なく見せるために大いに貢献しているのが、マイク・ブリットン手による装置である。

上から吊るされた真紅のカーテンが縦横無尽に動き、ある時はパーソナルな空間を造るための間仕切りとなり、また、登場人物たちの歩くテンポに合わせて幕を移動させながら、次の場面へとブリッジさせる役割なども担っていく。そして、ステージの盆が二重に動くため、別次元で高らかに愛を歌い上げる2人が交互の盆に載って近付いたり、また、遠避かったりするなど、登場人物たちの感情を高め合い、交錯させていくという効果も生んでいく。

装置自体の造形にも、ヨーロッパの感覚が随所に盛り込まれているところなどは、日本人の感性とは大いに様相を異にする。踊り場の付いた階段の造作などは、金属の無機的な質感に拠ることなく、欄干の微細に渡る細かな模様が施されているため、優雅な仕上がりになっている。また、女性陣がドレッシングルームから一斉に出て来るシーンがあるのだが、ドレッシングルームが半円形上に並んで設えられている様は「パリの恋人」冒頭のシーンにあるサロンを彷彿とさせられる。

壁がシャッターのピントを合わせるかのように縦横に動き、漫画の1コマの様に登場人物をクッキリと切り取る仕掛け。また、首相の執務室も一部分しか舞台上では出て来ないのだが、天高のある石造りの古風な西洋建築であることが想像できる空間作りが成されるなど、感情と情景を渾然とさせながらピックアップしていくため、観る者は、場のリアルさと、目に見えない気持ちとの狭間で揺れ動く術中へと嵌っていく。

ジョン・オコネルの振付も素晴らしい。時に、ミュージカルにおいて、マスゲームのような、一糸乱れることのない全く同じ動きをするダンスシーンなどに出くわすこともあるが、個々人の個性を際立たせた本作の振付は、何よりも自然であり、敢えて皆が同じタイミングを取らず、多少のズレを表現していくなど、ここでも登場人物たちの感情が置き去りにされることはない。

音響に効果も特筆に価する。デヴィット・ルヴォーは、瞬時にその場がどういう場であるのかを、音を使って表現していくのに長けているが、パーティー、酒場、スケートリンクなど様々なシーンにおいて、その場にピタリと合った効果音が流れることにより、一瞬にして前のシーンとの区切りをキッチリと付けていく。

全てのパートに渡り、デヴィット・ルヴォーの目が光り、最上のクオリティーをスタッフたちから引き出していく。

役者陣も、また、役に生き、その思いを観客に叩き付けてくる。井上芳雄が実にいい。胸に秘めたる熱い思いを、全身全霊を込めて観客に対し叩き付けてくるその歌声に、ついつい涙してしまうとはまさか思わなかった。その熱量が半端じゃないのだ。こんなに苦しい思いをストレートに訴え掛けられたら、その思いをしかと受け止めるしかないではないか、と思わせる迷いのない誠実さにノックアウトさせられた。

和音美桜と坂本健児が論争で対峙するシーンなども大いに見所がある。全く違うスタンスで、それぞれが真剣に相手に自分の思いを伝えようとしてバトルするパワーが半端ない。吉沢梨絵の屈折具合も多面的に描かれるため、妻としての哀しみが浮き彫りにされ、村井國夫の偉丈夫が揺るがぬ壁となってルドルフの前に立ちはだかるが、これも立場ゆえの選択であることが伝わるため悪役に陥ることはない。酸いも甘いも知り尽くした女の余裕と諦めを退廃的に演じる一路真輝の存在が、作品に華やかな彩りを添える。

デヴィット・ルヴォーの手により、魔法のように傑作として甦った本作は、演出家の力量の違いというものを、まざまざと見せ付けてくれる絶好の機会となった。感服したのと同時に、とにかく面白かった、と言える逸品だ。

最近のコメント

    アーカイブ