開演5分前になると、青木さやかが舞台に登場し、前説を開始する。難解であろうと思われているこのチェーホフの「桜の園」の鑑賞の仕方のポイントを、AKB48の「ヘビー・ローテーション」にリズムに合わせた替え歌に乗せて紹介していく。前口上的な仕掛けで始まる芝居はあるが、こんな完全な前説からスターとする芝居を観たのは初めてである。隅々にまで目を光らせ、何か新しいものを発掘していこうとする三谷幸喜の意気が見て取れる。
チェーホフが“喜劇”と指定したこの「桜の園」であるが、これまで“喜劇”として上演されてこなかったことに三田幸喜は異を唱えた。チェーホフが当初意図したような作品へと「桜の園」を甦らせたいというコンセプトの下、三谷幸喜は既成の戯曲の翻案・演出に初めて取り組むことになった。そして、上演された本作は、その意に叶った、笑える「桜の園」を生み出すことに見事成功した。
1幕・4幕が子ども部屋、2幕が外、3幕がホールに隣接した客間という設定を、全てこども部屋に移し変えたことや、言い回しの作り替えや強調はあるものの、大枠は「桜の園」に他ならない。しかし、ピックアップされる行動や台詞の紡ぎ方が独特で、ついつい笑いが零れてしまうという局面が頻発していく。大爆笑ではないが、クスクス笑い。人間の可笑し味を戯曲の中から掴み出し、確実に観客にリーチするよう紡いでいくその手腕に脱帽した。
ラネーフスカヤはこれまで、没落していく貴族階級を体現した悲劇のヒロインとして演じられることが多かったように思う。しかし本作では、没落していくのが分かっていながらも、何の手も打たず、いずれは何とかなると思い込んでいる、人の話を聞かない女王さまとして描かれていくのだ。ガーエフもまたしかりである。屋敷の使用人たちも、主人には表面的には背かないため、何の手も施されないまま、桜の園は売却しなければならない結果となってしまう。
転換する時代に苦悩しつつもある決断を下す、悩めるヒロイックな描き方が成されるロパーヒンだが、本作での在り方はいつもと少し違う。没落していく側の悲劇に重点が置かれていないため、ロパーヒンの提案や説得に耳を貸さないラネーフスカヤの無知蒙昧振りがクッキリと際立っていくのだ。
ロパーヒンのどんな突っ込みにも、ボケでしか返さない面々を観ていると、唯一まともな感性を持っているのは、このロパーヒンだけなのではないかとすら感じていく。アーニャとトロフィーモフなど若い世代の者は、未来を切り拓いていこうという、漠然とはしているが前向きな意識を持ってはいるが、具体的なビジョンを未来に持っているのは、ロパーヒンだけなのだ。
その意識の“差異”が、ことごとく可笑しいのだ。そして、その可笑しさが、笑いへと転じていくことになる。笑いとは、“差異”から生まれるものである。三谷幸喜は、戯曲への視点の当て方を屈折させることで、笑いを引き出してみせたのだ。小手先の技術だけに頼ったのではない、こうした深遠なアプローチがあってこそ、“喜劇”は成立したのだということが良く分かる。見事である。
本作を喜劇ならしめるための最大功労者は、浅丘ルリ子だ。どう見ても、貴族階級に住む天上人としか思えない外見と、自己中心的で感情的でもあるラネーフスカヤの側面を、優雅に、そして、コメディエンヌの一面も染み出させながら嬉々と演じ圧倒される。特に、桜の園を買収したロパーヒンの話を一言も発せずに聞き入りながら、涙を流す姿は圧巻だ。物語のクライマックスを自らに引き寄せ、観客の視線を釘付けにしていく。
ロパーヒンを演じる市川しんぺーも、また良い。恰幅の良い身体と成金的な装いが、貴族階級との“差異”をくっきりと浮き彫りにし、声質も土着的で、ラネーフスカヤのたおやかさとは全く対照的な存在成らしめている。
見た目や出自がバラエティに富んだ役者陣が集められたということも、作品が従来の演劇的な方向性へと収焉しない大きな要因になっている。役者の個性と役柄とを上手くリンクさせ、生き生きとした人間性を立ち上らせた、三谷幸喜のキャスティング慧眼と演出振りは特筆すべきことであると思う。演出の意を汲んだ黒須はな子の衣装も、登場人物たちの生き方を端的に表現していく。青木さやか演じるシャルロッタの不遜な不思議ちゃん的存在感、迫田孝也演じるヤーシャのジゴロ振り、藤井隆演じるトロフィーモフの青二才が少々枯れ始めた感のある解釈などが、新鮮に映った。
登場人物たちの個性をはっきりと打ち出し、それぞれ人間性をくっきりと浮かび上がらせることにより、個々人の意識の“差異”がはっきり示されていく。そして、その上手く噛み合わない皆の言動が笑いを生んでいくといった手法を「桜の園」に見出した三谷幸喜初の既成戯曲演出作品は、これまでにないオリジナリティーを獲得した逸品として仕上がったと思う。
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