2009年 1月

2009年1月18日に行われたセミナーに
参加された方々から寄せられたコメントをご紹介します。

 

(アパレル 20代♂)
面白そうだと思って、軽い気持ちで参加したのですが、期待以上に大変に楽しかったです。上司と部下、それぞれをいろんな相手役の方と演じました。相手によって、自分の気持ちにこんなに変化が起こるんだということを発見し、きっと、それは相手も自分のセリフの言い方で変わっていくのだと、実感できました。

(金融 30代♂)
3話目の脚本は、自分の状況にピッタリ合っていて、ちょっと驚きました。仕事についての考え方を、押しつけられるわけではなく、面白い脚本を読んで演じているうちに、自分のなかに、いろんなヒントが残ったような気がします。すごく素直な気持ちになりました。

(保険 30代♂)
毎回、楽しみに参加しています。今回、初めてビジネスをテーマしたプログラムでしたが、今までの恋愛をテーマにしたものと、また違って、すごく趣深かったですね。上司役もまだ自分が上司ではないのですが、少しだけ上司の気持ちがわかったような気がしました。今度は、女性役も演じてみたいです。

(ライター 30代♀)
3回目の参加です。自分も脚本を書いてみたいと思っていたので、今回のオリジナル脚本は、とても刺激になりました。やわらかなストーリーで、きちんと仕事の上での悩みを解決していくための落とし込みがされていて、大変、面白かったです。

(公務員 30代♀)
何度も参加していますが、今回は、初めてビジネスをテーマにしたオリジナル脚本を使う、と聞いて、実は、どんな感じなのか想像がつきませんでした。でも、実際に演じてみたら、すごく面白かったです。3作目の脚本は、自分の仕事の話に重なってしまい、読みながら、演じているのか、自分の気持ちを言っているのか、わからなくなるほどでした。2作目の脚本は、自分の仕事での武器を持つこと、などが語られていて、いったい、自分の武器はなんだろう、と、あれからずっと考えています。講義式ではなく、演劇の手法で、楽しみながら登場人物を演じるので、気持ちにいろいろな思いが残り、自分が一つ成長できた気がしました。

(ネットショップ経営 40代♀)
脚本を読みながら、こんないい上司いるかしら、とも思いながら、じゃあ、自分はどうなんだろう、とか、いろいろな考えが巡っていきました。悩みを語り合うカウンセリングもいいですが、脚本を使って、自分を客観的に見つめ、物事を黒白に決めるのではなく、いろんな立場や状況での相手への思いやりを学ぶことで、心が軽くおおらかになっていくシアターセラピーは、これから大きな期待が持てるカウンセリング手法だと思いました。

 

2009年1月18日(日)14時 銀座区民館(東銀座)にて、
「シアター・セラピー&セルフレッシュ・ヨガ」セミナーを開催した。


まずは、家でも簡単にできるヨガを、堤かつらが指導していきます。
畳半畳でもできる「半畳ヨガ」がコンセプトです。
毎日、続けて出来るような気軽なヨガを提案していくのですが、
ヨガを進めていくうちに、自分の身体の硬さや限界を、
知らしめられることにもなります。

また、呼吸の仕方が大切であるとも唱えます。
丹田を意識した複式呼吸をすることが、
安定した意識を保つ秘訣でもあるとのこと。

日常の過ごし方にも、大きなヒントを得ることが出来ました。

昨年までの「シアター・セラピー」は、
主に「恋愛」をテーマとした戯曲を選定し行ってきましたが、
本年より、7つの大きなテーマを立て、
そのテーマに即した様々な切り口の戯曲をテキストとすることにしました。

今回は、「ビジネス」編。3種類のテキストを読み合わせていきます。

  1. 「なんでも話せる同僚がいない」
  2. 「今の仕事が向いていない」
  3. 「上司と部下はわかり合うのが難しい」

テキストは全て、ライター・新井アキヨさんによるオリジナル。
かなりリアルなテキスト内容に、取り組む皆さんたちは、
自らの今の環境や心情をオーバーラップさせていきます。

また、皆さんには、上司役部下役両方体験してもらい、
また、演じる相手もテキスト毎に変えていきました。
それぞれの立場のおける悩みを共有すると共に、
相手のキャラクターによって、
自分の反応が全く違ってくることなども体感していきます。

最後に職場におけるパワー心理学の一部を解説し終了しました。

今後は、今回登場した上司と部下に関係する方々の登場へと派生させていき、
テキストが一体これからどんな展開になっていくのかといくことも、
継続して参加していただく方々には大きな楽しみになることと思います。

終了後は、場をカフェに変え、参加者皆さんの参加の下、
温かなアフタートークを繰り広げました。
その後は、有志たちで懇親会を行い盛り上がりました。


<シアター・セラピー>ナビゲーター

草川 一
日本大学芸術学部演劇学科卒。
日本メンタルヘルス協会公認・心理カウンセラー。

 

<セルフレッシュ・ヨガ>インストラクター

堤 かつら
ライフアップヨガ学院・NPOヨガ元氣学
認定インストラクター

「冬物語」を舞台で見るのは初めてだった。シェイクスピア作品の中では「ロマンス劇」というジャンルで括られているが、ファンタジーに近いおとぎ話のような展開である。かなり無理目な設定を、どう見せていくのか手腕の問われるところであろうが、そこは蜷川演出。マジックのように、この古色蒼然とした物語を、活き活きと現代に甦らせてくれた。

腹の底から叫ぶような、大陸的で牧歌的でもある女性の詠唱が鳴り響くと、唐沢寿明演じるシチリア王・レオンティーズと田中裕子演じる王妃・ハーマイオニ、そして、王の盟友、横田栄司演じるボヘミア王・ポリクシニーズ、の3人が現われてくる。背景は舞台3方がフレスコ画のような大きな絵が描かれた赤っぽい壁で囲まれている。そして、王ふたりが手に持つ紙飛行機をフッと飛ばすと、2つの紙飛行機は頭上高くクルクルと旋回して回り始める。幼少期からの知り合い同士であるこのふたりの強い絆というものが一気に可視化され、観客の心はグイと鷲づかみにされる。紙飛行機と凧という相違はあるが、今や007監督となったマーク・フォースターの昨年公開作品「君のためなら千回でも」を少し彷彿とさせられた。

シチリア滞在の延長を懇願しても訊かなかったポリクシニーズが、ハーマイオニには説得されたことに端を発したのか、レオンティーズはふたりの関係を疑い始める。いや、元々何かでそう疑っていたのであろうか。嫉妬の嵐に見舞われるレオンティーズは、開幕後すぐに、ハーマイオニを不義密通の罪で訴えることとなる。唐沢寿明は、この匙加減の難しい気持ちの起伏を重層的に重ねていきながら、疑念ではなく確信を持って訴えたのだという強力なパワーにて、説得力ある感情を紡ぎ出す。また、田中裕子の凛とした王妃の品格もまた美しい。冷静に状況を見据えながらも、決して感情には流されないという強固な意思を貫き、王妃としての威厳を見せつける。

事の展開は悲劇を生み、悪しき顛末を迎えることとなる。そして、そこから16年の時が過ぎることとなる。2幕目の冒頭を飾る、この16年の顛末を語る独白のシーンもまた見事である。ひとりの役者がまるで胎児が起き上がり成長していくような動作を見せながら、顔に幾重にも装着していた仮面を台詞に合わせて剥いでいくことで、一気に16年を駆け抜けてみせるのだ。16年を経て、主な舞台はボヘミアへと移行する。シチリアの赤いイメージとは打って変わって、ブルーの色彩がアクセントとなっている。ここで、羊飼いに拾われていたシチリア王の娘・パーディタの成長を目の当たりにすることになる。この娘を、二役で田中裕子が演じている。凛とした気品はそのままに幼さの残る純朴さを醸し出し、ハーマイオニとは全く別の人物造形を生み出した。恋する相手は、長谷川博己演じるボヘミア王子・フロリゼル。運命の糸が絡み合い大きなうねりとなって、ひとつの結末へと終焉していく。

ボヘミア王の反対に合った若いふたりは、家臣の計らいによってシチリアへと駆け落ちすることになる。ここで、シチリア王と対面し、もつれた運命の糸がほぐれ全てが白日の下に晒されることになる。そして、16年前に自害していたはずの王妃が実は生きていたことも判明する。まあ、凄い展開と言えば凄い展開ですよね。この辺のおおらかさと言うか、ご都合主義と言うか、このビックリするような展開を、鉄壁の役者陣はロマンス劇として完全に昇華させていた。リアルとファンタジーの合間に、ピッタリと存在している訳です。藤田弓子の母性溢れる温かさ、六平直政の浅薄な滑稽さ、瑳川哲朗の小気味いい小悪党振りなど、それぞれ役者たちが、十分に持ち味を活かし嬉々として演じている姿がまた楽しい。

シチリア王が家臣に向かい、何処か静かな場所を用意してくれ、王妃とこれまでの顛末をゆっくりと語り合いたいのだと言う言葉に、何故か涙してしまった。以前とはまるっきり変わってしまったシチリア王の、深い愛情、溢れる思いを、その言葉の中に感じてしまったからだ。人は、優しさに弱く、また、癒されるのであろうか。エンディングもまた、紙飛行機が旋回するシーンで幕を閉じる。運命とは回り続ける紙飛行機のようなものなのであろうか。まるで神の大きな掌の上で遊ぶ人間を弄ぶかのような幕引きも、また楽し、である。

観終わった後、しばし呆然としてしまった。言葉にならないズシンとした衝撃をハートにくらった感じなのだ。どうやら野田秀樹は、またもや今までに見たことのない種類の傑作を産み出してしまったようなのだ。しかも超弩急の。野田秀樹は、滅亡しかかっている火星に移住した人々の歴史を紐解きながら、その奥に隠された真実を炙り出していく。そうなのだ。今まさに滅亡しかかっているかもしれない私たちが住むこの地球に、全てをオーバーラップさせていくのだ。

物語は、橋爪功が演じる父が、外で倒れていた女・佐藤江梨子と結婚すると言い出し、娘の松たか子が、姉の宮沢りえを家に呼び戻すところからスタートする。スター女優同士の競演はいかにと期待は膨らむが、予想以上に素晴らしかった。宮沢りえがいつもの澄んだ声質を変えやや低めのトーンで語り始めると、この姉の度胸や苛立ちが立ち上り、明晰だが柔らかな印象を放つ松たか子と対を成すそのバランスが見事である。まずは、ノッケから脂の乗り切ったアーティストをナマで見れるという、舞台の醍醐味を存分に堪能させてくれた。橋爪功も重鎮だが柔軟である。舞台が引き締まりもするが弛みもする。その緩急自在振りが、実にしなやかなのだ。

タイトルにもある、パイパーというのは、人間の傍に居て優しく立ち振る舞いをフォローし、怒りなども吸収してしまう人工のロボットのようなものである。6体のパイパーを演じるは、コンドルズの面々である。このパイパーの造形が実に素晴らしいのだ! シルバーの宇宙服を着たような感じなのだが、両手部分が繋がっており大きな弧を描いてバネのように伸び縮みするのだ。この手で、人を覆ったり、段差があるところなどは優しく手助けしてあげるのだ。唯一無二の物体である。ひびのこづえさん、素晴らしいです。

物語は展開する。死んだ人々が残した瞳を鎖骨に押し当てると、その人が見てきた光景を追体験出来るという設定の下、大倉孝二演じる父の女の8歳の息子!なども絡み、父と姉妹と息子たちは、過去の火星へとトリップしていく。この過去に向かうチューニングをしている状態に舞台全面に映し出される奥秀太郎の映像も秀逸である。そこで、1000年前に火星に移住してきた時からの人類の歴史が断片的に語られていくことになる。

パイパーと共存し幸福に暮らしていた人々だが、食べ物の嗜好によって、その勢力をだんだんと二分させていく。人工の食物を食べるのが一般的である中、隔離され育てられていた野菜を食す人々が現われ対立していく。皆共生しているのだからと言い、金星に野菜を渡したりもしている。時を経て、火星に円盤が降り立ち中から現われた金星人は、地球は滅亡しているので今後の援助はもうないと告げる。金星は野菜を生み出し栄えている、火星を捨てよ、と。全ての資源を使い尽くしているのに、まだ大丈夫だなんて思っているなんて可笑しい。もう滅び始めているのが分からないのかと、現実を突き付けてくる。その言葉、グサリと心に突き刺さる。今じゃないか。まさに、この2009年の現実じゃないかと頭の中を様々な思いが逡巡する。また、姉妹の母と父は実は本当は夫婦ではなく、姉は人を喰って生き伸びたことも露見する。人が人としてあるためのモラルとは、一体、何に準拠するのであろうか。今を生きるとは、一体どういうことなのかを、野田秀樹は観る者のストレートに問いていく。

絶望の真っ只中、妹は流浪の人々と旅立とうとする。その時、姉が待ち続けていたかつての恋人ペールギュントが帰還したのを妹が見つける。もう戻って来ないかもしれないと思っていた人が戻って来たのだ。妹も廃墟の中旅立つが、その歩く後には、美しい花が咲き誇っていく。怒りの果てに辿り着いたのは、微かな希望だったのであろうか。まだまだ捨てたもんじゃないぞと、ほくそ笑む野田秀樹の笑顔がぽっかりとアタマの中に浮かんで消えた。

本年初のステージです「ドロウジー・シャペロン」。面白かった!と素直に思える作品でした。いい意味で、単純で分かり易く、華やかで楽しい。そして、ちょっと、憂いも感じさせホロリとさせる。休憩なしの100分ノンストップという尺もいい。ある意味、ミュージカルの王道とも言うべき要素がタップリと詰まった内容だ。

小堺一機演じるミュージカルオタクの男が、お気に入りミュージカルのLPレコードを聴くことで、そのミュージカルの世界が実際に立ち現われてくるという設定である。故に、いちいち彼のコメントが差し挟まれる。だが、その異化効果が実にいいのだ。このシーンはあまり好きではない、この曲はいいが詞はまずい、次のシーンは見ものですよ、と言った具合に解説してくれるので、逆に物語世界に集中出来るのだ。敢えて「よくない」と言ったネガティブな言い様が、笑いを誘う効果も引き出していく。シンプルだが、この構成の面白さが本作のキーポイントである。

物語は、あるミュージカルスターの結婚式を控えた1日の様々なエピソードを、実に楽しく豪華絢爛に見せていく。役者陣には、リアルな演技は全く要求されていない。出演者のひとりに、コメディアンのなだぎ武がいるのだが、彼の演技はネタでやっている、ディラン・マッケイ、そのままなのだ。そして、役者たち全員が、そういうトーンの芝居をするのである。大仰な分かり易さとで言おうか。しかし、その浅薄さが、かえって1920年代のミュージカル的な雰囲気を醸し出し、いい塩梅なのだ。

しかし、何と言っても本作の白眉は、日本を代表するエンターテイナーが揃い踏みであるというところだ。主演の藤原紀香は、宣伝大使としてTVや雑誌等のメディアで初ミュージカル出演を告知して露出が多かったが、対するは、何と木の実ナナ。日生劇場出演はデビュー作「アプローズ」以来というおまけまで付く。そして、結婚式の主催者とその執事には、中村メイ子と小松政夫。紀香のフィアンセは前述のなだぎ武。その友人に川平慈英。木の実ナナを落とすジゴロに梅垣義明。ミュージカル・プロデューサーに尾藤イサオ。そのフィアンセに瀬戸カトリーヌ。そして、ナレーターに小堺一機、である。この方々が、同じ舞台の上に立つのである。圧巻である。皆、全力投球である。歌も踊りも期待以上。どんどん実に楽しい気分になっていく。

次々と様々な要素をプラスしていく本作のような明るくて華やかな演目は、演出家・宮本亜門の資質に合っているのではないだろうか。そぎ落としてシンプルにしていくという志向とは真逆にある、豊穣な世界を作り出すのが実に上手いのだ。氏が嬉々として演出しているそのトーンに、とても近い気がする。

舞台となるナレーターの部屋を、クルクルと色々なシチュエーションへと目まぐるしく変化させる美術がいい。クレジットを見ると、二村周作が、美術アドバイザー、とあるが、ブロードウェイ版を踏襲したということか。壁の上部や柱のエッジの模様や、窓外の隣のビルとの接近具合等々、感覚がアメリカである。照明もそれぞれの場面をくっきりと際立たせて上手いなあと思ったら、原田保であった。久々です。やはり、いいですね。

現実には実際辛いことがあったとしても、ミュージカルは明日を生きる力を与えてくれるのだというメッセージをナレーターが語り、その言葉が胸に染み入ってくる。そして、別次元の存在であるミュージカルの出演者たちが、ナレーターにエールの歌を捧げるシーンでエンディングを迎える。フワッと少しだけ温かくなったハートの上を、心地良い涙が伝う思いがした。実に楽しいひとと きでした。

いのうえひでのりが取り組む初シェイクスピア、東京公演の初日である。まさに、この演出家の「視点=解釈」が大きく反映された仕上がりとなった一品である。この「リチャード三世」は、登場人物の関係性が複雑であり、物語も入り組んでいる。まずは、その関係性を紐解くために、セットの中に設えられた10数個の液晶モニターに、この物語が始まるまでの経緯が映像で映し出されていく。演出家自らが感じた、この分かり難さを解消するための方法論なのであろう。

そして、古田新太演じるリチャード三世が登場し、独白で語り始めるところから物語はスタートする。このシーンなのだが、何故か、小さなマイクを手にその言葉を録音している風な様子である。このマイクも、前述のモニターもそうなのだが、そこで行われている事実を客観的位置に投射し、ジャーナリスティックに報道するが如くその事の顛末を説明していくのだ。いのうえひでのりの中には、この物語を説明していくのだ、という大きなポイントが在るのだと思う。シェイクスピアと対峙することで生まれてきたコンセプトなのであろう。

装置はレトロフューチャー、衣装は60年代風のポップなファッションである。シェイクスピアという牙城を、ダークでありながら極彩色豊かな可視的なものへと変質させ、15世紀の物語に現代のモダンさを装う演出だ。この方向性で、残虐な物語がポップで少し軽味を帯びてきた。

前半は正直やや退屈した。台詞の語りを説明だと解釈する演出なのであろうか? なかなか役者の生理が台詞に載ってこないのだ。周りの者たちも、語る人の話しをただ聞いているだけで、ほとんどリアクションもない。全く感情が放出されてこない。ただ、物語が展開し、皆が感情を顕わにするようになる後半は、段々と目が離せなくなってくる。

古田新太の造形するリチャード三世は、小賢しい悪者である。決して大悪党には映らない。邪魔者は殺していくという単純な戦略にて王へと駆け上っていく様に、同情の念を挟む余地は全くないが、狂気の王というより、野望を抱いた市井の人間が悪事を働く風なのだ。これは、計算なのであろうか、それともスケール感を出せない演出の限界なのであろうか。また、この役には愛嬌が欠かすことが出来ないとも良く言われるが、古田新太は人を扇情する時にも、その愛嬌を手段として使うことはしない。自分の存在そのものにウィットがあるという自覚の下、悪を演じきる。その差異ある重層さが、勢いある面白さを生み出してはいる。

脇を固める女優陣がいい。三田和代は、高慢と矮小を気品を持って演じ、仕草にも憂いがあり美しい。久世星佳は現代的なエリザベスを作り上げる。キレのいい丁々発止のやりとりが作品に活力を与えていた。銀粉蝶は厭世的な魔女のような様相だが、声のトーンもあろうが、軽やかさがあり決して重くはならない。この3女優が一同に会す場面は圧巻である。アンを演じる安田成美は、澄んだ声が特徴的で、逡巡する様々な思いを純粋に演じきるが表面的だ。

王になることが目的であったリチャード三世は、特に王になってやりたいことがあるわけではなく、そんな隙を、直属の部下たちに寝首を掛かれ、闘いの後、殺されることになる。迷いなく突き進んだその生き様は、ある意味、天晴れだ。ロックの大音響が流れ、若きリッチモンド伯が勝利の雄叫びを上げる中、物語は幕を閉じていく。痛快である。作り事であるにせよ、悪もここまで徹すると気持ちいいものなのだ。可視的なるものが先行したきらいがあるが、古田新太という逸材を得て、親しみ易い現代的なピカレスク・ドラマが誕生したと思う。

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