2013年 8月

宮本亜門独自の視点で、イサム・ノグチの生涯の幾つかの断片を紡ぎ合わせコラージュした本作は、観る者の心の奥底から郷愁を誘い、思わず自らの人生と重ね合わせてしまうような親和性に満ち満ちている。

母レオニーと過ごした少年時代と、鎌倉で山口淑子と暮らしていた壮年時代の時空を行き来しながら、現在NYに在住する一人の女性の生き様を折り挟み、物語はそれぞれの時代と響き合いながら紡がれていく。シーンとシーンとの繋ぎ目が微かに呼応するセンシティブな儚さに、ついつい心が惹かれていってしまうのかもしれない。

壮年期の時代が中軸に据えられるが、そのイサム・ノグチは、窪塚洋介が演じていく。実在したイサム・ノグチと窪塚洋介の容姿が似ているかどうかは、作品に影響はない。イサム・ノグチというアーティストの意気が、どこまで表現出来るのかという1点において、窪塚洋介の資質が見事に開花する。窪塚洋介の繊細な感情表現が、イサム・ノグチを“生きた”人物として甦えらせていく。

美波が演じるのも、実在の人物である山口淑子。李香蘭としても生き抜いた女性が、愛し、その才能も認めた男と、どう寄り添い、そして相克していくのかをビビッドに演じていく。美波も、モデルをなぞることなどは決してしない。男と対峙する一人の女の真情が身体から零れるように溢れていく、その瞬間に心ときめく。

母レオニーを演じるのは、ジュリー・ドレフェス。台詞が英語であることが作品と自然に馴染み、リアリティがグッと浮上する。異国の地・日本において、気丈なシングルマザーが、自らを律しながらも息子を育てていく様がキッチリと描かれることにより、イサム・ノグチのルーツが浮き彫りになる。水泳が得意であった方らしいが、深夜に漆黒の海に飛び込む姿に死の影が差し込み、ついドキリとしてしまう、そんなところもリアルである。

幼少時代と壮年期の生き様を交互に描いていくことで、イサム・ノグチの中に通底するスピリットをグッと際立たせていく。両親の離婚で母に育てられたこと、ハーフであることの孤立感、アメリカに一人で留学することになった経緯などが、重層的に幼少期に少年に影を落としていることが見て取れる。

今ある自分が、どのように生成されてきたのかというルーツを認識する、まるで時空を超えて旅でもしているかのような酩酊感。必死に生きるイサム・ノグチの魂が、天空に駆け上がり幽体離脱したもう一人の自分が、かつての自分を見ているかのような浮遊感。一人の人物をパースペクティブに捉えていくことで、作品世界の時空は無限の広がりを見せていく。

イサム・ノグチが描かれる物語なのであるが、氏とは直接は縁のない現代NYに住む証券ウーマンの生き様が其処此処に差し挟まれていく。演じるは、小島聖。ヘビーな仕事を日々何とか乗り越え、アメリカ人パートナーとのこれからの行方を憂うる彼女であるが、心の奥底のあるのは、9.11で亡くなった父の面影。父の姿を自分とシンクロさせながらも、そこから脱することが出来ない彼女は、父がイサム・ノグチのオブジェに元気付けられ、そこに希望を見出していたことが明かされる。そこで、物語は収焉し、世界は一つに繋がっていく。

創造物が果たす役割を、別次元から投げ込むことによって、イサム・ノグチの威光がキラリと輝くという趣向だ。しかも、現代を生きる観客と、イサム・ノグチとの意識とをブリッジを果たす役割をも担っていく。

泰永優子と栗山聡之が創造する映像や、吉田関人が爪弾く琴線に触れる音が、宮本亜門が創る作品世界にアーティスティックなアクセントを付与し、アート・インスタレーションのような刺激も提供してくれる。

芸術家の希望と苦悩を謳い上げながら、今を生きる観客が観るということを第一に考える宮本亜門の視点が活かされた、親和性ある珠玉のアートを体感することが出来た。

一部の演目、歌舞伎十八番「蛇柳」は、現存する資料も少ない中での上演だったようだ。高野山に伝わる「蛇柳」の木を、海老蔵が実際に見たインスピレーションが創作する上での核になっているという。本も曲も新たに創り上げられた本作は、もはや新作とも言えるのではないだろうか。藤間勘十郎とのタグにより、シャープで小気味良い舞踊劇に仕上がった。

助太郎と高野山の僧とのやり取りが展開される前半は、幽玄な雰囲気を湛えるが、助太郎がその本性を現す段になると、歌舞伎の外連味が俄然発揮され、助太郎が狂気を孕んで乱舞する様は、大いなる見せ場となっていく。クライマックスへとだんだんと上昇していく展開に身を任せ、海老蔵の意気に酔い痴れていく。

二部は新作歌舞伎「疾風如白狗怒涛之花咲翁物語。」、脚本が宮沢章夫、演出が宮本亜門という、歌舞伎初手合わせの御仁が居並んだ。花咲かじいさんのおとぎ話が機軸となるが、そこに桃太郎伝説が絡み実に賑々しい展開となっていく。日本昔ばなしを材に取り、子どもから大人までが親しめるような歌舞伎を創るのだという海老蔵の想いがヒシと伝わり心地良い。

海老蔵が演じるのは、何と“犬”であるところが本作最大のサプライズだ。本人は、枯れ木に花を咲かせるお爺さんを演じたかったというが、この意外性あるキャスティングに観客との親和性がグッと増すことになる。

拾われた白い犬シロは、桃太郎に従い鬼が島を荒らして帰還した悪辣者と疑われ、面倒を見ている爺と婆が、シロの白い毛並みを赤へと塗り替える。“とりかえばや”的な要素や、差別、被差別の感覚が忍び込み、物語は流転する。

また、自然現象の影響により花が咲かなくなった地に、オーラス、花が咲き誇るというクライマックスに、“混沌”からの“希望”を見出していくことになる。9.11が、彷彿とさせられる。

海老蔵は縦横無尽だ。犬を演じながらも、敵でもあるやさぐれた風体の得松爺や、最後に物語をキュと締める凛々しい将軍・貴寿公を嬉々として演じ分ける。海老蔵の様々な魅力が開陳され、自主公演ならではの魅力が堪能出来る。

海老蔵だけが突っ走るのではなく、宮本亜門や宮沢章夫といった観客を楽しませる演劇のプロの視点が、本作では大いに活かされているのだと思う。それを受け入れ演じ手に徹する海老蔵であるが、従来の歌舞伎とは異なる手法で観客に歌舞伎を届け、楽しんでもらいたいという強い想いがヒシと伝わってくる。歌舞伎の裾野を広げつつも、踏襲してもいけるオーソドックスさを湛えるこのバランス感覚が、見事花開いた演目だと思う。

片岡愛之助が人の良い正造爺を演じ、作品に良心を吹き込んでいく。上村吉弥のセツ婆とのコンビネーションも心地良く、片岡市蔵や市川新蔵のはみ出し者も作品にアクセントを与えていく。市川福太郎の無邪気に“蚊”を演じ、強い印象を残していく。誰もが、一見、善悪がはっきりとした役どころであるが、その人間の奥に潜む幾重もの想いを表出されていくため、様々な人間模様が複雑に絡み合い飽きることがない。

新作歌舞伎の新鮮さ、今の観客に近い感覚を共有出来る面白さに満ちた作品であるが、このまま別の人が演じても成立するオーソドックスな普遍性も確実に獲得している。自主公演を謳い自らの魅力を全面に打ち出しながらも、歌舞伎の未来を斬り拓く意気をヒシと感じる新鮮な歌舞伎公演であった。ラストのまるでお祭り騒ぎのような弾ける賑々しさは、頭の中から離れることはないだろう。体験してしまった感動は、心の中に確実に残っていく。次代への継承をも睨むABIKAの動向から目が離せない。

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