宮本亜門独自の視点で、イサム・ノグチの生涯の幾つかの断片を紡ぎ合わせコラージュした本作は、観る者の心の奥底から郷愁を誘い、思わず自らの人生と重ね合わせてしまうような親和性に満ち満ちている。
母レオニーと過ごした少年時代と、鎌倉で山口淑子と暮らしていた壮年時代の時空を行き来しながら、現在NYに在住する一人の女性の生き様を折り挟み、物語はそれぞれの時代と響き合いながら紡がれていく。シーンとシーンとの繋ぎ目が微かに呼応するセンシティブな儚さに、ついつい心が惹かれていってしまうのかもしれない。
壮年期の時代が中軸に据えられるが、そのイサム・ノグチは、窪塚洋介が演じていく。実在したイサム・ノグチと窪塚洋介の容姿が似ているかどうかは、作品に影響はない。イサム・ノグチというアーティストの意気が、どこまで表現出来るのかという1点において、窪塚洋介の資質が見事に開花する。窪塚洋介の繊細な感情表現が、イサム・ノグチを“生きた”人物として甦えらせていく。
美波が演じるのも、実在の人物である山口淑子。李香蘭としても生き抜いた女性が、愛し、その才能も認めた男と、どう寄り添い、そして相克していくのかをビビッドに演じていく。美波も、モデルをなぞることなどは決してしない。男と対峙する一人の女の真情が身体から零れるように溢れていく、その瞬間に心ときめく。
母レオニーを演じるのは、ジュリー・ドレフェス。台詞が英語であることが作品と自然に馴染み、リアリティがグッと浮上する。異国の地・日本において、気丈なシングルマザーが、自らを律しながらも息子を育てていく様がキッチリと描かれることにより、イサム・ノグチのルーツが浮き彫りになる。水泳が得意であった方らしいが、深夜に漆黒の海に飛び込む姿に死の影が差し込み、ついドキリとしてしまう、そんなところもリアルである。
幼少時代と壮年期の生き様を交互に描いていくことで、イサム・ノグチの中に通底するスピリットをグッと際立たせていく。両親の離婚で母に育てられたこと、ハーフであることの孤立感、アメリカに一人で留学することになった経緯などが、重層的に幼少期に少年に影を落としていることが見て取れる。
今ある自分が、どのように生成されてきたのかというルーツを認識する、まるで時空を超えて旅でもしているかのような酩酊感。必死に生きるイサム・ノグチの魂が、天空に駆け上がり幽体離脱したもう一人の自分が、かつての自分を見ているかのような浮遊感。一人の人物をパースペクティブに捉えていくことで、作品世界の時空は無限の広がりを見せていく。
イサム・ノグチが描かれる物語なのであるが、氏とは直接は縁のない現代NYに住む証券ウーマンの生き様が其処此処に差し挟まれていく。演じるは、小島聖。ヘビーな仕事を日々何とか乗り越え、アメリカ人パートナーとのこれからの行方を憂うる彼女であるが、心の奥底のあるのは、9.11で亡くなった父の面影。父の姿を自分とシンクロさせながらも、そこから脱することが出来ない彼女は、父がイサム・ノグチのオブジェに元気付けられ、そこに希望を見出していたことが明かされる。そこで、物語は収焉し、世界は一つに繋がっていく。
創造物が果たす役割を、別次元から投げ込むことによって、イサム・ノグチの威光がキラリと輝くという趣向だ。しかも、現代を生きる観客と、イサム・ノグチとの意識とをブリッジを果たす役割をも担っていく。
泰永優子と栗山聡之が創造する映像や、吉田関人が爪弾く琴線に触れる音が、宮本亜門が創る作品世界にアーティスティックなアクセントを付与し、アート・インスタレーションのような刺激も提供してくれる。
芸術家の希望と苦悩を謳い上げながら、今を生きる観客が観るということを第一に考える宮本亜門の視点が活かされた、親和性ある珠玉のアートを体感することが出来た。
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