舞台上で素のままの在り様で身体をほぐしていた役者陣が、次第に一つの集団となって群舞を舞い始める。現在、この時間に、この場所に居る役者と観客が、ギュッと一つの空間に集約されるような求心力が働き、観客は舞台上の俳優に誘われて作品世界へと没入していく。天空からは、夥しい数の店頭サインのネオンが降りてくる。すると、そこには、混沌とした猥雑さが香る架空の昭和の町・新宿が現出することになる。時計の針は、1960年代へと振り戻される。時空が一気にワープする見事な幕開けだ。
小出恵介演じるバリカンが娼婦を買い、寂れたホテルへとしけこむが、バリカンは虚空を見上げながら己の真情を吐露し、決して“こと”に至ることはない。その同じ場所に、松本潤演じるムショ帰りの新宿新次が女を連れ込み、先に居た二人は箪笥の中に隠れるが、この2組のカップルは同じ時空間を共有していないことが分かってくる。どうやら、バリカンと娼婦は、彼岸に逝った者のようなのだ。バリカンが過去の思い出を回想する中、新宿新次は町へ出ることになるが、そこでその二人が初めて出会うことになる時空へと、場は変転していく。現在と過去とが、溶け合う瞬間だ。
60年代当時の過激なアジテートが展開していくのかと思いきや、当時を懐かしく愛おしむような、ノスタルジーに満ち溢れたこの上ない優しさに作品は包まれていていく。蜷川幸雄が60年代を追想する視点は、甘酸っぱい雰囲気を湛えた、メランコリックで詩的な世界観に収焉していく。誰もが知る胸がキューンとするような痛みや哀しみが、観る者の昔日の思い出をオーバーラップさせ、共感を絞り取っていく。
二人はひょんなことから勝村政信演じるボクシングコーチと出会い、ボクシングジムの門を叩くことになる。静と動。正反対とも言うべき二人であるが、盟友として、良きライバルとして、お互いがお互いを認め合いながら、いつしか友情を育んでいくことになる。
物語は、別の切り口から、“死”を侵入させていく。早稲田大学自殺研究会のメンバーたちが、刷毛でスッと塗り上げるように、死の匂いを振りかざしていくのだ。自殺する者を見つけ出し、その末路を見届けたいと願うディレッタントたちは、獲物たちを模索する中、キラキラと生を放つ新次に遭遇し、気になる存在として惹かれていくようになる。精一杯日々を生き抜いている新次の意識の根底に、“エロス”“タナトス”が共存していることを、鼻で嗅ぎ分けたのであろうか。表裏一体を成す新次とバリカンとの間にゆるりと“死”が忍び込み、運命の歯車が狂い出す予感を放ち始める。
松本潤は、その存在感が圧巻だ。新宿新次を演じることを超越して、新宿新次そのものを生きている気さえする。身体の内から滲み出るパッションが作品に色濃く投影され、静謐な作品世界に過大な熱量を放出していく。
小出恵介は、寺山修司の詩を吟じる氏の代弁者とでも言うべき存在だが、彼岸との間を行き来する繊細な均衡で保たれた役柄の意思を汲み、実に丁寧にバリカンを紡ぎ上げていく。透明感ある存在がクッキリと心象に残っていく。
自殺研究会の、杉村蝉之介と江口のりこの淡々とした語り口が印象的だ。作品の軸となるパッショネートな男たちの動向を、逆方向に引き戻すようなパワーを放ち独特だ。また、勝村政信の、ほんの一瞬で観客を笑わせ、ジーンとさせる洒脱な手腕には毎回恐れ入る。作品に温かなふくよかさを付加させていくのだ。黒木華の影ある可憐さや、渡辺真起子の媚びない色香が、女の多様性を提示していく。
バリカンは新次と闘いがために、別のジムに移り、二人はリング上で真っ向対決を果たすことになる。既に開幕のシーンでバリカンの末路が種明かしをされているため、観る者はその予定調和な展開を知りながら、物語の行方を固唾を呑んで見守ることになる。
二人は四角いジャングルで熾烈な戦いを演じていく。そして、ジャブを繰り広げる二人の背景に、ワーグナーの「ローエングリン前奏曲」が流れ始めるのだ。美しい! ただただ美しい! これはもう“至福”以外の何ものでもない。
最後、朽ちたバリカンを抱えながら、新次が慟哭の叫び声を上げていく。静かにリングの周囲はネオンに囲まれていく。町に生まれ、町に生き、そして死した男の、男たちのレジェンドが幕を下ろすことになる。そして、観る者の意識は冒頭へと輪廻する。死す者は、今なお生き続ける者たちを、彼岸から温かく見守っているのだということを、しかと胸に刻み込むことになるのだ。秀作であると思う。
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