2011年 10月

舞台上で素のままの在り様で身体をほぐしていた役者陣が、次第に一つの集団となって群舞を舞い始める。現在、この時間に、この場所に居る役者と観客が、ギュッと一つの空間に集約されるような求心力が働き、観客は舞台上の俳優に誘われて作品世界へと没入していく。天空からは、夥しい数の店頭サインのネオンが降りてくる。すると、そこには、混沌とした猥雑さが香る架空の昭和の町・新宿が現出することになる。時計の針は、1960年代へと振り戻される。時空が一気にワープする見事な幕開けだ。

小出恵介演じるバリカンが娼婦を買い、寂れたホテルへとしけこむが、バリカンは虚空を見上げながら己の真情を吐露し、決して“こと”に至ることはない。その同じ場所に、松本潤演じるムショ帰りの新宿新次が女を連れ込み、先に居た二人は箪笥の中に隠れるが、この2組のカップルは同じ時空間を共有していないことが分かってくる。どうやら、バリカンと娼婦は、彼岸に逝った者のようなのだ。バリカンが過去の思い出を回想する中、新宿新次は町へ出ることになるが、そこでその二人が初めて出会うことになる時空へと、場は変転していく。現在と過去とが、溶け合う瞬間だ。

60年代当時の過激なアジテートが展開していくのかと思いきや、当時を懐かしく愛おしむような、ノスタルジーに満ち溢れたこの上ない優しさに作品は包まれていていく。蜷川幸雄が60年代を追想する視点は、甘酸っぱい雰囲気を湛えた、メランコリックで詩的な世界観に収焉していく。誰もが知る胸がキューンとするような痛みや哀しみが、観る者の昔日の思い出をオーバーラップさせ、共感を絞り取っていく。

二人はひょんなことから勝村政信演じるボクシングコーチと出会い、ボクシングジムの門を叩くことになる。静と動。正反対とも言うべき二人であるが、盟友として、良きライバルとして、お互いがお互いを認め合いながら、いつしか友情を育んでいくことになる。

物語は、別の切り口から、“死”を侵入させていく。早稲田大学自殺研究会のメンバーたちが、刷毛でスッと塗り上げるように、死の匂いを振りかざしていくのだ。自殺する者を見つけ出し、その末路を見届けたいと願うディレッタントたちは、獲物たちを模索する中、キラキラと生を放つ新次に遭遇し、気になる存在として惹かれていくようになる。精一杯日々を生き抜いている新次の意識の根底に、“エロス”“タナトス”が共存していることを、鼻で嗅ぎ分けたのであろうか。表裏一体を成す新次とバリカンとの間にゆるりと“死”が忍び込み、運命の歯車が狂い出す予感を放ち始める。

松本潤は、その存在感が圧巻だ。新宿新次を演じることを超越して、新宿新次そのものを生きている気さえする。身体の内から滲み出るパッションが作品に色濃く投影され、静謐な作品世界に過大な熱量を放出していく。

小出恵介は、寺山修司の詩を吟じる氏の代弁者とでも言うべき存在だが、彼岸との間を行き来する繊細な均衡で保たれた役柄の意思を汲み、実に丁寧にバリカンを紡ぎ上げていく。透明感ある存在がクッキリと心象に残っていく。

自殺研究会の、杉村蝉之介と江口のりこの淡々とした語り口が印象的だ。作品の軸となるパッショネートな男たちの動向を、逆方向に引き戻すようなパワーを放ち独特だ。また、勝村政信の、ほんの一瞬で観客を笑わせ、ジーンとさせる洒脱な手腕には毎回恐れ入る。作品に温かなふくよかさを付加させていくのだ。黒木華の影ある可憐さや、渡辺真起子の媚びない色香が、女の多様性を提示していく。

バリカンは新次と闘いがために、別のジムに移り、二人はリング上で真っ向対決を果たすことになる。既に開幕のシーンでバリカンの末路が種明かしをされているため、観る者はその予定調和な展開を知りながら、物語の行方を固唾を呑んで見守ることになる。

二人は四角いジャングルで熾烈な戦いを演じていく。そして、ジャブを繰り広げる二人の背景に、ワーグナーの「ローエングリン前奏曲」が流れ始めるのだ。美しい! ただただ美しい! これはもう“至福”以外の何ものでもない。

最後、朽ちたバリカンを抱えながら、新次が慟哭の叫び声を上げていく。静かにリングの周囲はネオンに囲まれていく。町に生まれ、町に生き、そして死した男の、男たちのレジェンドが幕を下ろすことになる。そして、観る者の意識は冒頭へと輪廻する。死す者は、今なお生き続ける者たちを、彼岸から温かく見守っているのだということを、しかと胸に刻み込むことになるのだ。秀作であると思う。

映画「レッドバイオリン」や「シルク」の映画監督として認識していたフランソワ・ジラールが演出を担当する演劇というところに大いに惹かれて来場した。氏は、シルクド・ソレイユやオペラの演出なども手掛けているのですね。また、井上靖の原作を翻案したのがセルジュ・ラモット。三島由紀夫の「金閣寺」を見事に戯曲化した異才だ。否応無く、観る前から期待は高まっていく。

日本の演劇がある種の固定概念に縛られているのだなということに、本作を観て逆に感じ入ることになる。極力絞られた光源は役者を見せるということよりも、そこに人間を息づかせる役割を担い、美術は戯曲の中にある事柄の意味を説明する道具としてではなく、登場人物の心情を際立たせるために存在している。夾雑物を一切排除したところに本当に語りたいものが浮かび上がってくるという方法論は、アーティストの作品制作過程のアプローチにも似て、実にスリリングだ。

物語は、一人の男に宛てられた3人の女の手紙を語るというシンプルな構造である。男の妻と、愛人とその娘。中谷美紀は一度も舞台から下りることなく、90分ノンストップ、たった1人でその3人の女を見事に演じきる。

舞台背後に、ロドリーグ・プロトー演じる男が舞台上に存在はしているのだが、もはや一人芝居以外の何ものでもない。中谷美紀が、演劇的なこれ見よがしな大仰さを一切排する演技で、己の中に在る実力を遺憾なく発揮させ、グイグイと観客を劇空間へと集中させていく。とうてい初舞台だとは思えぬ、その華麗さと迫力が圧巻だ。

母の不倫を知った娘、夫と従姉との不倫を知りながらも見て見ぬ振りをしてきた妻、離婚後、従姉の夫と不倫関係を続けてきた女たちを、中谷美紀はクッキリと演じ分けていく。手紙という書簡小説を活かした構成を取っているため、中谷美紀はことさら感情的になり過ぎることなく、書かれた言葉に密接に沿うように緻密に人物像を創り上げていく。

目線の配り方、立ち振る舞い、声のトーンや強弱の付け方などが、実に繊細に積み上げられていくのだ。女たちの感情の渦中に素手で飛び込むという役作りの仕方とは対極とも言えるこうしたアプローチは、人間が内に秘める真情を静謐に紡ぎ、観客たちに女の感情を“知性”で理解させることを促していく。この手法は、フランソワ・ジラールの、論理的な思考が反映されているに相違ない。

「シルク」でも、自然の取り込み方が上手かったフランソワ・ジラールであるが、水、火、石、木を生かしたフランソワ・セガンの素晴らしい美術が、この繊細な物語世界に、一際美しい印象を付け加えていく。アートの領域であると思う。

カナダでの稽古期間を多く取ったということのようだが、そこで創作された過程が作品に独特のトーンを反映させ、日本のタイムサイクルの中では成し得なかったであろう、知的な優雅さを獲得し得たと思う。作品は、生み出されていく過程が大事なのだということに改めて気付かされることになった。

本作は、中谷美紀とフランソワ・ジラールの才能が見事に融合した繊細な逸品に仕上がった。この作品に関わった本物のアーティストたちの今後の動向から、目が離せない。

あまり上演される機会のない「アントニーとクレオパトラ」だが、その理由が分かるような気がした。目まぐるしく変わる場面、40場位はあるだろうか。舞台となる国も、イタリア、エジプト、ギリシャなどが混在していく。故に、ストーリー展開が散逸していく。また、登場人物たちは、実に主観的にというか、自らの思いのたけを叫び、訴え、疾走していくため、物語はますます混迷を極めていく。非常に、料理のし難い素材なのだと思う。

しかし、優秀な俳優たちが戯曲の登場人物に息を吹き込み、其処此処へと展開していく物語を視覚的にも分かり易く見せていく演出などが合体すると、中年男女の痴話喧嘩、上官に対する部下の憤り、対抗する武将たちの虎視眈々とした腹の探り合いというような、生身の人間の情熱や嫉妬や葛藤など、狂おしいまでの心の叫びがストレートに伝わることになるのだから面白い。本作は、歴史上の人物たちも1個の悩める人間なのだなというリアルさを感じさせるような魅力を、戯曲の中から掬い出し、提示していく

場面が、今、何処であるのかを見せていくために、シンボリックな装置が登場する。雌狼とロムルスとレムスの像はローマ、スフィンクスやアヌビス像はエジプト、メドゥーサの頭と3本の足を持ったトリナクリアはシチリアといった具合に、目に飛び込んでくるシンボルが場面が変わる度に登場するため、話の展開に付いて行き易くなる。アントニーは、エジプトにもローマにも登場する訳なので、これは有り難い。シンプルだが、遺憾なく効果的を発揮していると思う。

戯曲世界を見た目に分かり易く、どんどんと細かな様々なエピソードが重ねられていくため、本作は、まるで漫画のページを捲っていくかのような軽妙な疾走感が生まれてくる。兎に角、スピーディーに物語が展開していくので、その勢いに観客の気持も牽引されていくことになる。

その奔流のように展開する物語の流れの中において、毅然と立ち続ける俳優たちの洒脱な感性が、作品世界にふくよかな芳醇さを付加させていく。深刻なアプローチをし過ぎることなく、役柄を弄んでいるかのような嬉々とした仕事振りに、観ているこちら側も楽しくなっていく。悲劇的な展開を見せていく内容なのではあるが、それもひとえに人間の成せる技なのだと、ついつい納得させられてしまう説得力が、役者陣にはある。

吉田鋼太郎は、アントニーを歴史上の英雄としての側面だけで捉えるのではなく、恋と戦闘の狭間に揺れる一人の男の心情を抽出していく。そして、現代の観客の生活感と共通するあまり乖離し過ぎることのない感情表現で、古代ローマに生きた人物を造形していく。本人は懸命に生きているのだが、傍から見ればその一途な思い込みは実に滑稽な光景に映るという、人間が持つ多面性を描いて秀逸である。

橋本じゅんが、存在感あるイノバーバスを造形する。下層階級出身なためなのか出世欲が高く、また、自分がどう立ち回ると有利なのかと目先のことばかりを優先する、小賢しい奴とも捉われがちになる役どころかもしれないが、その逡巡が表層的ではなく、内なる叫びが行動に繋がっているのだということが見て取れて面白い。リアルに怒り、出し抜こうと思い、そして最後は情にほだされ後悔するという、一人の男の生き様を愛おしく活写する。

安蘭けい演じるクレオパトラには、女王たる気品が漂い、周囲を圧倒するような威厳も備わっている。但し、アントニーのことが好きで仕方がない、その思いがストレートに伝わり、クレオパトラの女の側面が垣間見えて可愛いらしい。

池内博之は初代皇帝となるオクテヴィアス・シーザーを、勇敢で知性的な人物として作り上げ、とかく感情的な人物が多い中、安定した揺るがぬ存在感を示していく。中川安奈は出番が少ない役どころではあるが、時代に翻弄される一人の女の哀しみを浮き出させていく。熊谷真美は、どんなことがあってもクレオパトラをしかと支える思いが伝わり、けなげさが滲み出る。

登場人物のストレートな感情が渦巻く戯曲の特徴を掴んで、俳優陣が言葉の奥に潜む思いを掬い取るっているため、ローマ史劇としてではなく、人間ドラマとして成立しているところが面白い。俳優が生身の感情を吹き込むと、戯曲がムクムクと甦る様を目の当たりにすることで、演劇とはかくあるべきという姿を見た気がした。

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