ナチスの宣伝大臣ゲッペルスが「風と共に去りぬ」を越える映画を創りたいと、1941年の秋、当時のドイツ映画界の要人を別荘に招いて、その企画プランのプレゼンテーションを行うというのが本作の物語のアウトラインである。しかし驚くべきことは、ゲッペルスから、その企画プランが第二幕の中盤まで全く話されることはなく、それまでは集まった人々の会話のやり取りだけを描いて作品を成立させていくのだ。ストーリーテラー・三谷幸喜が、敢えて物語を語ることを、自ら封印している。果敢なる挑戦とも、無謀な賭けとも取れるが、休憩を挟んで3時間、観客を飽きさせることなく作品は展開していく。
第一幕は例えて言うのであれば、映画「オリエント急行殺人事件」の冒頭、登場人物たちの紹介も兼ねながら俳優陣がオリエント急行に乗り込むまでのシーンを彷彿とさせられる。顔見世興行的な賑々しさで、エンタテイメントの醍醐味を堪能できる、その楽しさに満ち溢れたシーンが延々と続くのだ。物語を提示するのではなく、気分を味あわせてくれるという意味においては、劇空間が一種のテーマパークにでもなったような感じさえする。
観客は、登場人物が置かれた状況や心境、そして各人の関係性を認識していきながら、登場人物そのものの現状の立場を理解していくことになる。そのことが、本作にとっては肝であることが後々理解できるところとなるのだが、登場人物たちの、良いところ、悪いところを含めた姿を等身大に描くという、この素地が重要であり、それが本作のテーマにも通じることになっていく。歴史上の人物として人間を描くのではなく、また、歴史の史実をなぞることなく、あくまでも1個の人間として登場人物たちを切っ先鋭く筆致していく。
そして、登場人物たちが全員が揃ったところで、第一幕が終了する。しかし、物語は何も展開していない。それが、凄い。全く飽きることなく、見続けてしまった。
この戦略を実行する上で、最大の戦術は、キャスティングにあると思う。この実力派の俳優たちで組まれた鉄壁な布陣。その誰もが、主役級の大物たちであり、かつ、舞台の経験も豊富な才能が終結しているのだ。極端な事を言えば、ただ舞台の上に居るだけで、間が持ってしまう役者たちなのである。しかも、華がある。観客は、役者たちが交わす何気ない会話を聞いているだけで、そこに化学反応が引き起こされるのを感じ、そして、スパークする火花が良い緊張感を生み出していくことで、舞台からだんだんと目が離せなくなっていってしまう。
ゲッペルスがプレゼンテーションする映画の内容に、異論を唱える者などはいない。逆にその企画にできるだけ重要な役回りで参加したいと弄する小賢しさが、笑いを誘っていく。しかし、ひょんなことで、翌年よりユダヤ人に対して行われる“ある計画”、そのことが露見し、場は一変する。
それまでは、人間の矮小さやエゴを可笑し味を込めて描いてきたが、突然に、歴史の大波が作品の中に雪崩れ込んでくるのだ。1個の人間たちの集合体が生み出し、実行していく悪夢。観客は、その歴史の行く先を既に知っているため、これから展開される時代のうねりと、元凶でもある目に前にいる1個の人間たちとの、落差感に戸惑い、動揺を覚えていくことになる。そして、思う。何故、そんなことになっていってしまったのかと。
三谷幸喜は、その、何故、を掴み出し、観客へと叩き付けてくる。どこで道を踏み外すと、この悪夢のような出来事を起こすことになってしまうのか。しかし、もしかしたら、人間の中には、悪が巣喰うブラックホールが誰しもあるのではないかという危険さも孕み、どんな悪行も人の手によって成されているのだということを思い知らせてくれる。
最後は、登場人物たちの、その後が語られる。死す者、生き延びた者など、その行く末は、様々だ。それも人生の可笑しなところだ。結果などは、到底、誰にも予想がつかないのだ。その諦観した視点で冷静に事の顛末を語りながら、感情で揺れ動く人間たちの愚かさを、1個の人間として精緻に描いて秀逸だ。三谷幸喜は、物語の枠を取り外し、時代の予感を描くという新たな地平を切り拓いたのだと思う。秀作であると思う。
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