2011年 4月

ナチスの宣伝大臣ゲッペルスが「風と共に去りぬ」を越える映画を創りたいと、1941年の秋、当時のドイツ映画界の要人を別荘に招いて、その企画プランのプレゼンテーションを行うというのが本作の物語のアウトラインである。しかし驚くべきことは、ゲッペルスから、その企画プランが第二幕の中盤まで全く話されることはなく、それまでは集まった人々の会話のやり取りだけを描いて作品を成立させていくのだ。ストーリーテラー・三谷幸喜が、敢えて物語を語ることを、自ら封印している。果敢なる挑戦とも、無謀な賭けとも取れるが、休憩を挟んで3時間、観客を飽きさせることなく作品は展開していく。

第一幕は例えて言うのであれば、映画「オリエント急行殺人事件」の冒頭、登場人物たちの紹介も兼ねながら俳優陣がオリエント急行に乗り込むまでのシーンを彷彿とさせられる。顔見世興行的な賑々しさで、エンタテイメントの醍醐味を堪能できる、その楽しさに満ち溢れたシーンが延々と続くのだ。物語を提示するのではなく、気分を味あわせてくれるという意味においては、劇空間が一種のテーマパークにでもなったような感じさえする。

観客は、登場人物が置かれた状況や心境、そして各人の関係性を認識していきながら、登場人物そのものの現状の立場を理解していくことになる。そのことが、本作にとっては肝であることが後々理解できるところとなるのだが、登場人物たちの、良いところ、悪いところを含めた姿を等身大に描くという、この素地が重要であり、それが本作のテーマにも通じることになっていく。歴史上の人物として人間を描くのではなく、また、歴史の史実をなぞることなく、あくまでも1個の人間として登場人物たちを切っ先鋭く筆致していく。

そして、登場人物たちが全員が揃ったところで、第一幕が終了する。しかし、物語は何も展開していない。それが、凄い。全く飽きることなく、見続けてしまった。

この戦略を実行する上で、最大の戦術は、キャスティングにあると思う。この実力派の俳優たちで組まれた鉄壁な布陣。その誰もが、主役級の大物たちであり、かつ、舞台の経験も豊富な才能が終結しているのだ。極端な事を言えば、ただ舞台の上に居るだけで、間が持ってしまう役者たちなのである。しかも、華がある。観客は、役者たちが交わす何気ない会話を聞いているだけで、そこに化学反応が引き起こされるのを感じ、そして、スパークする火花が良い緊張感を生み出していくことで、舞台からだんだんと目が離せなくなっていってしまう。

ゲッペルスがプレゼンテーションする映画の内容に、異論を唱える者などはいない。逆にその企画にできるだけ重要な役回りで参加したいと弄する小賢しさが、笑いを誘っていく。しかし、ひょんなことで、翌年よりユダヤ人に対して行われる“ある計画”、そのことが露見し、場は一変する。

それまでは、人間の矮小さやエゴを可笑し味を込めて描いてきたが、突然に、歴史の大波が作品の中に雪崩れ込んでくるのだ。1個の人間たちの集合体が生み出し、実行していく悪夢。観客は、その歴史の行く先を既に知っているため、これから展開される時代のうねりと、元凶でもある目に前にいる1個の人間たちとの、落差感に戸惑い、動揺を覚えていくことになる。そして、思う。何故、そんなことになっていってしまったのかと。

三谷幸喜は、その、何故、を掴み出し、観客へと叩き付けてくる。どこで道を踏み外すと、この悪夢のような出来事を起こすことになってしまうのか。しかし、もしかしたら、人間の中には、悪が巣喰うブラックホールが誰しもあるのではないかという危険さも孕み、どんな悪行も人の手によって成されているのだということを思い知らせてくれる。

最後は、登場人物たちの、その後が語られる。死す者、生き延びた者など、その行く末は、様々だ。それも人生の可笑しなところだ。結果などは、到底、誰にも予想がつかないのだ。その諦観した視点で冷静に事の顛末を語りながら、感情で揺れ動く人間たちの愚かさを、1個の人間として精緻に描いて秀逸だ。三谷幸喜は、物語の枠を取り外し、時代の予感を描くという新たな地平を切り拓いたのだと思う。秀作であると思う。

本作「散歩する侵略者」は、前川知大主宰の劇団イキウメの代表作であるが、演出と台本を全面改訂して今回の全国サーキット公演に臨んだのだという。文句なく面白かった。そして、観劇後にヒタヒタと心に染み込んでくる、この温かな感動は一体何なのだろう?

舞台は、全く仕切りはないのだがいくつかの部屋が重なり合った設定になっており、美術全体の色彩のトーンはグレーで統一されている。静謐な感じさえするステージの上で展開されるのは、ある種のSF。但し、派手なアクションや残虐なスプラッター的表現は一切ない。日常の生活の中に、「散歩する侵略者」が入り込み、人間の身体に大きな影響を及ぼしていく光景が、淡々と描かれていくのだ。しかし、相反するようだが、舞台上の登場人物たちは、実にパッショネートで、激しく口論したり、自分の心情を吐露したりする。ひんやりとした手触りと、熱い思いとが、無理なく融合していく。

しかし、淡々とした印象を強く持ってしまうというのは、この閉じられた世界の中から、誰も出て行こうとはせず、大きな行動的な逸脱がないからなのであろうか。そんな状況自体が、現代の社会が内包する閉塞感とも呼応し、ますます、劇世界へ前のめりになっていく。今を生きる人々の、“気分”が上手く掬い上げられているのだ。緻密な構成で、現実と同じ周波数で舞台がチューニングされているため、物語が観る者の感情にストンと落ちてくるのだろう。その目盛の合わせ方が、実に繊細なのだと思う。

物語の核を開示してしまうが、侵略者は散歩しながら人から何を“侵略”しているのかというと、人が持つ“概念”であるというところが、また、面白い。実に良く出来た、メタファーだ。人から概念を奪うと、どうなるのかという、大いなる問い。彼らが住む町には、軍用機が飛び交い、明日にでも戦争が起こるかも知れないという側面の設定も描かれている。この閉じた世界に、リアルワールドが照射されてくる。

侵略者は3人いて、ヤドカリのように人間の中に住み込み、最初は記憶喪失者のように無の状態だが、だんだんと人から概念を奪っていくに従い、知識が増えていくことで、普通の人間の佇まいへと変化を遂げていく。概念を奪われた人間は、その概念を失うことによる喪失感を味わい、記憶喪失的な疾患を伴うことになっていく。病院にはそんな患者が増えてきているらしい。

そんな中、概念を抜き取られたにも関わらず、水を得た魚のように生き生きとし始めるフリーターの若者が異質な存在として浮き上がってくる。彼が奪われたのは、所有という概念。このことから解放されたことにより、彼は、街頭で戦争反対、世界平和を訴え始めるのだ。当初は、戦争が起こるかもしれない予感に現状打破の喜びを見出していた彼であるが、それがクルリと一変するのだ。友人に、「お前も、変えてもらえ」と進言していくようになっていくのだ。失うことで、初めて見えてくる最も大切なことが、浮き彫りになっていく。

役者たちは、劇団員で構成されているのだが、その誰もが素晴らしい。侵略者の一人を演じる窪田道聡の無の状態から概念を得ることで変化していくその過程の表現。浜田信也演じる記者の好奇心の旺盛さと、ある線上を越えた際の激情が迸るその落差。そして、伊勢佳世演じる夫が侵略された妻の戸惑いと、その現実を受け入れる潔さ。森下創演じるフリーターのいい加減さと、変化してからの猪突猛進振りなどが印象深い。

ラストが白眉だ。話の流れから山場のシーンが少し前から予測できるのだが、これも計算なのであろう。ヒタヒタとラストに向かって展開していく、その上り詰めていく緊張感あるプロセスに、観ている観客も思わず固唾を呑んで見守ることになっていく。妻が侵略者に奪ってと懇願した概念。そして、その概念を抜き取った侵略者。その成れの果ての光景を目撃してしまった私の心の中で、大きく慟哭するもう一人の自分を発見する。こんなにも優しくも鋭いメッセージの提出の仕方があるのだなという驚きと、そして、生きることの意味を問い直されたような気がした。秀作であると思う。

開演時間になると、ざっくりとした喪服を着たユースケ・サンタマリアが現れ、ナチュラルなトーンで観客に対して語り掛けていく。開場前の場内アナウンス的な役割も兼ねているのだが、ユースケ・サンタマリアのお披露目も兼ねたこの冒頭のやり取りで、演劇を観る、見られるという垣根が飄々と取り払われることになる。観客は緩やかに、ステージ上の世界と一体感を得て、そこに集う者皆が繋がっていく感じがする。

すると、四方に伸びた花道から喪服を着た登場人物が現れ、神妙に立ち尽くし物語がスタートするという、その鮮やかな切り返しが見事である。設定としては、どうやら、そこに集った家族のお祖母さんが亡くなった様だということが分かるのだが、その家族の中に隠蔽されている、それぞれの心の奥底に蔓延る暗部がだんだんと透けて見えてくる。

面白かった。物語は、父親の家庭内暴力が家族それぞれにもたらしたトラウマが胸の内でどのように膨らんでいき、決して取り払われることのないしこりとしてどのように成長していったのかがディスクロージャーされるという家庭劇の様相を取っていくのだが、エピソードの断片をかき集めていくような手法で戯曲が構成されているため、真実は如何にという謎を探求していく推理ものとしての面白さに満ち溢れている。

一幕で、女性の存在の在り方を根源的な次元にまで掘り下げた後は、現代のロンドンに場を移し、今を生きるキャリアウーマンたちをピックアップし、現代を照射させていく。そして、これからの時代に、女性が立ち向かうべき道や問題に鋭く斬り込んでいく。

外から人が入ってきたことで展開し始めたシーンが、後にその家に既に居た者たちがどんな会話をしていたのかが明らかになるとか、何故、そんなものを手に持っているのかなと、特に説明もされないままであった理由が説明されるエピソードが付け加えられていくなど、時空間が跳梁跋扈しながら繋ぎ合わされていく驚きに、知的興奮を感じていく。と同時に、上澄みが剥ぎ取られ真実が浮き彫りになっていくことで、家族の痛みに胸が掻き毟られるという現象も多発する。

深刻な家族劇ではあるのだが、それを救っているのが女装をしたお母さん役のユースケ・サンタマリアだ。初演時からこのコンセプトは変わらないようだが、お母さんが男優によって演じられることによって可笑し味が生まれ、且つ、物語が寓意性を持ち得ることになっていく。どんな家族の間にでもある問題として、かつて起こった出来事などを普遍化させる効果を生み出していく。

さらに、研ナオコが死するお祖母さんを演じているということが、死を概念の中からリアルなものへと、グッと近付けるブリッジの役割を果たしていく。ここでもまた、死は誰にでも起こり得る存在としての普遍性を獲得していく。また、荒川良々のキャラクターが深刻さを和らげる存在として大きなアクセントとなっている。それとは相反する、諸悪の根源である父親を演じる大鷹明良が、実に説得力を持って豪腕な父親像を見事に体現する。中軸が強烈な個性で彩られているため、リアルな演技アプローチをすればする程、皆が個性ある存在として同時に浮き彫りにされていく。

作・演出の岩井秀人は、緻密に造り上げられた箱庭を何層にも重ね合わせたかのような重層的で繊細な戯曲の世界観を創り上げ、独特な個性を放っている。見ているのだが見ていない、聞いているのだが聞いていない、のかもしれないということ自体を、実はあまり気にしていないという曖昧な人の意識というものをピンセットで摘んでいくかの如く取り出していく。そして、知っていることと知らないことを並列に置いていくことで、観客に真実を告げるという戯曲構造のブレンド具合が絶妙だ。

演出的アプローチに関しても、死に行くお祖母さんに自らベッドを整え白布を顔に載せる行為をさせたり、クルクルと変わるシーンを小道具などを上手く活用し瞬時にワープさせていくなど、俯瞰した視点の手綱捌きが、ある種の神性さを与えていると思う。

その視点はラスト近く、納棺するシーンにも如実に現れている。一度、このシーンは物語半ばで登場しているのだが、その時はスムーズにお祖母さんが棺桶に入らない状態であったのだが、全てが明らかになった後、もう一度繰り返されるその納棺時には、状況は全く同じなのだが、少しだけ作業がスムーズになっているのだ。真実を知り得た後、多少でもしこりが消えたことにより、現実は修正され上手く機能し始めたということなのであろうか? その光景を、箱庭の上から見つめる岩井秀人の視線は、柔らかく温かい。

これだけ豪華な女優陣が同じ板に乗るという、そのこと自体が本作のまずは最大の見所であると思う。観客もこのキャスティングに惹かれて来場した方がきっと多いのではないだろうか。これはまさに演劇が、今を表現する旬の生ものであるという特典である。そして、演出はジテキン!が懐かしい、今やベテランの鈴木裕美である。プロの女性演劇人が、女性をどう描いて我々観客を唸らせてくれるのか、期待が高まっていく。

かつて観た「クラウド9」も同様であったが、作者キャリル・チャーチルは、時空を軽々と超越する場面構成を平然とやってのけるところが面白い。本作も、誰もが知る有名人ではなく、知る人ぞ知る、時代も国も違うさまざまなタイプの先駆者的な女性が一同に会し、明け透けな会話を交わすシーンから物語はスタートする。場面としては、寺島しのぶ演じる、現代のロンドンに生きる女性エグゼクティブの昇進祝いに、皆が駆け付けるという設定だ。

女性がこれまで甘んじて受け入れてきた、男社会の中における軋轢や障害、そして、心の痛みなどを、悲嘆に暮れる暇も無い程もの凄くポジティブに、それぞれ皆が吐き出し合う光景は、怖いもの見たさ感を観る者に満足させ得るに足る面白さに満ち溢れている。まあ、相手の話は聞かないわ、言葉尻は喰うわ、瞬時に話題を自分の事に振り変えるわと、その嬉々とした何時の時代でも変わらないであろう、女性達の勝手気まま振りが最高に可笑しい。皆が激しく拮抗し合う様が上手くスパークするため、これだけのクラスの女優を集めたことが完全に意味あるものとして昇華する。そのような役者の個性を生かした演出の手綱捌きも、なかなかいいと思う。

一幕で、女性の存在の在り方を根源的な次元にまで掘り下げた後は、現代のロンドンに場を移し、今を生きるキャリアウーマンたちをピックアップし、現代を照射させていく。そして、これからの時代に、女性が立ち向かうべき道や問題に鋭く斬り込んでいく。

本作は、サッチャー政権下の1982年に書かれているため、物語のディティールに多少の違和感を感じざるを得ない表現などが、其処此処でだんだんと見受けられるようになってくる。大きな歪みではないのだが、古色蒼然感が漂い始めるのだ。冒頭で、ある種の、普遍的な女性観が描かれていたこともあり、その落差感に戸惑いを感じていく。演出も戯曲世界を現代に敢えてブリッジさせようという意図はあまり無く、戯曲を忠実に描くことに徹しているため、何故か、過去の出来事を見ているような気分になっていくのだ。

音響なども、シーンとシーンとの合間や場面の背景に流れているのは、パソコンを打つ音であったり、人の囁き声であったりと、オフィスイメージの表現が古いなと感じてしまう。映画「ワーキング・ガール」の頃の様な感じだ。また、時に雑踏や車のクラクションの音などがシーンに被る事があるのだが、高層ビルなのだろうなと思って観ていたオフィスのシーンが、路面店の様な低層のビルのイメージに摩り替わっていく。外の音がそんなにリアルに聞こえてくるオフィスなの?という違和感を抱いていく。唯一、登場人物たちの心情とクロスするかのような、乾いた風の音だけが普遍性を獲得しており、観る者の心にズシリと響いてくる。音楽が使用されないため、音は重要なファクターになるのだが、それにしては、音の選択の基準が、散逸している気がした。

役者はその誰もが素晴らしいが、寺島しのぶとその姉を演じる麻美れいとの対話のシーンが、実にスリリングだ。女性として対極にあるような生き方をしてきたような2人であるのだが、果たしてどのように生きていくことが女性にとっての幸福なのかという問題がストレートに提示され、明確な答えは出さずにその問いを観客へと投げ掛けていく。女性のDNAに脈々と刷り込まれてきたであろう、生きていくことの根源的な不安感から抜け出すことができない女性達の憂鬱が、ロンドンの鉛色の空のように劇空間を覆っていく。そして、少女を演じる渡辺えり!の最後の台詞がこう吐かれる。「怖いよ」。

ラスト、舞台後方の背景が取り払われると、何層かの段に設えられたさまざまな時代の女性達の彫像が背景に現れてくる。そこには、ダイアナ妃の姿なども見受けられ、女たちの受難の経緯が一気に見て取れる訳なのだが、ここでも、やはり、過去に焦点が当てられているため、中央に立ちすくむ女性達の思いを現代の観客へとつなぐ、何かもう一つ、強力なファクターが欲しいなと思ってしまう。額縁の中に見た、80年代の女性の姿、という印象にどうしてもなってしまい、舞台上の女性達の思いが観客席に届いてこない。

さまざまな社会的システムが崩壊し混沌とした現代の社会においては、逆に女性の強さこそが際立ってきているのが現状であると思う。拠るべきもののない男たちの、何とか弱弱しいことか! 役者はいい。しかし、微妙に古いこの戯曲のリアル感を、その時代とは様相を全く異にする現代に移し変えて提示するには、何かもう一工夫欲しいなと感じてしまう佳品であった。かえって男性が演出した方が、この戯曲に潜む女性の根源的な渇望感を、客観的に掬い出せたのかもしれないなとも思いを巡らせてしまう。

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