2018年 7月

同作のタイトルを見て、映画「おとなのけんか」(監督:ポランスキー)=演劇(邦題)「大人は、かく戦えり」の再演かと思いきや、ヤスミナ・レザが2015年に発表した新作であった。ヤスミナ・レザ作品において上演台本が岩松了、新進気鋭の上村聡史が演出、そして、この豪華な俳優陣。この布陣を見て、是非、観てみたいと思いチケットを奪取した。

原題名は「Bella Figura」というんですね。“表向きに良い顔をすること”というイタリア語の表現らしい。言い得て妙なタイトルですね。物語は、“表向きに良い顔をしよう”としながらも、“表向きに良い顔ができず”に本音をぶちまけていく大人たちの話である。

鈴木京香と北村有起哉は不倫カップルで、レストランでディナーをとやってきたその店に駐車場でひと悶着。男の妻が薦めていた店らしく、そんなレストランに連れてくるなんてデリカシーがない、ということのようなのだ。冒頭から、男と女のすれ違いが、歯に衣着せぬ言葉の応酬で展開され、この期待通りの展開に思わず嬉々としてしまう。

男のビジネスは上手くいっていないらしく、ひっきりなしに携帯電話でもめ事の会話を交わしている。どうやら破産しかねない位かなりピンチな状況のようなのだ。そんなことは何処吹く風とする女との意識の相違が面白い。鈴木京香と北村有起哉がもはや惚れた腫れたを超えた、男と女の明け透けな感情をストレートにぶつけ合う光景に、観る者は、何故か、スッとしてしまうのだ。自分に代わりに他人がバトルしてくれることで、ストレスか解消されていくようなのだ。

こんな状態を脱すべく帰路につこうとした時、駐車場に居た老女に車が接触してしまう。痴呆症気味の老女を麻美れい、その息子と妻を藤井隆と板谷由香が担っていく。その妻が、北村有起哉演じる男の妻とどうやら親しいということが分かってくる。北村有起哉と板谷由香は知り合いであるという気まずい状況。このピンチな状況が、益々、面白い展開になっていくので、ついつい舞台に引き込まれてしまう。

鈴木京香、北村有起哉、板谷由夏、藤井隆、麻美れいの5人ですよ、俳優陣は。盛り上がらない訳がない、面白くない訳がない、という布陣ですよね。演出の上村聡史は、この居並ぶ猛者たちの魅力を十二分に引き出し、役者で魅せるという演劇本来の楽しみをたっぷりと堪能させてくれる。

翻訳ものにありがちなぎこちない台詞は、本作には一切ない。岩松了の上演台本が、実にナチュラルに会話を紡いでいるので、役名は日本名ではないのだが、現代日本で生活をする者の延長線上にあるかのような親和性を生み出す効果を発している。

大掛かりな仕掛けがある訳ではないのだが、車が舞台上に登場しリアルな空気感を醸し出したり、会話劇を全方位的に見せるために盆ステージになっていたりと、可視的にも細かな工夫が凝らされている。会話だけに集中しなければならない呪縛から解き放つ演出が、作品をより楽しく見応えのあるフェースにまで引き上げていく。耳でも目でも、演劇の醍醐味が堪能出来るのが何とも楽しい限りである。

大人の鑑賞に堪え得るウェットに富んだ上質な会話劇を、魅力的な俳優陣とスタッフが丁寧に磨き上げ、見応えある逸品に仕上がった。小さな劇場でも、こういう良質な作品がロングランするような環境が整うと、文化はもっと豊かになっていくのであろうという思いを強く抱くことにもなった。

2014年、ニューヨークの「第一アイリッシュ・フェスティバル」という演劇祭で初演された同戯曲を、ニューヨークの書店で本作のプロデューサーが偶然手に取ったことが、今回の上演に繋がっているのだという。発掘された本作は、オリジナリティ溢れる作品世界が造形され、ぞくぞくするような刺激を与えてくれる。

トリロジーとタイトルに冠されているように、本作は3部作の体裁をとっている。「狂気のダンス」「濡れた背の高い草」「男の子たちが私の前を泳いで行った」と題された各章にIRAの青年マクガワンが縦横無尽に跋扈するのが共通項であるが、それぞれの章で展開される世界は全く別ものになっている。それが面白い。

「狂気のダンス」の舞台は一般に人は入ることが出来ないIRAの隠れ家パブ。何度もうるさく店舗のブザーを鳴らし、入店させろと恫喝する御仁がマクガワン。気の弱いパブのスタッフは、イヤホン越しでのマクガワンの舌禍の猛攻に押し切られ入店させてしまうと、そこに現れた男はキレッキレのIRA戦士。演じるは松坂桃李だ。

松坂桃李が上手い役者であることは認識してはいたが、このマクガワンという役柄を造形したスキルとパワーには度肝を抜かれた。完全にイカレているんですよ、このマクガワン。振れ切っている、ヤバい奴。何で此処に来たかというと、内通者がいるからだということが分かってくる。その対象者に、マクガワンの容赦のない鉄槌が下されていく。

観ているだけなのですが、松坂桃李演じるマクガワン、かなりの怖さ。もうこれ以上暴れないでくれと、心の中で願ってしまう程だ。但し、嫌悪感は何故か感じられない。それは、松坂桃李の甘いルックスにも遠因があるのだと推察するが、マクガワンは彼なりの正義があって行動をとっていることが納得出来るからなのだとも思う。視点を変えてみると、観客の鬱憤をマクガワンが代理で果たしてくれていると言えないこともない。観客の共鳴を呼び起こす、この悪漢。松坂桃李から目を離すことが出来ない。

打って変わって「濡れた背の高い草」は、マクガワンのまた違った側面がフューチャーされる。アイルランドの首都ベルファストから遠く離れたキャロウ湖に、趣里が演じる知り合いの女と共に車で降り立ったマクガワン。マクガワンはその女にかつて恋焦がれていたようでもあるのだが、IRAの規則を破ったが故、制裁を加えるために同地に赴いたようなのだ。

しかしその罪というのが、死に値するものなのかというと、そこは疑問だ。罪状と人情とに殺人マシーンであるマクガワンは絆されかかり、マクガワンの人間的な心情が薄っすらと垣間見られる。1幕とは様相を異にする、優しいとも弱いとも言える人間の側面が活写されていく。趣里の毅然とした在り方は、松坂桃李の存在感に引けを取らない強烈さを放ち、印象的だ。

そして3幕は「男の子たちが私の前を泳いで行った」。マクガワンの生き様の源泉を更に遡り、認知症を患い老人施設に入所している母の下に、夜半、忍び込むマクガワンという設定だ。マクガワンを自分の弟だと思い込む母との噛み合わない会話は、シュールで可笑しく笑いを誘う。

母を演じるのは高橋惠子。百選練磨のベテラン女優の掌で、松坂桃李が上手く転がされている風にも見える光景に、何だか妙な安心感を覚えてしまう。一端の男でも、母の下では子どもへと回帰してしまうようなのだ。年老いた母を、色香を漂わせながらもリアルに造形する高橋惠子が放つオーラに、思わず惹き付けられてしまう。

マクガワンという男の生き様を通して人間の弱さやハッタリが浮かび上がり、生きていくためには、一体、何をファースト・プライオリティに据えればよいのかということを、ついつい熟考してしまう。相反する人間の心情の襞に触れる繊細さと、暴力的な言動とを融合させた松坂桃李が造形する人間像が、作品に血肉を付与していく。ヒリヒリとした刺激を与えてくれる同作であるが、それは松坂桃李の存在に負うところが多いのだと思う。また、観てみたい。是非、再演を希望したい作品である。

BOATが並ぶ海岸を有する、とある町が舞台となる。ディティールが積み重なって物語が紡がれていくので、細かい説明はないが、そんなことは問題ない。そういう設定であるのだということを、一瞬にして観客に理解を促してくれる。

港町故、色々な人々が流れ着きもする、そんな土地における、新旧の人々の確執が横溢する光景が展開していく。新しく流入する人々を受け入れる者、問題が起こると流入してきた者にその原因を押し付ける者などが混然としていく。

宮沢氷魚演じる流れ者を中心に物語は展開していく。土地の者は徐々に自分たちのテリトリーが侵食されていくのは、外部からの流入者であると断じ、差別的な言動を犯すようになっていく。登場人物たちは、既成概念の囚われ人であるような気がしてくる。

藤田貴大は、観客に対して、声高にアジテーションしていく。異分子を排除しようとして、過激な行動に出る者たちに対し警鐘を鳴らしていくのだ。貴方は、この状況を、どう感じますか、と。これは架空の町の話ではない。まさに、現代そのものを描いているのだと思う。純と汚濁が拮抗していく。

壁や柱や椅子などを役者がパタパタと移動させ、シーンが変転していくのはいつもの藤田貴大演出であるが、本作はその慌ただしく加速する舞台転換が、生き急ぐ人々の運命の歯車が加速していくかのような効果を発していくようだ。観ているこちらも段々と気持ちのボルテージが上がっていく。息を次ぐのが苦しくなっていく。舞台上の人々と気持ちがシンクロしていく。

“劇場”というテーマが、作品にしっかりと刻印されていく。劇場が情報の発信基地であるのだという藤田貴大の思いが滲み出る。混沌を極める町をBOATで脱出する余所者が空っぽの劇場に、ある“起爆剤”を仕掛けていく。演劇を創る者にとっては、ある意味、神聖な場所である劇場を“瓦解”させるような顛末が胸に迫る。

どの様な思いで、表現の場の拠点である劇場を“瓦解”させるような物語を認めたのであろうか。今居る自分の立ち位置に固執することなくそこから飛び出し、次なる一歩を踏み出さなければならないのだという、藤田貴大のある種の決意表明にも思えてくる。

“瓦解”の表現が、また、秀逸である。焔もリアルな爆発音もない。プレイハウスは漆黒に包まれ、腹に響く振動音のみが観客を覆っていくことになる。そこで感じる感覚は、恐怖そのもの。事の顛末が可視化されず、観客個々人の想像力で補わなければならないというクリエイティビティが刺激的だ。

彼の地を遠く離れエスケープしてきた乗船者は、BOATの上で泣きながら声を振絞り大声で叫ぶ。「私は決して人は殺さない」と。世界で跋扈するテロや、日常と隣り合わせで起きている虐待などが想起させられてくる。劇場という場から世界を照射し圧巻だ。胸に迫る傑作であると思う。

ユージン・オニール作「アンナ・クリスティ」は、グレタ・ガルボ初のトーキー作品であるという触れ込みは知ってはいたが、舞台での上演作品として接するのは初見である。また、よみうり大手町ホールで演劇を観るというのも初めてである。本年2018年に上演する際に当たり、一番の興味は、タイトル・ロールでもあるアンナ・クリスティという女性をどう捉え、どう描いていくのかという点に、一番の注目が集まるのではないかと推測される。

篠原涼子が13年振りの舞台出演であるということが、本作最大のトピックスであろう。映像でのワークが多いのだと思うが、どのような魅力を放ってくれるかということに大いに期待感が高まってもいく。

ユージン・オニールは自身の経験を戯曲に反映させていたという。冒頭の舞台となる酒場や、はしけ船を住まいとする設定などに、船員であったユージン・オニールの生活の匂いが立ち上る。幕が開くと同時に、「アンナ・クリスティ」の世界観に引き込まれていくことになる。

しかし、仔細なことなのであるのだが、酒場でのシーンで度々、客にビールがサーブされるのだが、これが泡だらけでジョッキの半分位の量しか注がれておらず、これを旨いと言って飲んでいるというフェイクがあまりにも気になってしまう。注ぐのならきちんとして欲しいし、注がないという見せ方もあるのではないかと考えてしまう。冒頭からこんなことに気持ちが持っていかれてしまうのは、何とも残念だ。

ビールのことは忘れ、気を取り直して舞台と向かうことにする。5歳の頃に親戚に預けていた娘が、たかお鷹演じる父クリスのもとに戻ってくるという。成人した娘アンナ・クリスティを演じるのは篠原涼子である。登場した途端に、これまで辛い人生を送ってきたのだなと分かる疲れ具合が胸に迫る。親戚の家で虐待を受け家を飛び出し、娼婦に身をやつしていたことが語られていく。

時代を経ても古びることのない虐待などが織り込まれた物語設定から、相も変らぬ人間の性が浮き彫りになっていく。はしけ船で暮らす父の生活にも格差問題が透けて見えてくる。1921年の作品が、古びることなく2018年の今の時代に違和感なく斬り込んでくる。

難破船から助け出されたマットが登場することで、物語が大きく変転していく。マットは佐藤隆太が演じていく。マットはアンナ・クリスティの過去は知らず付き合い始めることになるが、マットが結婚を口にするようになるとアンナ・クリスティは自分の過去を隠しておけなくなってくる。マットは自分の過去の武勇伝は隠すことなく公言しているのだが、アンナ・クリスティの過去を聞いたマットは激高し、罵倒する。

現代の観客は、マットの過去は何も言及されず、アンナ・クリスティの過去だけ取り沙汰されるのかと訝る方が多いのではないかと思う。しかし、執筆された当時は、事情はきっと違っていたのではないかと推測される。約100年の時を経て、モラルが変転したことを確認することにもなる。篠原涼子がアンナ・クリスティという女性が孕む相克を表現し、現代の観客の心情に生々しい存在感を刻印し印象的だ。

アンナ・クリスティとマットは決別するのだが、クリスとマットが同じ船でケープタウンに行くことになるという顛末が面白い。初演当時は、甘いハッピーエンドと称されたらしいが、人の意思だけではままならぬ運命の流転が悲喜劇を綯い交ぜにし、この後の3人の行方を観客の手に委ねる展開が粋である。人間を俯瞰で捉えた悲喜劇を篠原涼子がグイと牽引し、観客にブリッジさせる魅力的なアンナ・クリスティを造形し見事である。

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