ハロルド・ピンターの描く世界は、人間の無意識にコネクトしていく魔力を持っている。しかし、決して右脳の感覚だけに寄り過ぎることなく、左脳の理解力を動員しないと解けない謎を同時に秘めているというその両義性が放つ魅力に、ついつい惹き付けられてしまうようなのだ。
物語は、不倫を続けてきた男女が、冒頭でその関係を終わらせるところから始まり、男がその事実を、友人でもある女の夫に告げるシーンへと続いていく。時系列に沿って物語は展開していくのかと思いきや、そこが事の結末となり、戯曲は過去へと時間を遡っていくことになる。「背信」という戯曲の妙に、目が釘付けになっていく。
仕掛けられたトラップはそれだけには終わらない。過去に時間を戻すという構成に呼応するかのように、人間の記憶というものの曖昧さが其処此処で零れ堕ち、行き違っていくのだ。私たちは、何たる脆弱な砂上の楼閣の上に生きているのかという事実が突き付けられ、愕然とさせられる。
些細な言葉が繊細に折り重ねられていくため、創り手が意識しなければ、登場人物たちの意識のすれ違いがもたらすダイナミックなうねりを観客に伝えることは出来はしない。ある意味、クリエイターの技量が試される戯曲であるとも言えると思う。
登場人物は男と女、そして女の夫の3人のみ。1シーンだけ、イタリアンレストランの給仕が現れる。女を松雪泰子、男を田中哲司、そして、夫を長塚圭史、給仕役をジョン・カミナリが演じ、演出は長塚圭史が担っていく。戯曲のギミックに翻弄されることなく、男と女の生き様を生々しく筆致していく丁寧な作業に、観る者の心情がシンクロしていく。
本公演で描かれる男と女は、不倫で家庭を壊そうとは全く思ってなどいない、大人の冷静さを保っている。決して行動が感情に先走ることなく、身体は理性のコントロール下に置かれている様に見受けられる。あくまでも秘め事の範疇内において、事の顛末を納めようとしているために起こる感情のささやかな亀裂が意識の隙間に入り込み、まるで既に刷り込まれている筈の記憶を撹乱しているのではないのかと感じ入る。虚実の皮膜が、心の浸透圧で曖昧になっていく。
場面が転換するごとに、ステージに据え置かれるセットや小道具が変わるのだが、はけられた物はアクティング・エリアの周囲に置かれ、まるで意識の残像が残っているかのような効果を発していく。戯曲の真髄と呼応していく。
また、場面ごとに、松雪泰子が纏う衣装は変わっていくのだが、男と夫は同じ衣装のままであることも面白い。ここで展開されている事は誰かの観念の中で起こっており、まるで、その者の記憶を辿っているのかの気さえしてくる。
田中哲司は男なら誰もが持っているであろう、相手を捻じ伏せようとする権勢欲、自己の都合の良い方向に事を運ぼうとする我がままさ、しかし、今の状態を継続させていこうとする事なかれ主義などのさまざまな側面を、多面的でリアルに造形する。
松雪泰子は、何事が襲ってこようとも決して揺るぐことのない女の強靭さを、しなやかに演じていく。平面的な演技に陥ることなく、戯曲の迷宮世界に寄り沿うが如く、人間の記憶の曖昧さを曖昧なまま観客の心にストンと落とし、心にしこりとなって広げていく効果を放っていく。
長塚圭史は事の全てを知っているかのような諦観した視点を持ち、演出者としての視点ともクロスしているかのような印象を残していく。冷静な佇まいを保っているが、マグマのような感情を沸々と身体に封じ込めた様な裏腹な感情をもヒタヒタと忍ばせていく。
ハロルド・ピンターが描いた迷宮世界が、行間の隙間に迷い込むことなく、リアルに立ち上がり観客の意識とクロスし見事だ。繊細さだけがフューチャーされることなく、生きている人間の強さも戯曲の中から掘り起こされ独特であった。
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