2014年 9月

ハロルド・ピンターの描く世界は、人間の無意識にコネクトしていく魔力を持っている。しかし、決して右脳の感覚だけに寄り過ぎることなく、左脳の理解力を動員しないと解けない謎を同時に秘めているというその両義性が放つ魅力に、ついつい惹き付けられてしまうようなのだ。

物語は、不倫を続けてきた男女が、冒頭でその関係を終わらせるところから始まり、男がその事実を、友人でもある女の夫に告げるシーンへと続いていく。時系列に沿って物語は展開していくのかと思いきや、そこが事の結末となり、戯曲は過去へと時間を遡っていくことになる。「背信」という戯曲の妙に、目が釘付けになっていく。

仕掛けられたトラップはそれだけには終わらない。過去に時間を戻すという構成に呼応するかのように、人間の記憶というものの曖昧さが其処此処で零れ堕ち、行き違っていくのだ。私たちは、何たる脆弱な砂上の楼閣の上に生きているのかという事実が突き付けられ、愕然とさせられる。

些細な言葉が繊細に折り重ねられていくため、創り手が意識しなければ、登場人物たちの意識のすれ違いがもたらすダイナミックなうねりを観客に伝えることは出来はしない。ある意味、クリエイターの技量が試される戯曲であるとも言えると思う。

登場人物は男と女、そして女の夫の3人のみ。1シーンだけ、イタリアンレストランの給仕が現れる。女を松雪泰子、男を田中哲司、そして、夫を長塚圭史、給仕役をジョン・カミナリが演じ、演出は長塚圭史が担っていく。戯曲のギミックに翻弄されることなく、男と女の生き様を生々しく筆致していく丁寧な作業に、観る者の心情がシンクロしていく。

本公演で描かれる男と女は、不倫で家庭を壊そうとは全く思ってなどいない、大人の冷静さを保っている。決して行動が感情に先走ることなく、身体は理性のコントロール下に置かれている様に見受けられる。あくまでも秘め事の範疇内において、事の顛末を納めようとしているために起こる感情のささやかな亀裂が意識の隙間に入り込み、まるで既に刷り込まれている筈の記憶を撹乱しているのではないのかと感じ入る。虚実の皮膜が、心の浸透圧で曖昧になっていく。

場面が転換するごとに、ステージに据え置かれるセットや小道具が変わるのだが、はけられた物はアクティング・エリアの周囲に置かれ、まるで意識の残像が残っているかのような効果を発していく。戯曲の真髄と呼応していく。

また、場面ごとに、松雪泰子が纏う衣装は変わっていくのだが、男と夫は同じ衣装のままであることも面白い。ここで展開されている事は誰かの観念の中で起こっており、まるで、その者の記憶を辿っているのかの気さえしてくる。

田中哲司は男なら誰もが持っているであろう、相手を捻じ伏せようとする権勢欲、自己の都合の良い方向に事を運ぼうとする我がままさ、しかし、今の状態を継続させていこうとする事なかれ主義などのさまざまな側面を、多面的でリアルに造形する。

松雪泰子は、何事が襲ってこようとも決して揺るぐことのない女の強靭さを、しなやかに演じていく。平面的な演技に陥ることなく、戯曲の迷宮世界に寄り沿うが如く、人間の記憶の曖昧さを曖昧なまま観客の心にストンと落とし、心にしこりとなって広げていく効果を放っていく。

長塚圭史は事の全てを知っているかのような諦観した視点を持ち、演出者としての視点ともクロスしているかのような印象を残していく。冷静な佇まいを保っているが、マグマのような感情を沸々と身体に封じ込めた様な裏腹な感情をもヒタヒタと忍ばせていく。

ハロルド・ピンターが描いた迷宮世界が、行間の隙間に迷い込むことなく、リアルに立ち上がり観客の意識とクロスし見事だ。繊細さだけがフューチャーされることなく、生きている人間の強さも戯曲の中から掘り起こされ独特であった。

1978年に発表された同戯曲は、清水邦夫が主宰する劇団「木冬社」における上演のために書かれたものであった。盟友である蜷川幸雄に向けて書き下された作品とは色合いを少々異にし、葛藤する自己の内面をしかと内省化しながらも、己の感情を勢いよく叩き突けてくるようなヒリヒリとした緊張感に満ち満ちている。また、そこには、作者の生き様と共に、その時代が孕んでいた熱情のようなものが背景として忍び込んでおり、パースペクティブな奥行を造形する物語世界が構築されていく。

主人公の俳優は、清水邦夫が自らを投影したのであろうか。女優を引退した妻の役どころは氏の夫人のイメージとも重なって見える。現実を現実として直視できない狂気が描かれ、そこまで追い込まれていたのであろう作者の真情が吐露されたとも見て取れるが、冷静に筆致する技能はやはり異能と言わざるを得ない。

作品が抱える葛藤は、自らが過去を置き去って疾駆してきた自省の念ともリンクする。過ぎ去った時代を総括しきれていない忸怩たる思いが、狂気へと駆り立てる大きな起因にも成り得ているようなのだ。その重層的、且つ、多面的でもある戯曲の中から、しかと物語の核を掴み出す蜷川幸雄の繊細な手綱捌きに瞠目する。清水邦夫と共に時代を歩んできた氏だからこそ成しえることが出来た成果なのではないか。

俳優陣は、実力ある才能が隅々に渡るまでキャスティングされた豪華な布陣が敷かれている。物語に聳立する俳優は段田安則。妻を宮沢りえ、故郷に住む姉を大竹しのぶが、それぞれ演じていく。

現代版演出の「オセロ」上演中の俳優は、役にのめり込んでいるということもあってか、俳優が死の衝動に駆られる瞬間を掬い取っていく。妻を殺めようとする姿は、オセロなのか、はたまた自分自身なのか。此岸と彼岸とを行き来する男の在り方が、冒頭でクッキリと刻印される。満島真之介演じる舞台監督がその瞬間を目撃し間に割って入るが、その後、「オセロ」に扮するシーンなども織り込まれ、ドッペルゲンガー的なエッセンスも振り撒かれ面白い。

「オセロ」の上演を終えた俳優が、妻の助言で故郷に舞い戻ってくるところから物語は一気に加速する。迷い込んだ床屋で出会う女主人が姉だと後に紐解かれていくのだが、俳優にその意識はない。姉は蒙昧する弟の意識に付き従う体を取っていく。騙す訳でもなく、騙されている訳でもないのだが、無意識下で通底する双方の真情が、ドクドクと呼応し始める瞬間を、観客は固唾を呑んで見守っていくことになる。抑え込まれたマグマが、其処此処で噴出し始めていく。

強烈なのが、姉を演じる大竹しのぶの眼差しだ。まるで、ハロルド・ピンター作品の住人のように、果たして此処に存在しているのか、していないのかという存在の曖昧さを敢えて明確にはせず、視点の先に誰をも捕らえていない様な空虚さが、本作の台風の“眼”として中心に据えられていく。演じるという次元を超えた、想念の強烈なパワーを放熱し圧巻だ。

妻を演じる宮沢りえと大竹しのぶとの対峙が本作の見所でもあるが、夫を信じながらも時空のエア・ポケットに迷い込んでしまったかのような妻を、此岸からは超越した存在であるかの様な姉の生き様とは対照的な在り方にて、リアルに造形する宮沢りえの瑞々しさが作品に一服の清涼感を付与していく。

段田安則は二人の女の間で彷徨いながら、戻りたくない消し去った過去に目を瞑りながらも、決して購えることのない苦悩を滲ませ絶品だ。ベテラン俳優の狡猾さと、青年の青二才振りとを行き来しながらも、行き場を失った舟のごとく自己の世界に酩酊していくしかない様がヒリヒリと痛々しい。

山崎一の軽妙な狡猾さ、平岳大が醸し出す報われることのない哀切さ、満島真之介が次代へのブリッジの役回りを明晰に表現し、市川夏江、立石涼子、新橋耐子らベテラン陣が、故郷に巣食う思念の残像の残り香をしたたかに体現し、作品にしかとリアルを刻印していく。

創作する者の苦悩と、果たして自分は時代に据え置かれたのではないかという焦燥感が、戯曲からクッキリと立ち上がり、観る者の胸を掻き毟る。かつて書かれた物語が、現代の人々の心を震わせる普遍性を獲得し秀悦だ。

1995年初演、1997年再演の舞台の、再々演となる本作において、三谷幸喜は初の演出を手掛けることになった。前2作の演出は、山田和也。ソフィスティケイテッドされたコメディやミュージカルを得意とする三谷の盟友だ。初演から19年。以降、数々の作品で研鑽と積んだ三谷幸喜が、笑いの波状攻撃で観客を唸らせた作品を引っ提げPARCO劇場で再々演に臨むことになる。

当たり前なのかもしれないが、自らが手掛けた戯曲を、実に丁寧に検証し、作品の微細に至るまで目が配られた繊細なコメディに仕上がったと思う。勢いのある瑞々しさに溢れた戯曲を、その勢いに任せきることなく、そこで描かれている感情を活き活きと立ち上らせていく三谷幸喜の手腕に目を見張る。

上演時間は2時間弱であるが、その上演中、観客は、もう笑いっ放しな状態である。なかなか、ないと思いますよ、ここまで笑いで舞台と観客席が一体化する舞台は。次から次へと、クルクルと展開するシチュエーションの変化の連続に、心地良いサプライズをその都度叩き突けられ、まさに波状攻撃を喰らっているかのような状態に晒されていく。

キャストの相違により、微妙に笑いの質が変化しているところが興味深い。同戯曲は、初演時、多分、宛て書きであったのではないのかと思われるが、それ故、この役者でこの演技が見たいという観客の欲求に、ドンピシャに応えていた様に思う。しかし、再々演を迎えた本作に於いては、キャスティングに一ひねりが加えられ、着地点が容易に見えない布陣の一挙一動から目が離せない。

キラキラと輝くオーラ満載の竹内結子が、作品の中心にスクっと立ち、舞台をグイグイと牽引していく。実力ある旬な女優の初舞台は、しっかりとした存在感と新鮮な初々しさで観客の目を釘付けにしていく。物語がすれ違っていく、その全ての要因が、彼女に集約されているのだが、その展開を全て請け負っている器の大きさが、役者としてのレンジの広さを刻印し見事である。

竹内結子演じる妙齢のOLの、親の年齢を超えるパートナーが、幾つかの偶然が重なり実家へと訪ずれてしまうところから、物語はもつれ始めていく。そして、都合の悪いことを都合の良い様に言いくるめていくことで、嘘の辻褄合わせをしていくという、その差異を埋めるプロセスが笑いを呼んでいく。緻密に組み立てられた構成に、今さらながら舌を巻く。

父を演じる草刈正雄が、氏にとっては、きっとかつてなかったであろうコメディリリーフを受け持ち、甘いマスクとは裏腹な江戸っ子な親父を嬉々として演じ笑いを誘っていく。親父は、もはや見た目ではないのだな。その存在感自体が親父なのだというリアルに、ついつい共鳴してしまう。

対照的なのは、娘のパートナーを演じる小林勝也。強面な様相で、家族に気に入られるために奔走する姿が、何とも愛らしいのだ。また、愛らしさと併走して、年齢を経ると子どもに回帰するという側面が浮き彫りになるなど、老齢の男の多面性が可笑し味を持って造形されていく。

イモトアヤコは妹という立場で、その場で起こる全てを把握しながらもディスクロージャー出来ずに右往左往する姿が面白い。少し天然なお母さんを長野里美が軽やかに演じ、作品に軽妙さを添えていく。ジョビジョバの長谷川朝晴が、小林勝也の息子役を受け持ち、真面目なのだが決して好青年には見えない挙動不審な男を、思い切りデフォルメして造形し独特の存在感を示していく。木津誠之は父が経営する理容室の従業員で、姉に恋しているという役どころに生真面目さをフューチャーさせ好感が持てる。

笑いは“差異”によって生じるのだと思うが、このすれ違いの喜劇は、まさに、“差異”が途切れることなく連続して繋がる驚異的な光景を目の当たりの出来る、傑出した喜劇だと思う。繰り返し唱えてしまうが、こんなにも笑い転げることができる舞台は滅多にない。

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