2013年 1月

大竹しのぶという女優をあらゆる角度からたっぷりと堪能できる、まさに大竹しのぶオンステージの仕上がりになっていると思う。初演時に大絶賛を浴びた本作であるが、今回の再演にして既に、ロングラン作品だけが持ち得る、揺ぎ無い安定感を獲得し得ている。

ピアフが路上で歌いながら食い繋いでいた時代から、ナイトクラブのオーナーに見出されてメキメキと頭角を現し、スターダムの階段を駆け上っていく様相を一気呵成に見せていく。そこではピアフの奔放で我が儘な態度を活写しつつも、実は脆いハートを併せ持つ繊細な側面もきっちりちと表現され、心の奥底に蠢く渇望が、愛を追い求め、愛に生きる心情に連結していくピアフの想いを描き心を打つ。

若い頃であろうが、年齢を経ていこうが、変に経年変化をメイクなどで施すことなく、勿論、老齢になってからは車椅子に乗り、動きは緩慢になるのだが、ピアフという女性を大竹しのぶは内面から抉り取っていくため、年齢や時代背景などよりも懸命に生きる人間そのものの生き様が前面に表出し圧巻だ。

また、大竹しのぶは全編にわたり往年の名曲を歌い上げていくのだが、その歌声にも人生の悲哀を忍ばせ、演じることと相まって、愛と歌に生きたピアフという女性を多面的に捉え表現していく。そこに立つのは、ピアフ以外の何者でもないという存在感を示していく。

若い頃からのピアフの相棒的な存在・トワーヌを演じる梅沢昌代も強烈な印象を残す。女同士、ピアフとの本音が言い合えるさばけた会話の中に、普段は決して顔を出すことのない二人の優しさが染み出てくる。若い頃から若くは見えないのだが、そんなことはあまり気にならない。大竹しのぶとの喧々諤々のキャッチボールに身を任せているだけで心地良い。

マレーネ・ディートリッヒと秘書マドレーヌを演じる彩輝なおは、それぞれの役柄をクッキリと際立たせていく。表層を造り込みながら内面を構築していくのであろうか、表裏の裏の部分もある意味、表側のような表現で明確に演じられるため、心の内に蓄積された真情を垣間見るというような心の振れ幅があまり感じられない。ある意味、役柄をカリカチュアライズしているとも言える。

辻萬長が男優陣の中で一際個性を放つ。ピアフを最初に見出すナイトクラブのオーナーを演じて物語の冒頭をキリリと締める。畠中洋が演じるマネジャーも、永年に渡りピアフを支える続ける忠誠とシニカルな側面とを両立させ人物に厚みを与えていく。

他の男優陣なのだが、イブ・モンタンを演じる藤岡正明やシャルル・アズナブールを演じる小西遼生には、後に大物になる歌手の際立った個性をもう少し感じさせて欲しい。碓井将大や谷田歩は薄味の存在感で、横田栄司は、蜷川芝居で魅せるパッションの迸りがあまり感じられず、マルセル・セルダンという枠の中にちんまりと納まってしまっている気がした。また、身体がボクサーに見えないという点も挙げておきたい。

一切の外連味ある手法は使わず、徹底して演者を全面に立たせる演出は、大竹しのぶをはじめとする役者たちの演技をタップリと堪能出来るという点に於いて満足度の高い作品に仕上げており上手いと感じた。但し、これはある意味見せ場だと思うのだが、ラストシーンで花片が天上から降ってくるのだが、それが何故か数枚なのだ。これは一体何の効果なのかが良く分からない。それとも何かのアクシデント?

魂で演じる大竹しのぶの魅力がたっぷりと堪能できる作品であった。キャストの個性のバランスなども加味しながら、繰り返し上演していって欲しい演目だと思う。

ケラリーノ・サンドロヴィッチの新作戯曲を、ケラ本人と、蜷川幸雄が演出を執る話題の競作である。以前、野田秀樹と同様な公演を行った蜷川ではあるが、演劇界を牽引する御仁が、こういう賑々しい企画に果敢に取り組むのは、何とも楽しく嬉しい事だと思う。

本戯曲は、ケラが役者に宛書せずに書かれたものだというが、蜷川が演出するということは当然念頭にあったに違いない。タイトルにもある三姉妹は「三人姉妹」や「リア王」が想起させられ、民衆はコロスの様に仕立て上げられる。シェイクスピア、チェーホフ、ギリシア悲劇と、蜷川がこれまで手掛けてきた演出作品の要素が其処此処に散りばめられ、ケラが蜷川へのオマージュを捧げているには明らかだ。

両作の醍醐味は、何といってもキャスティングにある。ケラバージョンは、今、演劇界で活躍する旬の実力派俳優を揃えたオールスターキャストにある。蜷川バージョンももちろんスターが顔を揃えるが、主演の森田剛は人気アイドル、注目の若手・染谷将太などの他、映像でも活躍する原田美枝子や中島朋子、そして、三田和代、伊藤蘭、古谷一行といったベテラン俳優なども居並び、出自や活動フィールド、年齢層が幅広い印象がある。どの役者陣も適材適所に配されており、競作に相応しい顔見世興行的な華やかさが堪能出来る。

役柄の全てに均等に思い入れを込め、よくもこれだけの俳優陣が集ったなと思わせるケラのキャスティングと、意外性とアクセントを盛り込み、俳優同士の化学反応を期待する蜷川の思いが如実に現れた選択だ。

話は、架空の町「ウィルヴィル」の支配者一家と、その町に住む被支配者である住民たちが織り成す愛憎や死、そして連鎖する血縁の契りなどが語られ、閉塞感が充満する町の出来事の中に、不具、差別、宗教、呪術、錬金術、テロ、闖入者といったスペックが散りばめられていく。一見、中世の古典的な大河ドラマの様相にも見えるが、ケラは人間の暗部をシニカルに切開し、まるで顕微鏡で覗き見るがごとく微細な感情を抽出した、ブラックなファンタジー・ワールドを展開させていく。

ケラバージョンは舞台にしっかりとウィルヴィルの町を造り出す。精緻な町の造形、時間がはっきりと示される明かりの色や注ぎ方、西洋の何処かであることが想起させられる衣装など、細部に渡るまでケラが思い描く世界が隙間なく構築されていく。蜷川は、そのケラの意図を推測したのであろうか、素舞台に近い美術に、意味性を排除した明かりの在り方、東洋と西洋が入り混じったテイストの衣装といった、全く正反対のコンセプトで参戦する。演出家によって、同じ戯曲がここ迄違うものになるのだという見本のような両作である。

ケラバージョンは映像を駆使し、物語の世界観を押し拡げていく。閉じた町の澱んだ空気が、映像によって一気にパースペクティブに飛翔する。しかし、何と言っても一番驚いたのが、蜷川バージョンのコロスの扱い方だ。なんと、コロスの台詞を全てラップのリズムで語っていくのだ。ラップはこの物語が帯びた神話性を剥ぎ取り、そこに生きる人間の本質を抉り出そうという気概を叩き付けてくる。また、戯曲に書かれた場面を表すト書きが、テロップとなって表示されるのも面白い。この手法を採ることにより、舞台が俯瞰した視点を獲得し、逆に、物語に神話性を付与していくことになるのだ。

ケラバージョンは、まるで上質なゴブラン織りのように見た目に美しいが故に、その奥底に蠢くダークな部分が浮き彫りにされていく。表裏の美醜が共鳴し合い、人間の、そして、世界の矛盾に満ちた成り立ちの有り様がユーモアを交えて提示されていく。蜷川バージョンでは、その町に生きる人々のリアルな生き様を微細に描ききる。人間世界を徹底的に人間臭く描くことにより、マクロ=神の視点との対比をクッキリと照射させ、人間の贖うことの出来ない命運を提示していく。ケラがマクロとミクロを物語上に共存させていたアプローチとは意を異にする。

演出に正解はない。それ故に、この2作品は壮大なる格好な実験上演だったと思う。そして、その試みは、見事に成功した。同じ戯曲が描く世界は全く異なり、その世界で生きる人々が抱く思いのニュアンスも微妙に異なって現れてくる。しかし、両者に共通することがある。それは、人間の“生きる”という欲望の強烈な意志だ。町中に死臭が漂う中、それでも人は生きようと必死にもがいていく。何があっても生き抜こうとする人々の姿に、ケラがこの作品に込めた思いを、しかと感じることが出来た。

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