2013年 12月

スパイラルホールの小空間で演じられる一人芝居。観客数約100人。役者は旬の女優、鈴木京香、ただ一人。上演台本と演出は三谷幸喜。美術には、アート・ディレクターの森本千絵が迎えられた。何とも贅沢な芝居空間だ。

会場内に入ると、センターに設けられたアクティング・エリアには、既に、舞台美術がセッティングされている。中央には大きなベッドが置かれており、微妙に異なる真紅のシーツやレースが折り重なって、ベッドの上に被されている。宣伝美術にあるような、イメージそのものである。装置ではなく、美術。質感や量感までもが手に取るように分かる近さで観客に見られることを想定した繊細な設えに、まるで、家主の部屋を覗き見でもするかのような、リアルさを感じていく。

その他、物語のキーとなる長いコードが繋がった黒電話や、絵画、ヒールなど、様々な小道具が散りばめられている。会話が進んでいくに従い、小道具たちは、それぞれが担った役割を効果的に果たしていく。

鈴木京香が登場する。最前列で観ていたということもあり、50~60cmという至近距離でお見受けするオーラある女優の美しさに、ついつい陶酔してしまう。物語云々よりも、まずは、このシチュエーション自体に酔い痴れるという、ナマの舞台ならではの醍醐味がタップリと堪能出来る。

女はどうやら、永年付き合っている男性からの電話を待っているようである。架かってくる電話。しかし、間違い電話。未だ電話交換士手がいた頃の時代で、会話の中に、交換手も乱入してきたりもする。そして、やっと待ち人からのコールが架かってくる。ベッドに置かれた電話を目掛けてダイブする行動に、思わず観客から笑みが零れていく。感情の表出を、台詞のみならず、動きによっても表現していく三谷演出の細やかな眼差しが面白い。

会話の内容から、女は男に、別れ話を切り出されているのだということが露見していく。女は必死に、男にしがみ付いていこうとしている。電話での会話だけを頼りに。本音を隠しつつも、逸る思いが迸る感情の起伏を、鈴木京香は、緩急自在に魅せていく。まるで、秘め事を覗き見ているかのような、楽しさを享受していく。ジャン・コクトーのたくらみに、まんまと嵌まっていく。分かっていながら、のめりこんでいく、この快感。

女は上質なガウンを身に纏っているのだが、物語が展開していくにつれて、ガウンを脱ぎ捨て、肩も露わな室内着で、舞台上を右往左往する。また、会話をしながら、部屋に置かれたヒールを履いてみたりもする。鈴木京香の色香を放つ艶やかな振る舞いに、完全ノックアウトされていく。しかし、これも全て計算づくなのだ。一人芝居のあらゆる側面から、エンタテイメント性を引き出していく、演出アイデアに感服する。

話はどうやら、元の鞘へと引き戻せない状況へと陥っていく。焦る女の心情を、鈴木京香は、燐とした態度を崩さないようにしながらも、決して望まない結末へと堕ちていく裏腹な流転に購う様を、パッションを込めて演じ抜いていく。散り際の花の美しさを、体現していく。

真近でみる、愛に敗れた女の涙は、胸に突き刺さる。取り返すことの出来ない、行き違ってしまった心と心。そして、この後、決して重なり合うことのない絶望感を俯瞰して筆致する意地悪さと遊び心に、ジャン・コクトーの才が際立っていく。

生死を問われるような状況とは彼岸に居る耽美なデカダンスを身に纏いながら、自ら身を持ち崩していく女の哀れを描いて絶品であった。三谷幸喜の戯曲に対する緻密なアプローチが、鈴木京香が持つ才覚を最大限に引き出すことが出来た可憐な秀作に仕上がった。

劇中では、幾つもの役柄を演じる市川しんぺーと福田転球、そして、その他数人の俳優陣が、開場中、ずっと劇場のセンターに設えられたステージ周辺に登場している。観客をウォッチし、時には誘導するなどして、劇場内に温かな空気感を生んでいく。しかし、今日の演目は、あの「マクベス」だよね、などと思いながら、開演を待つことになる。一瞬、串田和美が演出する、祝祭劇の様な雰囲気にも似ているなと感じていく。

開演に先立つお知らせなども、市川しんぺーと福田転球が舞台上に乗り、案内していくことになる。そうすると、観客席の其処此処に散らばって座っている魔女を演じる女優たちから、早く上演しろ、などと言った野次が飛び、二人は囃し立てられていく。勿論、観客はそれが役者であるとは重々承知な雰囲気ではあるのだが、劇場内を一体化させようという演出家の意図が染み出てくる。但し、センターにステージがあること自体で、既に、そのことは明白なのではあるのだが。

物語がスタートすると、時空は一気に作品世界へとワープするのだが、敢えて11世紀のスコットランドといった時代考証に拠ることのない衣装やヘアメイクにより、戯曲の中から普遍性を獲得していこうとするコンセプトも透けて見えてくる。長塚圭史は「マクベス」に生きる人間たちを、現代の人々にも親しみが持てる人物像として提示していこうとしている様である。しかし、手法としての新規さは、あまり感じられない。

登場人物たちをプロセニアムの中の押し込めることなく、皆がギリギリに生きているその真剣な様相から、可笑し味を引き出していくことに、演出の興味は注がれていく。悲劇も、一旦、俯瞰してみれば喜劇であるといった客観性が面白い。そこで、観客とのブリッジの役割を一番に担っていくのは、3人の魔女たち。出番がない場合は、観客席に座り、観る者と同じ視点で「マクベス」の行方を見守っていく。物語の顛末を知っているという点においても、魔女と観客は一心同体だ。

今の会社で例えて言うのならば、役員クラスの社長候補といった風なマクベスを造形する堤真一は、憎むことが出来ない悪漢を真摯に演じ、観客からある種の同情を獲得していく。マクベスがあまりにも人間的である故に、人ごとではないな、などとも感じていく。

常葉貴子のマクベス夫人は、夫を叱咤激励しながら盛り立てていく、弱腰の気持ちに拍車を掛ける女の気迫をストレートに表現していく。見目麗しい姿も魅力的だ。しかし、表現が一面的過ぎて、心の奥底にある真情が見え難いということも付け加えておきたい。

3人の魔女は、三田和代、平田敦子、江口のりこが演じていく。見た目の印象もてんでバラバラに、それぞれの個性が上手く活かされ、1個の人間として魔女を造形していく。この世の者ではない存在としてではなく、あくまで等身大の人間として描かれていくため、物語と観客との距離感も、スッと近付いていくことになる。異化効果ならぬ、同化効果とでも言えようか。

ダンカンを演じる中嶋しゅうが、王としてのクラス感をキッチリと押さえていくため、状況が転覆させられる事の顛末に大きな説得力を与えていく。バンクォーを演じるのは、風間杜夫。いぶし銀の存在感で、マクベスとの信頼を裏切られる男の憤りを、哀感を持って提示していく。幻影になって言葉を失ってからも、その憤懣やるせない思いを、無言の内に表出させていく。

トレンチコートを羽織った小松和重のマルカムは、2代目御曹司的な燐とした資質と弱さを併せ持つが、大事に直面し、メキメキと成長していく様子が心強い。白井晃のマクダフも、中間管理職的な存在感を醸し出し、自分で判断出来ないもどかしさ、運命に翻弄される哀しさを、明確に演じきる。シェイクスピアは百戦錬磨の横田栄司にはロスが託されるが、誰にも、お前誰だったっけと言われるような、この神出鬼没な役どころを、嬉々として演じており、観る者にも楽しい気分を与えてくれる。

斉藤直樹の純朴さ、玉置孝匡のモダンな佇まい、そして、狂言廻し的な役回りでもある、市川しんぺーと福田転球は、物語にふくよかな感情を添えていく。

軍勢に押し切られ、マクベスは息果てるのだが、その断末魔の叫びを聞き、何だか他人事ではないような気がさせられたのは、私だけであろうか。バーナムの森を、ある仕掛けによって劇場に再現したアイデアも面白いが、当初よりネタバレの感はある。また、オーラスには、きっと討ち取られたであろう、マクベスの首のデッカイ模型が、観客の手によって、会場中に廻されていくというアトラクションは、なかなか楽しい趣向だ。

「マクベス」を本棚の中から取り出しリアルでモダンに表現した本作は、等身大の人間が真剣に生きる様を描いた悲喜劇として、「マクベス」上演に新たな側面を付け加えることになったのではないかと思う。

自作ではない戯曲の演出を幾つか手掛けた後、遂に、三谷幸喜は、ニール・サイモンに挑むことになった。多分、標榜する作家の一人であったであろうニール・サイモンに真摯に取り組む三谷幸喜の意気に、衿を正して対峙することになる。

取り組むのは、1991年にブロードウェイで初演され、トニー賞4部門を受賞した「ロスト・イン・ヨンカーズ」。ニール・サイモンの自伝的要素が多いといわれている作品である。舞台は、1942年。ニューヨーク郊外にあるヨンカーズという地にある1軒の家で終始展開される、ある一家の物語である。

三谷は戯曲の中に生きる人々としっかりと向き合い、その人々が日々、何を考え、悩み、そして、乗り越えているのかという姿を優しさを持って描いていく。そして、人の生き様なんて自分では悲劇だと思ってはいても、人々を見つめる俯瞰した客観的視点を持ち得ることで、まるで喜劇にすら見えるのだというアプローチが独特だ。言動の其処此処に人間の可笑し味を滲み出させ、それを融合、あるいは衝突させることで起きるのが「物語」なのだということを痛感させられることになる。

物語は、明確に、台詞によって形作られていく。台詞を頼りに演者は物語を辿り、観客は交わされる言葉の応酬から、人間の喜怒哀楽を感受していくことになる。演劇の原点ともいうべき、奇を衒わぬ手法が駆使されていく。

一家の大黒柱である祖母、ミセス・カーニッツを草笛光子が演じている。子どもたちに恐れおののかれている存在で、圧倒的なパワーを打ち放っていく。厳格ではあるのだが、子どもたちを騙すことで社会の厳しさを教えるといった風の、少々、ねじ曲がったところもあるクセの強いお婆さんだ。その老婆を、草笛光子は一縷の迷いもなく堂々と演じ抜くが、何故、彼女をそうさせたのかという核心部分に物語が言及していくと、今まで、鬼の様に見えていたミセス・カーニッツから心に傷を負った弱い部分が透けて見え、人間が抱える心の重荷の奥深さを垣間見させてくれる。

次女ベラは中谷美紀が演じていく。少々、対人関係との接触に障害を持つ女性なのだが、ベラの優しい心根を伸びやかに発散させ、障害を一つの個性として捉える中谷美紀の好演がキラリと光る。異形の人としてではなく、役どころの中から魅力的な愛らしさをフューチャーさせていく。中谷美紀の個性と相まって、ベラは美しく輝いて見える。

次男ルイを演じる松岡昌宏が魅力的だ。ヤクザな世界に足を突っ込んだ輩であるが、思わず恋い慕ってしまうような、親分肌の気風の良さが心地良い。しかし、妙に心優しい側面をも滲み出させ、緩急自在にルイという男を多面的に演じていく。松岡昌宏の資質が、よりこのルイにユーモアのニュアンスを付け加え、面倒だけど憎めない男を見事に造形する。

長男エディを小林隆が、その息子ジェイとアーティーを浅利陽介と入江甚儀が、それぞれ演じていく。この3人が物語の語り部的な役割を担っていくのだが、個性を全開させる役どころが多い中において、一番観客との架け橋ともなるピュアな存在感で、逆に異彩を放つことになる。小林隆の優しい無心さ、浅利陽介の憤懣やるせない姿の可笑し味、入江甚儀の機転が利く小賢しい親和性などが上手くブレンドされ、劇世界に心地良い温度を与えていく。

長野里美が長女ガートを演じるが、登場は2幕の後半からになる。厳格な母の躾のせいで、話が昂じてくると、息を吸って話せなくなるという病を今でも引き摺っている役どころである。その、吸い込みながら台詞を放つ光景に思わず爆笑してしまう。長野里美は、そんなことをものともせず、ごくごく平静を保ちながら様々な状況を難なく擦り抜けていく。それが可笑しい。

皆がひと時を過ごすある期間を通じて、そこに集った皆が、何かしら過去の自分と折り合いをつけ、ささやかではあるが、今までとは違う自分を見つけ再出発するまでの軌跡を、細部に至るまで丁寧に三谷幸喜は描ききる。ニール・サイモンのテキストを得て、自らが筆致する世界をだぶらせていくような二重性が、観る者にはまた楽しい。ニール・サイモンへの愛とリスペクトに満ち溢れたじんわり心に響く感動作に仕上がった。

開場し、劇場の中に入ると、センターにステージが設けられており、観客席はそのステージの四方に据えられている。ステージの床面には、ラース・フォン・トリアー.の「ドッグウィル」のセットにも似た、幾筋かのラインが敷かれている。一人の男優がステージの上で、劇場内に入ってくる観客を眺めている。そのうちに、その男優以外の俳優陣も入れ替わり立ち換わりに登場し、滞留し、そして、ステージから去っていくという動きを示していく。不思議な雰囲気が劇場内に立ち上る。

圧倒された。グウの音も出ない程、衝撃を受けた。藤田貴大の才気迸る才能を目の当たりにして、正直愕然とした。こんな演劇、見たことない。

細い木で編まれた、まるで建物の骨組みのような立体物を、絶えず舞台上で俳優陣が休むことなく、様々な形態に組み直しながら色々なシチュエーションを創り出していく、その目くるめくような展開に目を見張る。観客席がステージの四方に広がっているため、どの席で観るかによって、全く違う風景が現出しているはずだ。それも、きっちりとした計算の上に成り立っており、物語は粛々と運んでいくかに見える。舞台上では、幾つものシーンが同時に存在することにもなるが、それぞれが見事に呼応し、繊細に響き合う。

綿密に描き込まれた設計図を、いとも飄々といった体で展開させていく軽業師の様な職人的側面に気を取られてしまうかにも思えるが、この装置はあくまでも、物語を表現する背景として存在する事に徹しており、外連味を主張し過ぎることは決してない。そして、まるでおもちゃを操るかのような遊戯性も併せ持ち、舞台で表現されていく子どもたちの物語と響き合っていく。

特定されないある地方で幼少期を過ごした姉妹が中心となり、物語は進行していく。タイトルにもある「モモ」は、二人が飼っている猫の名前。友達の家で生まれた猫を姉妹が譲り受けるエピソードや、貰い手のないその他の猫を川に流し、あるいは帰ってこない猫を心配したり、姉妹で大喧嘩が勃発したりもする。友人の家でトランプをしながら会話を楽しみながらも、投信自殺をする友人のシーンが挟み込まれるなど、善悪をジャッジする事のない幼い子どもたちの危うげな感性に寄り添いながら、日常に起こる出来事を、繊細に描いていく。

交わされる会話は、ストレートな日常会話だ。そこには、暗喩や隠喩、謳い上げるような独白は一切ない。子どもたちによる、ごくごく平易な言葉が紡がれていくのだが、幼さゆえの毒を内包した悪意のない物言いに、今では、もう、忘れかけている昔日の日々をノスタルジックに思い起こすことにもなる。相手を傷付ける事に対して自覚がなく、躊躇せず思ったことを口にするピュアさに胸がヒリリとする。

断片的に様々なシーンがコラージュされていくのだが、時系列もてんでバラバラに、時には、全く同じシーンがリフレインすることもある。輪環する脳内の記憶と、自覚する意識とが綯い交ぜになるこの感覚は、生理的に何故かしっくりと納まり、登場人物たちへの親和性が高まる効果を高めていく。決して抜け切ることの出来ない心の内に降り積もった沁みが、順不同に思い起こされていくような感覚だ。

冒頭のシーンが、大人になった姉が帰郷した際の視点で語られていたのだということは、物語の終盤になって分かってくるのだが、そこに大人の視点が持ち込まれることで、これまでリアルタイムで見てきた物語が、一気に過去の懐かしい出来事へと収焉していく切なさに胸が締め付けられる思いがする。

変に子どもを演じようというあざとさの彼方に位置する俳優陣の居住まいが、心の夾雑物を一切取り除いた清廉さを発し、観客の心とストレートにシンクロする。藤田貴大が意図する作品世界を漂泊するかのような佇まいで、沸点を敢えて高くしない熱演が、心を捉えて離さない。

強烈なビジュアル・インパクトに引っ張られ過ぎることなく、人間の心に沈殿した昔日の想いを丁寧に汲み出すことで、今の自分の襟を凛と正さざるを得ないような心の何処かに置き忘れていた真摯さと対峙することになる。従来の演劇という枠に納まりきらない藤田貴大の才能に満ち溢れた、観る者の誰もが思い当たる感情を揺さぶられる傑作だと思う。

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