2009年 5月

感動した。圧倒的な迫力に打ちのめされた。ヴェデキントが19世紀末に書いた戯曲が、ミュージカルというカタチでここまで活き活きと再生されるとは予想だにしていなかった。一昨年、トニー賞を受賞した光景を見て絶対に観たいと思い、ニューヨークにまで行こうかと思ったくらいだったのだ。ほんの1コーラスのみの紹介だったのだが、その弾け飛ぶようなパワフルなパッションに釘付けになってしまったのだ。授賞式では、映画「アマデウス」でモーツァルト役だったトム・ハルスが、巨漢のプロデューサーとして壇上に上がったことも強烈に印象的だったのだが、その時、この作品が日本で劇団四季が上演するとは夢にも思っていなかった。

思春期の男女が、世間の抑圧の中、もがき苦しみながらも活路を見出していくというストーリーは、これまで誰もが経験してきた思いであり、そこかしこに、皆が共感する普遍的な感情が散りばめられている。人は人を愛し、信じ合って生きていくのだということ。しかし、モチーフとなる出来事は、この現代でさえも決して古びることのない、いやタブー視されていることは時代を経ても案外変わっていないということなのだろうか、虐待、退学、自殺、同性愛、妊娠、矯正施設送りなど、かなりショッキングな出来事が若者たちそれぞれに襲い掛かってくる。

ブロードウェイ版そのままに修正も加えられていないのであろうが、日常生活の中に潜む衝撃的な出来事は、かなりリアルにストレートに描かれている。万人向けのエンタテイメント作品をロングランするイメージのあった劇団四季が、この作品をチョイスしたことも驚きであった。映画だったらPG12は確実なのではないか。しかし、この作品、劇団四季が上演してくれたことで、作品のオリジナルなスピリットが余すところなく表現されることになったのだと思う。

アンサンブルの演目なので、誰かが妙に異質に浮いていると作品全体のバランスが悪くなるのだが、さすが徹底した訓練の賜物なのであろう。出演者が作品の意図を忠実に掴んでいて変な自己表現などをせず、自分が演じる役というものを正確に観客に伝えていく技術に関してはかなり突出している。そういう意味では、上手い演技というものとは質の違うものかもしれない。しかし、歌も台詞もハッキリと明瞭に発音されるため、全ての声が届いてくる。でもこれ、基本中の基本ですよね。これが、スターを主軸としたプロデュース公演などであると、まずアンサンブルのバランスが崩れることになり、しかも変に自己主張する輩も出てくるので、見ていられないような状態になることもしばしばである。劇団四季が上演することで、オリジナルの質が保たれたのだと思う。

装置、照明、衣装、音響、振付もパーフェクトだ。ブロードウェイ版の写真を見ると、装置などは全く同じ様ですね。この装飾がかなり考え抜かれた結果なのだということが、物語が展開していくと共に分かってくる。壁に架かっている額装されたものがあるシーンで照明にフューチャーされたり、床の一部分が吊り下げられるとブランコ状態のようになり恋人たちの心情を表したり、壁に仕込まれたネオン管が激しく明滅したりなど、その時々の役柄の思いと全てが完璧にクロスオーバーしており、破綻がない。衣装デザインもオリジナルと一緒のようですね。技術陣の才能もそのままスライドさせて再現したところが素晴らしい。ほんと、変な主張がないところが潔くて気持ちいい。考え抜かれ、削ぎの削いだ結果なのでしょうからね。そこに何か付加する必要などありませんよね。

観終わった直後にもう1回観たいと思う演目は久しぶりだ。この演目、全国の中学生とかに観せるといいと思った。メタ認知じゃないが、自分の思いを相対化することで、自分の在り方とか課題に気付ける契機になるのではないかと思う。しかし、少々、強烈過ぎる内容だと思う親もいるのかな? そんな親もこの作品を観て、若かりし頃の思いを甦らせればいいのだ。気持ちはいつもニュートラルであるべきですもんね。

会場が暗転すると舞台上に照明が入り、舞台手前に設えられたディスプレイ・ウィンドウの向こう側に百貨店の大階段が透けて見える。買い物客が行き来しているのが見える。しばらくすると百貨店閉店のアナウンスが流れ、その後百貨店は電気が消され暗くなる。この間約5分。観客は、日常の平穏としたテンションに誘われている。すると、ニナ・ハーゲンの歌が大音量で流れ、宝塚風の男装をした男たちが5人、大階段の上からゆっくりと下りてくる。ニナ・ハーゲンは初演時と変わらないんだあと思いながらも、日常からいきなり非日常へと飛躍したそのインパクトある光景に、しばし見入ってしまう。

後にもこの大階段を使っての群舞シーンは出てくるのだが、蜷川演出は、このシーンの背景に砲弾や機関銃の音を重ねていく。登場人物たちがそれぞれに生きてきたその闘いの残滓とも見て取れるが、蜷川と清水が生きた60年代の闘争の時代もオーバーラップしてくる。

「自分たちがやってきたことの検証をしよう」と言う思いがあったと蜷川は語っている。東北の百貨店にかつて存在していた歌劇団を再び甦らせるというストーリーの奥底には、かつて劇団を解散した後、商業演劇の世界へとその場を移した蜷川と座付き作家の清水との、それまでの軌跡やその時の自分たちの立ち位置を確認する意味合いが含まれていた。一種のメタ認知とでも言うべき作用が、そこには施されていたのだ。しかし今回、そんな送り手たちの郷愁に浸ることなく、戯曲が持つ普遍性を炙り出すことに成功したのは、ひとえに役者たちの卓越した技量が貢献していることに相違あるまい。かつてのふたりの思いを軽く凌駕するようなパッションが、舞台から客席に直球で叩き突けられる。

三田和代が絶品である。かつての娘役のマドンナは、30年前の空襲がきっかけで歌劇団が消滅して以来、自分の時間を止めてしまっている女性だ。自閉症とも思えるような、自分の世界の殻の中に閉じこもるその狂気の姿の中に、ふと今のこの現実を誰よりも冷静に見据えてもいるかのような感性が、それこそちょっとした目線や囁きに込められて、その匙加減の絶妙さに舌を巻く。本当なのか、ただ単にフリをしているだけなのかの境界線上を行き来しているのだ。後世に残る名演技とはこういうものを言うのかもしれない。この演技だけを見るだけでもこの作品を観る価値はある。

凄いのは三田和代だけではない。かつての男装の相手役を演じるは鳳蘭。もう登場するだけで、その存在感に圧倒されるばかりだ。他を寄せ付けない圧倒的な華やかさは、一朝一夕で身に付けられるものではない。持って産まれた資質に近い性質のものであると思う。声の張り具合、身のこなし、どの部分を取っても、それ以外は有り得ないと思わせるだけの絶対的なものがある。また、三田和代との相乗効果もあったに違いない。このふたりの間には一種の化学反応が起こり、既に、今、この芝居を見ていながらもその演じられた一瞬後からは全てが伝説になっていくかのような、超絶した域の高みへと上り詰めているのだ。

ウエンツ瑛士はやはり旬のスターの輝きを放っていて、他のどの俳優とも異質の存在感を示していた。舞台と観客の思いをつなぐブリッジのような役割を果たしており、ナチュラルな存在感が、観客の共感を集めていく。鞠谷友子の絶叫の歌いっ振りにもグッと惹かれるものがある。中川安奈は役柄の荷の重さゆえか硬さが残り、真琴つばさは、宝塚スタイルとも言えるような一種のカタに囚われていてその域から脱しない。男優陣はアンサンブルに徹し、それぞれの役どころを、ポイントを押さえて演じていた。

人生を折り返し過去と折り合いをつけた人々は、そこから何を頼りに生きていくべきなのか、と言うテーゼをストレートに突き付けられた。そこで例え死という選択肢を選び華を散らしたとしても、その遺伝子は時を超え連綿と続き、カタチを変えて生き残っていくのだ。自分が何を「謳って」生きていくべきなのかを、真摯に自分に問いかけている自分がそこにはいた。

カーテンコールも華やかだ。お辞儀ひとつ取っても、三田和代と鳳蘭は抜きん出て洗練されている、などと思っていたら、清志郎の「デイドリーム・ビリーバー」が流れるんですよ。舞台の結末ともリンクはするのだが、禁じ手じゃないのこういうの!と思いながらも、んー、ジーンときちゃいました。

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