ロビーにたむろしていた役者たちが会場内に入り、通路のそこかしこで、滑稽な仕草をするなど動き回っている。観客の気持ちを和ませようとする意図なのであろうが、まず、明らかに日本人が洋装をしているというリアルと、しかも、その役者がヴェ二スの道化を演じているというフィクションを、舞台上ではなく、観客と同じ位置である観客席で見てしまうことで、ファンタジーの嘘が露呈され、まず、のっけから興ざめしてしまった。
ステージに明かりが入る。舞台上下に建物と思しき壁面が設えてある、ややモダンなテイストで、ペラっと壁の一部分がめくれているデザインが数箇所施されているが、そのデザインの意図が良く分からない。剥がれているというリアルさがある訳ではなく、完全にデザインの一部なのだ。なぜ、そうしたのか? しかも、舞台奥は、ホリゾント! いやあ、友人のダンス公演以来、久々にホリゾントを終始活用する芝居を観ました。舞台上で展開される物語の時と場所に合わせたのであろう、夜景や夕景、屋敷内部や広場といった光景が、オーソドックスに、照明によって表現されていく。学芸会的な雰囲気が醸しだされていく。
衣装は、女性はドレスが基本だが、男性はスーツをまとっている。ボタンが4つ5つ付いている丈が長めなジャケットに、ゆったりとしたパンツの組み合わせは、日本人の感覚からすると、ちょっとバブル時に流行ったような黒服のようなフォルムを彷彿とさせられ、女性の衣装とのバランスも考えると、全体として何にポイントを置いた衣装なのか、そのコンセプトが良く分からない。
作品としては、特に何ものも突出しない、アンサンブルがバランス良く成立した出来であったと思う。しかし、日本人の役の作り方と、イギリス人のそれとは方法論が違うということもあり、演出の意図と役者の質が相性良く馴染んでいたかというと、少し疑問が残った。
私見ではあるが、語る台詞の裏付けまでを含め、緻密に感情を積み重ねて役を作り上げていくイギリス式に対し、日本人は、型から入り内面を作っていくという歌舞伎的な方法を誰もがとっている訳ではないであろうが、もっと感覚的に役柄を掴んでその人物になりきる中で、感情を放出しコントロールしていく傾向であるような気がする。グレゴリー・ドーランの演出は、役柄の心情や感情、また、その時代の各層、各人種間のポジションを緻密に救い出し表現することに注力しているが、その分析の領域に目を向けさせられる役者たちからは、暴発する激しいパッションが消去され、「ユダヤ人!」と叫ぶ際に誰もが必ず唾を吐くというような分析的な予定調和的演出により、ますます、台詞の中へと埋没していってしまうようなのだ。
その中でも市村正親は、演出の意図を十分汲んだ上で、シャイロックの感情を重ねていくというアプローチにて、一際、輝いていた。グレゴリー・ドーランの演出意図は、ここに結実していた。しかし、どの役者にもその効果が波及していたかというと、定かではない。
ユダヤ人シャイロックに対する差別的な扱いが生み出す悲劇をフューチャーしたことにより、今、世界が抱える民族間の紛争や差別を彷彿とさせられていく。外連味ある演出になど頼らず、役者の演技を集積していくことで、確実に作品の意図を伝えていというメッセージの抽出の仕方は見事である。
舞台が開けて間もない時期の鑑賞であったので、こなれていくと、良くなっていくような気もする。しかし、日英・才能のコラボの到着点は、この時点では確実には見えてこなかった。
最近のコメント