2007年 8月

ロビーにたむろしていた役者たちが会場内に入り、通路のそこかしこで、滑稽な仕草をするなど動き回っている。観客の気持ちを和ませようとする意図なのであろうが、まず、明らかに日本人が洋装をしているというリアルと、しかも、その役者がヴェ二スの道化を演じているというフィクションを、舞台上ではなく、観客と同じ位置である観客席で見てしまうことで、ファンタジーの嘘が露呈され、まず、のっけから興ざめしてしまった。

ステージに明かりが入る。舞台上下に建物と思しき壁面が設えてある、ややモダンなテイストで、ペラっと壁の一部分がめくれているデザインが数箇所施されているが、そのデザインの意図が良く分からない。剥がれているというリアルさがある訳ではなく、完全にデザインの一部なのだ。なぜ、そうしたのか? しかも、舞台奥は、ホリゾント! いやあ、友人のダンス公演以来、久々にホリゾントを終始活用する芝居を観ました。舞台上で展開される物語の時と場所に合わせたのであろう、夜景や夕景、屋敷内部や広場といった光景が、オーソドックスに、照明によって表現されていく。学芸会的な雰囲気が醸しだされていく。

衣装は、女性はドレスが基本だが、男性はスーツをまとっている。ボタンが4つ5つ付いている丈が長めなジャケットに、ゆったりとしたパンツの組み合わせは、日本人の感覚からすると、ちょっとバブル時に流行ったような黒服のようなフォルムを彷彿とさせられ、女性の衣装とのバランスも考えると、全体として何にポイントを置いた衣装なのか、そのコンセプトが良く分からない。

作品としては、特に何ものも突出しない、アンサンブルがバランス良く成立した出来であったと思う。しかし、日本人の役の作り方と、イギリス人のそれとは方法論が違うということもあり、演出の意図と役者の質が相性良く馴染んでいたかというと、少し疑問が残った。

私見ではあるが、語る台詞の裏付けまでを含め、緻密に感情を積み重ねて役を作り上げていくイギリス式に対し、日本人は、型から入り内面を作っていくという歌舞伎的な方法を誰もがとっている訳ではないであろうが、もっと感覚的に役柄を掴んでその人物になりきる中で、感情を放出しコントロールしていく傾向であるような気がする。グレゴリー・ドーランの演出は、役柄の心情や感情、また、その時代の各層、各人種間のポジションを緻密に救い出し表現することに注力しているが、その分析の領域に目を向けさせられる役者たちからは、暴発する激しいパッションが消去され、「ユダヤ人!」と叫ぶ際に誰もが必ず唾を吐くというような分析的な予定調和的演出により、ますます、台詞の中へと埋没していってしまうようなのだ。

その中でも市村正親は、演出の意図を十分汲んだ上で、シャイロックの感情を重ねていくというアプローチにて、一際、輝いていた。グレゴリー・ドーランの演出意図は、ここに結実していた。しかし、どの役者にもその効果が波及していたかというと、定かではない。

ユダヤ人シャイロックに対する差別的な扱いが生み出す悲劇をフューチャーしたことにより、今、世界が抱える民族間の紛争や差別を彷彿とさせられていく。外連味ある演出になど頼らず、役者の演技を集積していくことで、確実に作品の意図を伝えていというメッセージの抽出の仕方は見事である。

舞台が開けて間もない時期の鑑賞であったので、こなれていくと、良くなっていくような気もする。しかし、日英・才能のコラボの到着点は、この時点では確実には見えてこなかった。

どういう経緯で、ナイマンが劇曲を書き下ろすことになったか詳細は知らぬが、このこと自体が、結構、画期的なことであると思う。しかも、原作は、ガルシア・マルケスであり、蜷川演出である。この布陣だけで、もう、何かしら匂い立つような危険な香りを感じてしまったのは私だけであろうか。

冒頭、ナイマンの曲にのり、舞台の上空を、バスタブやエメラルドや魚がゆっくりと飛び交う幻想的なシーンで舞台は幕を開ける。少し「にごり江」の演出を彷彿とさせられるが、宙を浮遊する行き場のない魂と言うよりは、エミール・クリストリッツアの「アリゾナ・ドリーム」に出てくる空中を泳ぐ魚のように、まるで皆が思い描く集団幻想のような魔術めいた酩酊さが醸し出される。現実なのか、夢なのかを判然とさせない舞台なのだということが、はっきりと打ち出される。

ナイマンの曲のリズムと呼応しながら、舞台の彼方奥から民衆の一団がゆっくりと現れて来てくる。いよいよ物語の始まりだ。一団が広場に着くと、そこには、翼の生えた男が倒れている。そのウリセスという男が、かつて愛した離れ離れになっているエレンディラという女のことを語り始める。そのウリセスが当時の物語を遡り語っていくのだが、後に3幕で作家が現れ、その物語を引き継ぐかのように、離れたふたりのその後を検証しながら、ある事件の真相を探求し始めていく。なので、語られる話は非常に過酷ではあるのだが、主人公たちの意識の向かう先は明るい未来であることが少しずつ実証されていくことで、作品全体の空気感がさらに自由に軽がると飛翔していくといった具合だ。この物語を書き記した作家が、その本質のスピリットを掬い取り、希望を抱くファンタジーへと転化させていくのだ。

家を全焼させてしまったエレンディラは、祖母に娼婦として働かされ損害を償うよう縛られている。そんな時に、ウリセスという運命の人に出会い共に逃げるが捕まり、更なる監禁状態下に置かれることになる。そして、ふたりは祖母殺しを計画することになる。

むせ返るような南米の熱気や臭気が意外に上品なテイストで描かれる。美術、照明などは美しく過剰さに溢れており、また、火、水、風など自然と真っ向から取り込み刺激的であるが、民衆たちの傍若無人な感性が小さな範囲に納まっていて、猥雑さがあまり立ち上ってこない。但し、キャラバンで移動する一団の無言のだらけ具合や、オレンジ農場で木々の下に座りこむ農民の様子など細かなところに猛暑の感じが見てとれ、温度を感じさせてくれた。民衆がもっと突き抜けた破天荒さを持ち得ると、作品がグッと厚みを増したに違いない。

瑳川哲朗の祖母に迫力があった。肥満化した肉体の着ぐるみも我が物にしており、老賢人を演じて存在感があるのは重々承知ではあったが、巨大な老婆を演じて、色香と小賢しさと優しさと無慈悲さが同居する多面的な老婆の側面を作り上げ見事である。美波が新鮮な存在感で、この伝承の物語を大きく牽引していた。中川晃教は彼のピュアな部分が拡大され、それ故に悲劇に巻き込まれる哀しみが拡大され効果的であった。

ナイマンのあの同じ旋律を繰り返しながら頂点へと立ち上るメロディは、この翼を持った男の物語を語る上で、重要なファクターであった。運命にあがなうパワーを作品全体に充填してくれるようなのだ。伝承の域に留まらず、この物語が伝説にまで成り得たのは、音楽によるところが非常に大きいであろう。世界の才能のバトルに、4時間もの時間が、あっという間に経ってしまった。至福の気持ち良さが、余韻として残った。

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