久々の鴻上芝居である。もしかしたら、前回の「恋愛戯曲」以来かもしれない。永作博美と筒井道隆が主演だったバージョンだ。鴻上作品は、笑い笑わせる中に生まれるPOPな軽さの底に沈殿する、その表向きとは裏腹の悲しさとか希望とかを織り交ぜた現代人の孤独を浮き彫りにして秀逸であったこともあるが、今作には、深さというよりも、薄さを感じてしまったのは私だけであろうか。非常に表層的で、台詞が心の深いところに落ちていかないのだ。
お勉強の出来るヤツがグルグルとアタマの中で、恋愛というものを想像しているかのような、閉鎖的な空間が出来上がっているのだ。オープニング近く、階段の上にストップモーションで佇む牧瀬里穂を見上げる渡部建。そこに、ファっとシャボン玉が噴出すシーンがあるのだが、これなどは、まさしく、男の「妄想」ではないか。前回は、もっと開放的であった気がするのだが、この6年の間に、作者の何かが閉じていってしまったのであろうか。
戯曲は、脚本家とAD、その脚本家が描く脚本家の話、で、その物語の中の脚本家が描く脚本家の物語、という3重構造になっているのだが、この重層的な構造にも関わらず、物語は並列に並べられ、決して交錯したり折り重なったりすることはない。
ポンポンと変わるシーンの合間の暗転が明ける時の効果音が、PCが立ち上がるときに鳴る電子音なのだが、このステージも、たまたまPCでネットサーフィンする度にそれぞれのシーンが検索されてしまったかのような奇妙な偶然性しか感じることが出来ず、幾重にも千路に乱れる脚本家の女心は、整然とマッピングされ横一列に提示されているかのような表現の仕方なのだ。
暗転になると壁であったところにロゴタイプが浮き上がり、1phase、2phase、3phaseとあるのだが、こんな補足説明はいるのであろうか? また、白を基調とした美術は、日常的リアルさを排除した空間の中で繰り広げられる物語であることを宣言しているかのようなのだが、何せ白なので汚れが目立ち、興ざめである。
牧瀬里穂が溌剌としていて美しさを振り撒き、こういう軽い感じのステージでは、しかと輝いて見える。また、丸山啓太の衣装が印象的である。渡部建は好感の持てる役者としての資質を感じるが、全般を通して腰が据わっていない。ステージ上でもフワフワしていて動きに戸惑いが滲み出る。斉藤慶太は学芸会のような表層的な芝居で、3重構造それぞれのシーンの役どころの違いが良く分からない。大和田美帆の演技はクッキリと明快で気持ちが伝わり可能性を感じた。安原義人は、その声も聞かせるがコミカルな役回りを軽やかに演じていた。
実直でバカバカしいまでに、突き詰めたり追い込まれたり突き付けられたりする「熱波」のようなものを観たいがために芝居を観に劇場に通うのだが、このサラッとした芝居は、LIVEで観ているにも関わらず、PCで映画を観ているかのような印象なのだ。もしかしたらこの戯曲は、舞台という表現でない方が活きる素材なのではないだろうか。TVとか映像の方が、作者の意図がより良く伝えられるのかもしれない。いや、そんな表現を通して、現代の表層的なコミュニケーションは如何にという問題を投げ掛けていたのだとするならば、一本取られたと言うべきであろうが…。
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