2016年 3月

本作は、近松門左衛門の「心中天網島」を基にしたデヴィット・ルヴォーのストーリー・アイデアを、谷賢一が戯曲化した新作である。デヴィット・ルヴォーが既存の戯曲以外を演出する作品を観劇するのは初めてである。どのような展開になるのか、固唾をのんで見守ることになる。

プロセニアムに下された幕に映像が投影される。リーマンショックと思われる経済が破綻する社会的デザスターの光景が、ドキュメンタリー風な映像とナレーションで活写されていく。意表を突くオープニングだ。幕が上がると、そこは現代の日本の色街の路地へと場は転じる。女を求めて迷い込む男達が、声掛けする呼び込みに誘われて店の中に入っていくシーンが描かれ、その中の1軒の店で働く女ハルが、何やらお店の番頭とギャラの取り分の事で揉めている場面へと繋がっていく。

ハルを演じるのは深津絵里。冒頭の映像で示された様に、世の経済破綻の余波を受けたためか、多額の借金を背負った若い盛りを過ぎた売春婦という設定だ。上品な向きには刺激的な、かなり猥雑な会話がストレートに交わされていく。妻子ある客と恋に落ちたハルは、その客の兄に乗り込まれ離縁を迫られる。手切れ金を手渡され、ハルは割り切ろうとして金を受け取ることになる。クルクルと変転する状況に巻き込まれていきながらも、自己を失わないよう生きていこうとするハルを、毅然と演じる深津絵里が男前だ。

行く先々の光明を見失ったハルは、「蜆川」に掛かる橋へと赴く。かつて遊女の涙で溢れたという「蜆川」で、ハルは「心中天網島」に登場する遊女小春と出会うことになる。演じるは中村七之助。現代と江戸時代との時空がスパークし、同空間に存在するハルと小春の光景に、何とも奇妙な印象を受けることになる。その要因は、中村七之助の歌舞伎の所作が、現代劇の中において異質な雰囲気を纏っているからなのかもしれない。

しかし、現代劇に歌舞伎の演者を融合させることで、江戸時代のいにしえ感が醸し出されるという側面も、また、ある。日本人ではない、デヴィット・ルヴォーであるからこそ、挑戦することが出来た仕掛けであると思う。このサプライズ感は、終始継続していくことになる。この後、物語は江戸時代にも移行し、小春といい仲になった男とその妻との顛末が語られていくことになる。

その男の妻おさんを演じるのは伊藤歩。成就することのない不倫から身を引くが、男との愛を全うするため小春が死を覚悟しているのをおさんは知ることになる。おさんは自分の衣類を質に入れ金を作り、夫に小春を身請けして欲しいと懇願する。そこでは「女の義理」が描かれ胸に迫るものがある。結局は、おさんの父に阻まれ金策は断たれ、小春と男は心中する道を選ぶことになる。現代と江戸時代とが融合、離脱を繰り返しながら、男と女が選択する道の様々な在り様を露見させていく。

終盤、死せず、これからも生きていこうと心に決めたハルの目の前に、かつて自殺した夫の姿が現れる。演じるは、早替りで登場した中村七之助。物語は時代のみならず、黄泉の国との時空をも超越し、ただ、どの世に於いても生きていくことの大事さを強く観る者に叩き付けてくる。

深津絵里の美しい存在感が作品に輝きを与え、中村七之助の艶やかな遊女姿が色香と哀切のアクセントを刻印する。伊藤歩の真摯さ、中島しゅうの変幻自在な洒脱さ、音尾琢真の一途な直情さ、中島歩のピュアな佇まいなど、俳優陣の様々な個性が見事にアンサンブルとして成立している。

現代劇と古典との融合を見事に成し得たのは、デヴィット・ルヴォーだからに相違ない。醜の状態から美の心を抽出し、明日もまた生きていくのだという想いへと繋げていく人間賛歌として秀逸である。今まで観たことのない、奇妙だが胸に迫る愛の物語として記憶に残る作品となった。

ライ王とは、12世紀末にカンボジアを統治した王、ジャヤ・ヴァルマン七世のこと。ライ病を患ったのでライ王と称されている。ちなみに戯曲のタイトルのライは、漢字の癩と記されている。1965年にカンボジアのアンコール・トムを訪れた三島由紀夫が、そこでライ王の彫像を見ることでインスパイアされ、同戯曲は誕生した。

三島由紀夫はジャヤ・ヴァルマン七世の資質を「絶対にしか惹かれぬ不幸な心性を持っていた」と設定したという。ライ王と冠されているが、「絶対病」の芝居だと三島由紀夫は断じている。同国の王のしきたりである王宮内の塔の上に祀られた目に見えぬ蛇神=ナーガの娘と交わす契り、そして、憑りつかれたようにその建設に執心する寺院バイヨン、この2つだけを王は必要としていた。人間の性向をこのようにあらかじめ規定してしまう創作者の思考回路と、ライ王の閉じた心象とがシンクロしていていく様が、本作の醍醐味である気がする。

ステージにカンボジアのパフォーマーたちが現われることで、物語は動き始める。皆は神への祈りを捧げ、厳粛な雰囲気が劇場内を覆っていく。三島由紀夫は初演時、上演劇場であった帝国劇場の劇場機構を駆使することを想定していたと記述しているが、宮本亜門はスペクタクルな表現を抑制させ、ジャヤ・ヴァルマン七世の精神を戯曲の中から繊細に掘り起こすことに注視していく。初演は未見であるが、戯曲に対する演出アプローチ方法は、全く異なっているのだと思う。

「絶対性」を求道する無垢な王を、イメージがあまり固定していない旬な俳優・鈴木亮平が演じることでピュアな心情が増幅され、観客に王の想いを確実にリーチする効果を発していく。主人公は自己の信念を迷いなく貫くが、周りの人々は絶対権力を持つ王に逆らうことは出来ず、右往左往することになる。しかし、そんなことを王は露とも知らないという落差に、行く先々の不穏さが滲み出る。

キャスティング的に、ピュアな王の周りを囲む人々が狡猾であればある程、両者の個性がより引き立ったと思うが、王にしかと対峙していたのは王太后を演じた鳳蘭の存在であった。国の維持を考え政治的な観点から王を暗殺しようと画策する反面、子を愛でる心情を捨て去ることが出来ないアンビバレンツな思いがグルグルと逡巡する様が心に突き刺さる。

清廉なイメージの第二王妃を倉科カナが演じるが、王を信じ慕う心の奥底に蠢く女の真情が透けて見えてくると、作品に内包されている哀感が更に感じられたのではないかと思う。第一王妃を演じるのは中村中。本能のままに生きる嫉妬深くプライドの高い女性が秘める王への思慕がもっと感じられると、王から愛されるには「絶対病」の一翼であるナーガになればいいのだという思いに転じる顛末に、説得力が生まれたのではないか。悪の権化である宰相を神保悟志が演じるが、どう見てもいい人にしか感じられないのは私だけであろうか。王太后とも密通し、陰で国を操ろうと画策する邪心が薄めなのだ。王太后を完全に牛耳る圧が欲しかった。

作品は叶わぬ思いを抱きつつ崩御する王を冷静に活写していく。現実には朽ちていっている筈の肉体の様相がさほど変わって見えないことが、戯曲の言霊をストレートに受け止める効果を発することになる。鈴木亮平の見事な肉体が、逆に憐れを醸し出す。宮本亜門は、表裏が裏腹な三島由紀夫の筆致を見事に可視化してみせていく。

深刻になり過ぎないエンタテイメントとして楽しめる作品に仕上がっていたと思う。欲を言えば、贖うことの出来ないドロドロとした業に縛られた人間の憐れを感じられるような、俳優陣の重層的な感情の噴出をもっと体感したかったと思う。

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