2009年 8月

面白かった。新作なので物語がどう展開していくのかは、当然観るまで分からないのだが、最後の最後まで飽きさせることなく観客の興味を喚起させていく。物語が中心にいるところがいい。旬の実力派俳優が居並んでいるのだが、その俳優たちの技量に依存することなく、前川知大独自の世界観が繰り広げられていくのだ。

ごく当たり前の日常と、その日常からずれたアナザワールドが交錯するという少しSFチックな設定だが、スティーブン・キングの「ミスト」にも似て現実世界にシッカリと軸が置かれているため、破天荒な展開にはなっていかない。この大きく現実離れしない感覚は前川知大の真骨頂だが、この世代が負っているある種の現実主義とでも言おうか、厳しい社会環境の中で培った生きることへのベクトルが、決して非現実のファンタジーへと向かうことはない。しかし私たちは、そのリアルさに共感できるのだ。また、そのSF的な設定は観客を物語に入り込み易くするためにも一役買っていると思う。

ウイルスが蔓延し患者が増え続けているという設定も、妙にリアルだ。父亡き後、弟がコンビニを経営する実家に舞い戻ってきた佐々木蔵之助演じる男は、帰途の途中、かつて亡くなっていたはずの市川亀治郎演じる友人に出会い、「世界の更新」が近いと告げられるとことから物語は始まる。舞台となるコンビニはその通過点となる場所であり、かつては父、そして今は弟が、門番=センチネルの役割を負っていることが分かってくる。タイトルの「狭き門より入れ」にもあるように、キリスト教の世界観も交錯してくる。仏教ではなく、キリスト教なのだ。根拠を聖書に求めるところも特徴のひとつである。

役者陣がいい。ピンでもいける方々が揃うが、誰が突出することなく、アンサンブルとしてのバランスがとてもいいのだ。このカンパニーの意思を皆が共有しているのだということが、ひしひしと伝わってくる。目指すべき方向性にブレがないのだ。これは、このカンパニーを主宰する佐々木蔵之助の求心力によるところが大きいのだと思う。

座長として軸になる佐々木蔵之助は軽妙だが力強く、市川亀治郎は華連味を廃しナチュラルなストレートプレイに徹している。中尾明慶はまさにルーキーな立ち位置で若さが弾けるが、感情のつながりが紡めない局面もある。有川マコトは朴訥とした市井の人を自然体で表現し、手塚まことはその風貌を活かしたアナザワールドの住民を粛々として演じている。ベテラン浅野和之の飄々とした味わい深さは独特なものである。

照明と映像を担当する原田保のワークが素晴らしい。まず照明のバリエーション。コンビニが舞台なので蛍光灯の明りがポイントになってくるのだが、その煌々とした何種類かの蛍光灯色がくっきりと差別化されているのには驚いた。そのポイントを活かすように情景の明りが自然な感じで作られているのだ。また、次元が度々交錯するのが本舞台の面白さなのだが、映像を駆使してその時空を凌駕する様が見事に表現されているのだ。ある瞬間、舞台全体に被さっていた映像が、設えられたセットのエッジがずれるように捩れていくのだ。同時に中央に掲げられた時計の時刻も変わっていく。このクリエイティブを得て、本作は一級品に成り得たと思う。

金に価値観を置かない現代において、本作は死と真摯に立ち向かうことで、生きる意味の本質を炙り出すことを可能にさせた秀作であると思う。生を全うするとは、一体どういう生き方をすることなのであろうかというメッセージが、胸に痛い。前川知大が本来持っている資質と、氏が描きたいテーマが見事に合致していることが成功の要因なのだろう。観客を捻じ伏せようとするような大仰なコンセプトなどなく、ジワジワと気持ちのヒダに入り込むようなアメーバのような一見ナチュラルを装ったスタイルは、何だかクセになりそうだ。

野田秀樹が同劇場に芸術監督として就任したのは、かつての盟友・高萩宏さんが副館長に就任されたことが要因なのでしょうね。かつて世田谷パブリックシアターに野田秀樹の演目が掛かったのも同様な経緯だと伺っておりました。やはり人とのつながりが大きい業界ですし、ちょっとメインストリームから外れた印象のあった東京芸術劇場を、これを機に盛り上げていって欲しいと思います!

野田秀樹が同劇場で本格的に手掛ける第1弾作品は、「ザ・ダイバー」。丁度1年程前に、シアタートラムでキャサリン・ハンター主演で上演された英国版公演の、日本バージョンだ。主演は、こちらもかつての盟友(?)大竹しのぶ。他に、渡辺いっけい、北村有起哉といった安定感ある実力派俳優が揃った。

実に面白かった。しかし何といっても特筆すべきは、大竹しのぶである。居並ぶ才能の中でもとりわけ強烈な異彩を放ち、めくるめくと言うしかないような、驚愕の演技の連続技で観客を惹き付け翻弄していく。感情表現が実に細かく、仔細に渡るまでが綿密に作り上げられているのだ。少人数の座組である。日々、ディスカッションやセッションを繰り返しながら、丁寧に感情を紡いでいったのであろうプロセスが見て取れる。

大竹しのぶ演じる女は、放火殺人の罪に問われている。相手は不倫相手一家だ。しかし、女には別の人格が憑依しているため、野田秀樹演じる精神科医が、彼女の精神の内面へと分け入り真実を露呈させる使命を帯びている。彼女は自分のことを、能の演目「葵の上」の六条御息所と同化させているのだが、その架空の人物との間を、自らの感情を行き来させる様が実にスリリングなのだ。大竹しのぶはこの現世の女を起点としながら、リアルな次元世界を軽々と凌駕し、あらゆる場面へと跋扈していく。この行き来するところが、英国版とはニュアンスを異にする。

英国版は、別次元へと女の感情が移行するのに合わせて、その女自身もその別次元で別人格として生きるという描き方であった。故に、あらゆる次元に女が存在し、その女を総合的に合わせことによって、女の普遍的な哀しみが浮き彫りになってくるという重層的な仕掛けになっていた。しかし日本版は、現世の女が別人格を内包しているという描き方であり、物語も同じだし、一見物語への斬り込み方は似たように見えるが、実は、全く違うアプローチを大竹しのぶとキャサリン・ハンターはしていることになる。物語を論理的に捉えることと、感情を軸に捉えることの度合いが逆転しているのだ。しかし、そのどちらもが面白いというのは、才能ある2大女優に依るところは大きいが、いくつもの解釈にもびくともしない構造を持つ戯曲の素晴らしさがあってこそだと思う。まさに才能のぶつかり合いである。

渡辺いっけい、北村有起哉、野田秀樹の才能が、また、物語を面白く加速させていく。それぞれ、偉丈夫、洒脱、緻密といった、全く異なるスタンスを立脚点に置きながらも、対峙する相手や場面によって、その対処方法がクルクルと変化していく様が実に面白い。

英国版は壮大な物語を観ているような印象であったのが、日本版は私小説を紐解いているような繊細さであった。田中傳佐衛門の囃子も、女の言葉にならない嗚咽のようにも感じ、隅々にまで、女の感情が伝播したセンシティブなテイストが心に沁み入るのだ。

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