2010年 6月

オウム事件を真正面から取り上げた衝撃作である。初日ということもあり、事前にどのようなストーリーかを知る由がなかったのだが、正直驚いた。オウム事件をモチーフにしてストーリーを展開させていくという次元ではなく、オウム事件そのものを内側から暴き出すがごとく、人間意識の儚さや集団意識の脆さを観客に直球で叩き突けてくる。

ギリシア神話の人物たちも登場するが、それはあくまでオウムの世界を相対的に照射するための仕掛けとして機能する。神話でありながらついぞ宗教へと変質することの無かったギリシア神話の中に住む神々たちは、物語の世界から現世へと侵入することによって、神と名乗る男の集団に身も心も掠め取られていくのだ。このシニカルな視点が、人間心理の奥深さと、人間が神という存在と果てしない対峙を続けてきた長大な時間軸とを掛け合わせ、陰惨な出来事を普遍の物語へと昇華させていく。

町の書道教室の家元はブレーンたちの献身と信者たちの信念によって、急速に神へと変貌していくことになる。「袖」という字を書こうとした家元が、衣偏ではなく示偏で書いてしまうのだが、その文字の造りが、実は「甲」ではなく「申」と棒が突き出て「神」と書きたかったのだという尾ひれの付いた解釈が一人歩きし始め、より「神」懸かったその存在に拍車が掛かっていく。

言葉遊びは野田秀樹の真骨頂だが、書道教室が舞台になることで、語り言葉による語呂合わせは書き文字へと変換され、その台詞と文字との間を繋ぐ作業は観客の想像力に委ねられることになる。台詞と文字の隙間に、観客の意識が入り込まざるを得なくなるのだ。そこで一旦喚起させられた観客の思いと、作者が伝えたい核心部分とがシンクロすることになり、観客と演者たちの観る見られるという関係性を飄々と凌駕して、作品が大きな説得力を持ち得ることになる。

集団意識の暴走は異端者を粛清することによって、ますます団結力を高め、その勢いに拍車を掛けていくことになる。そこには、もはや個々人の思いが入り込む余地などはない。存在しているのは、熱に浮かされ捻じ曲げられた虚構の使命感なのだ。この使命感というのは厄介だ。自分が使命を負うということは、集団という漠然とした何かなのではあるが、その場において信頼され認められているということに他ならないからだ。作品は、他者に認められるということが、人間の生きる欲求につながるという弱さまでを暴いて見せていく。事件という表層の部分と人の意識という根源的な場所とを瞬時にワープさせる手法を連打しながら、人が突き動かされていく、その核心部分を冷徹に解剖していく。

宮沢りえはこの混沌とする物語の中心にいて、起こることの全てを受け入れる透明な美しさで一際存在感を放っている。古田新太の家元はその風貌からして想起させられるものがあるが、威圧感よりも幼さを抽出することで集団の脆弱さを浮き彫りにさせていく。橋爪功は従わざるを得ない立場の者の悲哀がリアルで、藤井隆は真っ向勝負で笑いを封印する。池内博之の愚直なストレートさ、美波のパワフルな可憐さ、チョウソンハの強さと相反する脆さ、田中哲司の迷いのない素直さ、そして急遽登板の高橋惠子の冷静な立ち回り具合、野田秀樹の絶妙な間合いなど、役者たちの個性がそれぞれ際立ちぶつかり合うことで、作品世界がさらに強力にパワーアップしていく。

最後のシーン、あの事件へと向かう者の背中に書かれた文字は「幻」。集団意識を一文字で突いてドキリとさせられるが、追う宮沢りえが、その背中に手を掛けると、スッと一筋線が伸び「幼」という字に変貌して個の真髄を抉り出す。やるせない人間の存在を憂い、胸が痛む。人が人としての在るべき姿とは、一体何なのであるのかという思いをグサっと突き付け、観客はそれぞれに思いを馳せることになる。突き付けるが決して押し付けはしない。見事な幕切れだと思う。

開場時から既にステージではパフォーマンスが始まっている。プロセニアムにぴったりと合う形で黒い壁が舞台上に設えてあるが、丁度中央の部分にはドアの大きさ位の穴が開いており、その向こうの様子が垣間見ることが出来るようになっている。舞台上では、柔らかな衣装を身に纏った女性と、黒いコートに身を包んだ男性が、何やら小声で呟きながら、行き来しているのが見える。

その手前に張り出された舞台上には、デッキチェアに座ってその光景を眺めている一人の男がいる。男の目に映っているのは、一体何なのであろうか? 追想、幻影、あるいは希望? 観る者のイマジネーションを想起させるプロローグである。

開演が近付くと、だんだんと女性たちの声が大きくなり、皆が揃って歌を詠唱し始める。黒い壁が取り払われステージが出現する。すると、バラバラに動き、囁いていた男女が手を繋ぎ合い始め、だんだんとひとつ大きな輪を作り、円陣を組んでクルクルと大きく回り始める。但し、皆、決して楽しそうに回っている訳ではない。ただひたすらに、夢中に、一所懸命に舞い回っているのだ。それぞれが自分という個を持ちつつも、こうして融合していく様に、人と人が、男と女が、心の結び付きを渇望しているのだという意識が具現化されている様にも感じ、儚い哀しみが自分の意識下からも徐々に湧いてくることに気付くことになる。

すると、舞台の白い床から切れ目なく地続きに巻き上げられ背景となった、急勾配の滑り台のような白い壁に向かって皆が駆け上ってはずり落ちてくるという無為な行動を何度も皆が反復し始める。挑戦、あるいは諦め。そんな中の女性の一人が手前の男性と対峙し、請うように哀願したり、大きな声で威嚇したりしながら、「私と踊って」という意思を伝えていこうとする。しかし男性は「邪魔だ、消えろ」と女性に取り合うことなく、追いつ追われつつの関係性が繰り返されることになる。

この行き違う矛盾を孕んだ関係性が作品の核となり、男女の、ひいては世界の状況をもこの空間に照射することになっていく。舞台上ではさまざまなエピソードが散りばめられていくのだが、決して物語として収斂することはない。そこが白眉である。観客はそれぞれのシーンと対峙しながらも自分の内面を問い正すことになり、自分なりの解釈を紡ぐことになっていくのだ。

作り手側がこうした意味性を取り払うことにより、そこに真実がクッキリと浮かび上がってくるというその展開に、何故か段々と胸騒ぎが起きてくる。そして、その思いを感受している内に、まるでセラピーを受けているかのように次第に心が癒されていくのが分かるのだ。その自己の思いの揺れを自覚していくプロセスが、実に心地良く、また、ダイナミックな経験にもなっていく。

執拗に男性を挑発する女性であるが、今度は逆に、男性の方が女性を追い駆けるようになると、女性はだんだんと男性が疎ましくなっていく。この危うい均衡。木の枝で女性を叩き突けるように追いやっていた男性が、今度は女性を求め始めるのだ。このあまりにも普遍的で其処此処で良く見かけるようなシーソーゲーム。しかし、肉体の限界まで自分を追い込み自己表現していた全ての光景が脳裏をかすめるため、この交わることの難しい乖離した感情の綾に、心がえぐられるような思いを抱くようになる。我々観客の共感を捻って説き伏せるがごとく、決して成就することのないこうした感情を叩き突け、問うてくるのだ。生きるとは、何なのだと。

ピナの舞台を前にすると、ただの一観客でいることは決して出来ない。いつも心の小トリップを体感してしまうことになるからだ。だから、観客席を後にする時にはいつも、新たな自分を発見していることに気付かされることになる。

カーテンコールにピナの姿はもちろんない。しかし、その空白を埋めるがごとく、ダンサーたちが、より力強く、より緊密な関係性で作品創りの取り組んでいることがヒシと伝わり、作品は死すことがないのだということが見事に証明された珠玉の公演であったのだと、ひしと感じ入った。

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