2008年 8月

松尾スズキ作品は初見である。どんなものかと期待が膨らむが、見進めていく内に面白いスタイルの作品だなと膝を打つ。勿論演劇ではあるのだが、歌もある。しかし、ミュージカルではない。歌は心情を謳い上げることなく、あくまでも昭和歌謡のようにスタンドマイクの前に立って歌い、今の自分の状態を客観的に歌っていく。松尾流異化効果、とも見てとれる。これは、観客を劇中に没頭させまいとする、作り手側の「照れ」の裏返しなのかもしれない。笑わそうという強い意志よりも、気軽に笑われたいというスタンスを敢えて選択しているようなのだ。その土壌をベースに、丁々発止の勝負を賭けてくる。こういった複雑に捩れた作者の創作回路が、松尾スズキ作品の特徴でもあり魅力でもあるようなのだ。

話は「欲望という名の電車」を基にしたのだと、事前に記事で読んでいた。表向きはテネシー・ウィリアムズのそれではなく、あくまでも松尾流解釈のように見えるが、実のところ、意外ではあるのだが、物語の骨子として本家の源泉を忠実に汲み取っていたと思う。大竹しのぶをブランチに見立て、これを柱としていった。そうすることで、居並ぶむちゃくちゃ個性的で旬の役者たちの面々がどれだけ弾けようが、求心力を持って、軸の物語世界に舞い戻って来ることが出来るのだ。

中心軸を担う大竹しのぶは揺ぎ無い存在感を示すが、役者として今まで見たことのないような側面、新境地をもっと見てみたかった。思い込みが激しいが故に自己崩壊していく女性像は、既に、「欲望という名の電車」でも「マクベス」でも演じていた。勿論どの役柄も全く別の女性ではあるのだが、残念ながら本作の役柄は似たような路線をなぞっているように見えてしまうのだ。物語に沿わなくなるかもしれないが、万華鏡のようにクルクルと変化する感情の放出を、大竹しのぶに要求して欲しかった。それが出来るポテンシャルがある役者であるからこそ、ついつい期待してしまうのだ。

しかし、他の役者へのアプローチを見ていると、松尾演出は、役柄を多面的に表現していくことにポイントを置いていないのかもしれない。その役柄のキャラクターをカリカチュアライズして作り上げ、その方法論で一気に突っ走らせていく感じなのだ。その意図的な表層感が、この時代に受けている理由なのかもしれない。松尾スズキは、実は相当な確信犯なのであろう。

市川染五郎は今までにない側面を見せてくれたと思う。大竹しのぶという巨木があったからこそ、無邪気に戯れる少年にように新鮮な魅力を振りまくことが出来たのかもしれない。情けない、弾けまくる、といった松尾の演出の方向性を、染五郎なりに計算して新しいひきだしを作ることが出来たことが勝因であろうか。

旬の売れっ子役者さんたちが勢揃いである。キラキラした旬のオーラを振りまき、終始飽きることはない。しかも、濃いように見えてクドクなく、POPな気軽さが、心地イイのだ。プッシュの仕方と抜き方との緩急が絶妙である。

休憩15分を挟み、約3時間30分。たっぷりと楽しめました。演劇というよりショーに近いものがあると思う。いつの世も、才能は軽がるとジャンルを超えてしまうものなのですね。

新歌舞伎十八番「紅葉狩」がまず初めの演目だ。能の「紅葉狩」を題材に、河竹黙阿弥が作詞をした作品である。勘太郎が艶やかに、橋之助が偉丈夫に、赤い紅葉が華やかに、歌舞伎座の舞台を美しく彩っていく。

休憩を挟んで「野田版 愛陀姫」が開幕する。幕が開くと、舞台中央に日比野克彦のダンボールアート・テイストのような、壁にもビルにも見えるオブジェが鎮座しているが、アッという間にオブジェはスルスルと舞台左右一杯に広がっていき、町並みの風景となる。蛇腹のように折りたたみ式になっているのだ。この転換がほんと一瞬の間に起こるので、感嘆の声が客席から洩れる。装置は堀尾幸雄だが、この冒頭のイメージは、私見ですが、日比野克彦の世界なんですよね。奥様が衣装を担当されていますが。オッと驚嘆させられるこの幕開きで、舞台にグッと引き付けられる。つかみはOKだ!

堀尾幸雄の美術は、続く城内の場面でまた観客を楽しませる。全て金づくしの城内の装置に会場がドッと沸く。理屈なんていらないですね。ひびのこづえの衣装も艶やかだ。色の合わせ方がシックである。模様の大胆さも大きなアクセントだ。

囃子や三味線の他に、バイオリンやトランペットの音が混在する音楽もまた斬新。能管奏者に、一噌幸弘さんのお名前もあった。

ヴェルディのオペラ「アイーダ」を歌舞伎に翻案するという、そもそもの発想が奇抜で斬新だが、出来上がった作品は、愛と戦いに翻弄される男女のしっとりとした悲恋物語に仕上がっていた。台本だけ読み説けば、現代劇としても通用すると思うのだが、歌舞伎役者が歌舞伎の技法で演じれば歌舞伎になるのだという、この揺ぎ無い絶対性に、歌舞伎世界の懐の深さを感じ取る。勘三郎は、その裾野を内からドンドンと押し拡げていくトップランナーだ。果敢な挑戦に、本当に、毎回目が離せない。

勘三郎演じる城主の娘・濃姫は、七之助演じる端女である敵方の囚われの姫・愛陀姫と、同じ男を愛してしまう。橋之助演じる木村駄目助左衛門である。そこで濃姫は、扇雀と福助が演じるインチキ祈祷師を使い、策略を巡らせ始める。この恋愛を縦軸とすると、彌十郎演じる城主・斎藤道三と、三津五郎演じる愛陀姫の父でもある敵国の総大将・織田信秀との戦いが横軸として広がり、この恋愛事情に更に複雑な様相を付け加えていく。

七之助のはかなげな色香がいじらしく涙を誘う。対する勘三郎は、一途な想いを叶えるために腐心する濃姫を演じて狂おしく、笑いを一切封印して、恋の成就に邁進する。祈祷師演じる扇雀と福助が、コメディリリーフを受け持つ。荏原に細毛というネーミングにも笑わせられるが、シェイクスピア作品にもあるように道化が語り部のような役回りも持ち、物語の顛末を客観的な立場で目撃していく。橋之助にグッと貫禄がついた。従来の軽やかさにドッシリとした重みがつき、演技の振幅の幅が更に広がった。声にもグッと重みがついた。彌十郎、三津五郎がガッシリと脇を固め、芝居をキリリと締める。

シリアスな悲恋を描いて終焉を迎えるが、会場にしっとりとした余韻を残す作品であった。溌剌とした演目もいいが、野田秀樹が歌舞伎に取り組んで3作品目。NODA MAPでもあまり描かないストレートな恋愛物語に、また、次なる仕掛けはどうくるのであろうかとついつい思いを馳せてしまう。

舞台は散り散りに集まった若い役者たちが、ダンスのレッスンを始めるところからスタートする。開演時間と共にスッと異空間へと誘う手法が多い蜷川演出だが、特に開演ベルもなく、一斉に皆が自然とレッスンをし始めるこの導入が面白く新鮮に映る。若い役者たちがレッスンしている姿は、この舞台で役者を演じる役者たちのリアルな生活のイメージとクロスしていく。

いつの間にか、客席に座っていた夏木マリが席から立ち上がり登場すると、客席が少しだけどよめいた。その仕掛けもさることながら、現れたのがマンガの原作そのままのイメージの月影千草だったということもあろう。かなりのビジュアル・インパクトがある。敢えて独自の視覚的世界を創造することなく、マンガの世界に忠実に沿ったビジュアル造形を展開したことにより、この有名な原作を読んで本舞台を観に来た来場者たちを楽しませ満足をさせることになったのではないだろうか。また、役は演じるものではなく、ガラスのような仮面をまといその役を生きるのだ、というこの作品の根幹を成す思想によると、原作を模した扮装をすることは、その人物のガラスの仮面を身に付けたことと同じなのかもしれないですね。

オーディションで選ばれた主役のふたりには、それぞれに華がある。しかし、大和田美帆と奥村佳恵は、ビジュアル的には北島マヤであり姫川亜弓なのだが、資質は真逆ではないかと思う。大和田美帆は、これまでの舞台経験で培った安定感を見せる。台詞も明晰だし、感情の高まりをコントロールする術も知っているのだが、予想もしなかったような表現が表出してはこない。上手いのだ。しかし、その上手さに縛られている気がする。反対に奥村佳恵は、自分で自分の資質を自覚していないかもしれない、その、無、の感じが、見ていて半歩先にどうなるのかが全く予想がつかないのだ。ただツカツカと歩いて登場するだけなのだが、この人は怒っているのか、冷静なのかすらさえ判然としない。その曖昧さが何故かミステリアスに映るのだ。また、奥村佳恵の境遇は分からないが、大和田美帆は有名芸能人を両親に持つ身である。役柄的にも、有名女優を親に持つ姫川亜弓の方が近いとも言える。機会があれば、役柄を変えたバージョンを観てみたい気もする。

青木豪の脚本がいい。非常に上手く原作のエッセンスを引き出し、整理し、まとめたと思う。舞台演出家の視点があったことも、脚本が重層的な厚みを増した要因のひとつなのであろう。寺嶋民哉の音楽は素直に感動を喚起させられるようなメロディラインが印象的だ。ただし、高音を歌い上げる大和田美帆の声のかすれが、少し気にはなった。

隠れたテーマとか隠喩などといったものとは、本作は無縁である。太陽のように輝く北島マヤが、ひたすら愚直なまでに突っ走り女優として成長していく大河ドラマである。そのストレートなストーリー展開が、どの観客にも分かり易く受け取られることになり、多くの共感を呼ぶことになるのだろう。また、音楽劇にしたことで、気持ちを歌い上げるポイントがキッチリとフォーカスされることとなり、登場人物たちの感情が更にクッキリと浮かび上がることとなった。

舞台は、舞台上で演じる役者と、観客とが共に作り上げていくのだというメッセージが心に残る。そういう意味では、オーディションを勝ち抜いてこの役を獲得した主役を暖かく祝福するかのように何回ものカーテンコールが続いたことは、いい作品に出来上がったということに相違ない。ここでもキョトン(としているつもりはないのだろうが)と佇む奥村佳恵の姿が、やはり他の役者と異質な雰囲気を放ち独特であった。

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