松尾スズキ作品は初見である。どんなものかと期待が膨らむが、見進めていく内に面白いスタイルの作品だなと膝を打つ。勿論演劇ではあるのだが、歌もある。しかし、ミュージカルではない。歌は心情を謳い上げることなく、あくまでも昭和歌謡のようにスタンドマイクの前に立って歌い、今の自分の状態を客観的に歌っていく。松尾流異化効果、とも見てとれる。これは、観客を劇中に没頭させまいとする、作り手側の「照れ」の裏返しなのかもしれない。笑わそうという強い意志よりも、気軽に笑われたいというスタンスを敢えて選択しているようなのだ。その土壌をベースに、丁々発止の勝負を賭けてくる。こういった複雑に捩れた作者の創作回路が、松尾スズキ作品の特徴でもあり魅力でもあるようなのだ。
話は「欲望という名の電車」を基にしたのだと、事前に記事で読んでいた。表向きはテネシー・ウィリアムズのそれではなく、あくまでも松尾流解釈のように見えるが、実のところ、意外ではあるのだが、物語の骨子として本家の源泉を忠実に汲み取っていたと思う。大竹しのぶをブランチに見立て、これを柱としていった。そうすることで、居並ぶむちゃくちゃ個性的で旬の役者たちの面々がどれだけ弾けようが、求心力を持って、軸の物語世界に舞い戻って来ることが出来るのだ。
中心軸を担う大竹しのぶは揺ぎ無い存在感を示すが、役者として今まで見たことのないような側面、新境地をもっと見てみたかった。思い込みが激しいが故に自己崩壊していく女性像は、既に、「欲望という名の電車」でも「マクベス」でも演じていた。勿論どの役柄も全く別の女性ではあるのだが、残念ながら本作の役柄は似たような路線をなぞっているように見えてしまうのだ。物語に沿わなくなるかもしれないが、万華鏡のようにクルクルと変化する感情の放出を、大竹しのぶに要求して欲しかった。それが出来るポテンシャルがある役者であるからこそ、ついつい期待してしまうのだ。
しかし、他の役者へのアプローチを見ていると、松尾演出は、役柄を多面的に表現していくことにポイントを置いていないのかもしれない。その役柄のキャラクターをカリカチュアライズして作り上げ、その方法論で一気に突っ走らせていく感じなのだ。その意図的な表層感が、この時代に受けている理由なのかもしれない。松尾スズキは、実は相当な確信犯なのであろう。
市川染五郎は今までにない側面を見せてくれたと思う。大竹しのぶという巨木があったからこそ、無邪気に戯れる少年にように新鮮な魅力を振りまくことが出来たのかもしれない。情けない、弾けまくる、といった松尾の演出の方向性を、染五郎なりに計算して新しいひきだしを作ることが出来たことが勝因であろうか。
旬の売れっ子役者さんたちが勢揃いである。キラキラした旬のオーラを振りまき、終始飽きることはない。しかも、濃いように見えてクドクなく、POPな気軽さが、心地イイのだ。プッシュの仕方と抜き方との緩急が絶妙である。
休憩15分を挟み、約3時間30分。たっぷりと楽しめました。演劇というよりショーに近いものがあると思う。いつの世も、才能は軽がるとジャンルを超えてしまうものなのですね。
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