2015年 7月

W・シェイクスピアの「マクベス」の物語を、たった一人で演じ分けていくという本作に興味を抱き、劇場へと足を運んだ。演出のアンドリュー・ゴールドバーグが、共同演出のジョン・ティファニーと台本を練り込み、アラン・カミングスと共に、作品を創り上げていったのが2012年。作品の成功を受け、日本公演へと相成ったという。

日本公演で、この重責を担うことになったのは、佐々木蔵之介。これまで、氏の舞台は幾度か拝見してきたが、程良い客観性が役柄の真情を深く掬い取るアプローチに清潔感が漂い、印象的であった。本作で、どのような「マクベス」を魅せてくれるのかに期待感が高まっていく。

どうやら設定は、精神病院のようである。何らかの理由で病室に隔離された一人の男を、医師や看護士がいなし、そして、去っていく。舞台は半地下のような設定で、上手に設えられた10段位の階段を上ったところに鉄の扉があり、舞台正面上部には室内を見下ろせる大きなガラス窓がある。また、室内に上方には、幾つかの監視カメラが据えられている。

狂人が「マクベス」を演じていくというのが基本設定であるが、男の内面と物語とが密接にリンクしているような気がする。この男には一体何が起こっていたのであろうか。彼が精神病院に居る理由は一体何なのか。漠然と疑問を抱きながら、舞台と対峙することになる。

観客としては、「マクベス」がどのように一人で演じられていくのかに興味が集中するが、人形、バスタブ、鏡、車椅子など、小道具を駆使しながら、コロコロと役柄を変転させ、飽きさせることがない。佐々木蔵之介の芸達者振りを堪能していく先に、微かに見えてくるものがある。多分、絶望の淵にまで陥った男の過去である。

彼は、子どもを、何かしらの理由で失ってしまったのではあるまいか。マクダフの子どもが殺められる際に発する雄叫びに、拭い去ることのできない底知れぬ悲劇が浮かび上がってくる気がする。壮大な物語が、一気に一人の人間の想いへと収焉していくダイナミックさに愕然とさせられる。

アンドリュー・ゴールドバーグは、繊細な手捌きで、「マクベス」の登場人物たちの哀しみを、男の真情と交錯させながら、繊細に積み重ねていくことに注視していく。そして、そのアプローチは、拭っても拭いきれない、手にこびり付いた血糊を滴らせる現代人が背負う絶望と響きあっていくようなのだ。マクベスの心の震えと、男の心のしこりとが、見事にスパークしていく。

佐々木蔵之介は、大抑なパフォーマンスは一切廃しながらも、本作の意図をしっかりと押さえ、一目でそれと分かるような「マクベス」の人々の役柄を見事に造形した。難役を、観客にそうと感じさせずに連打するパワーとスキルは圧巻だ。また、氏が放つ男のほのかな色香が、観客の耳目を魅了し、飽きさせることがない。医師の大西多摩恵、看護士の由利昌也の鉄壁で粛々としたサポートが、作品にある種の静謐さを与えていく。

美術と衣装デザインのマール・ハンセルは、作品をアートの高みへと牽引するクリエイティビティを創作した。ダミアン・ハーストを生んだイギリスの、冷徹な観察眼を俯瞰してみせたかのような造形が印象的だ。見る、見られるという関係性が、作品にパースペクティブな奥行きを付与させていく。

照明デザインのナターシャ・チヴァースの、対象者をことさらフューチャーし過ぎることのないナチュラルな視点が、物語に更なるリアリティを生んでいる。そして、ある時には、室内に据えられた監視カメラが、人物の様々な側面を活写し、そこに居ない人物までをも映し出し、ヒンヤリとした後味を残す、映像デザインのイアン・ウィリアム・キャロウェイの仕事振りにも感服だ。

現代に生きる人々が、まるで我がことのように体感できる「マクベス」の悲劇を、一人で演じきった稀有な作品である。作品を構成するスタッフのクォリティの高さも充分に堪能できる逸品であった。

2年前に、オーストリアのリンツ州立劇場の杮落とし公演として上演された本作の評判は、宮本亜門の演出が大きな話題になったと聞き及んでいたため、約半年前にチケットを入手し、公演当日を迎えることになった。オペラって、かなり前からチケット販売されるんですよね。

上演前の緞帳にQRコードが投影されているところが、本作の演出のコンセプトに通じていく。緞帳が上がると、そこは現代の家庭のリビングのような光景が現れる。お爺ちゃんと孫3人がTVゲームに興じているところに母が、そして、父が帰宅する。父は仕事で何かあったのか、いらいらしており、母と口論をし始める。母が怒って家を出てしまった後、残された父は、先ほどまで子どもたちが遊んでいたゲームが映し出されていたモニターに突っ込んでいく。

父は、まるでオルフェの如く、異界である「魔笛」の世界へと迷い込み、異国の王子タミーノへと変貌する。大蛇を退治し、その様子を感知した夜の女王の侍女たちが現れる。そして、そこで見せられた女王の娘パミーナに惹かれるが、ザラストロに誘拐されていることを、タミーノは知る。知り合った笛を吹くパパゲーノと共に、パミーナ探しへと旅立つことになる。

モニターの向こうにある世界で冒険譚を繰り広げる光景は、まさにRPGだ。モニターにダイブすることで、モーツァルトの世界がゲームの様相を呈していく展開が実に刺激的だ。現代の観客に親和性が感じらさせるようなこの設定は、「魔笛」の世界をグッと分かりやすくする効果を発していく。王子や女王と言われてもいま一つピンとこない感じであるが、ゲームの中の出来事であるならば、逆にリアルに感じられるのが面白い。

ボリス・クドルチカの装置は、イメージをヴァーチャルに寄せることなく、西洋の設えを踏襲した背景がしっかりと組み立てられ、妙に落ち着き心地良い。そこに被さるのが、バルテック・マンスが創作する映像だ。瞬時にシーンが変化し、様々な世界へと誘う効果を十二分に発揮していく。

マルク・ハインツが担う照明は、それぞれの場面とアーティストとを分け隔てることなく共存させ、色々な要素が集積するステージを一体化させる。太田雅公の衣装は、キャラクターの内面をカリカチュアライズさせ、登場人物たちの役回りを明確に可視化させていく。遠目でもハッキリと人物の個性が浮き出たせながら、創作者のオリジナリティが盛り込まれ作品に上質なアクセントを付与していく。

パミーナの嘉目真木子は、宮本亜門演出の「マダムバタフライX」のタイトル・ロールでも印象的であったが、本作でもパミーナの役柄から溌溂とした意気を放ち目が離せない。パパゲーノの萩原潤は、コミカルな役柄を嬉々として表現し、作品に柔らかな感触を付与していく。

ザラストロの大塚博章は善き人である面が前面に押し出され、作品に安定感と優しさをもたらしていく。夜の女王の高橋維は役柄に邪気を忍ばせながら、女王の孤独と悪意とを渾然とさせながら表現する。

宮本亜門の独特な発想に、指揮のデニス・ラッセル・ディヴィスが見事に応えた信頼感が迸る熱情を感じることができた。演出の手腕が作品を牽引していることに相違ないが、全ての要素がその才気に収焉するという吸引力として機能する。モーツァルトを現代にコミットさせ、これまでにない様なデジタルな筆致の「魔笛」を造形し秀逸である。

「ペール・ギュント」のイメージを勝手に膨らませて来場したのだが、緞帳が取り払われたステージ上に広がる光景は、廃墟となった朽ち果てた倉庫である。主人公「ペール・ギュント」が世界各国を遍歴する壮大な物語の舞台が倉庫であることに、少し驚きつつも、では、一体どんな展開を示していくのかという期待感が高まっていく。

開演時間になると、様々な装いに身を包んだ人々が、其処此処から現れてくる。皆、何かに疲れているかのような、気だるい雰囲気を漂わせている。と、ある瞬間、天空よりヘリコプターの轟音が鳴り響き、外の世界で爆発音などが発せられていく。集う人々は、心配そうに窓から外を窺っていく。

どうやら、舞台は難民たちのシェルターという設定なのだということが分かってくる。構成・演出の白井晃と、翻訳・上演台本の谷賢一が仕掛けたこの状態が、イプセンが描いた物語を、グッと現代世界に近寄せる効果を生み出していく。

難民の中の一人の女性が子どもを出産し、その赤子が保育器に中に入れられている。その前に、スクっと青年が立ち上がる。「ペール・ギュント」役の、内博貴である。母役は、前田美波里。本作は、難民キャンプに生まれた赤ん坊が「ペール・ギュント」が世界を放浪する物語を想い描いていくというコンセプトを貫いていく。

ペールは色々な国を訪れ、その地で様々な商売を始めることになる。場所を変えるごとに、全く異なる世界が展開する様は、まさにRPGだ。しかし、創り手は、物語の様相をゲーム感覚へと持ってはいかない。物語から汲み出されるのは、その地で生きる人々が逡巡する思いや、現状を打破しようと生き抜く人々の溢れんばかりのパワーなのだ。逆境で生きる人間の、逞しさが発破されていく。

美術は二村周作が担うが、精緻でしかもリアルに見える難民キャンプの倉庫を、アーティスティックな感性で表現し見事である。また、場を変幻させる小道具の使い方もアイデアがタップリで、サプライズ感が満載だ。大石真一郎が駆使する照明は、それぞれのシーンをクッキリと際立たせながらも、配色も控えめに、物語を一貫したトーンで取りまとめていく。しかも、そのシーンの切り取り方が、役者を見せるという演劇的な観点に寄り過ぎることのない視点が、物語全体を浮かび上がらせていくことに貢献している。

小野寺修二の振付は、ダンスとも普通の動きともとれない曖昧な立ち振舞いが印象的だ。急にここからダンス・タイムですというような違和感がないため物語を照射することとなり、唐突さを感じさせることはない。スガダイローの音楽と演奏が、作品にライブ感を付与し、ステージと観客席を一体化させていく。そして、ペールの冒険譚にもピッタリと寄り添い、登場人部たちの感情や、世界の状態を切っ先鋭く斬り取っていく。

タイトル・ロールを演じる内博貴は初見だが、演技の表現はストレートだ。中心に聳立する大黒柱的な存在として揺ぎ無いが、善悪や表裏の振幅が緩急自在に行き来できると、もっとペールの人生にも膨らみが出たのではないかと思う。前田美波里は、もはや、その存在自体がレジェンドであるが、あらゆるスキルをさりげなく動員し、縦横無尽にペールの母オーセを演じていく。身のこなしも若々しく、溌溂としていて、物語をサイドから牽引してく。

何十年もの旅を経て、許婚が待つ故郷へとペールは帰還する。かつては皆若者であった友人たちも、今や老齢だ。しかし、いかんせん、若者が演じているということが見えるため、時間の経過がリアルに迫ってこないのが残念だ。

物語もまた、避難シェルターへと帰着していく。と、冒頭で登場した、保育器が再び現れる。看護士が見守る中、子どもは死してしまったようだと、観る者にも伝わってくる。「邯鄲の夢」ではないが、過ぎ去った道程が走馬灯のように頭を掛け巡り、胸を突くものがある。“彼”は、夢に中で、世界中を旅しながら、様々な経験をしたのだなと。迫り来る砲撃が、より現実に真情を引き戻す。人生の切なさと喜びを、一瞬の内に凝縮して見せた現代のオデッセウウスを体感できる一篇だ。

作品が終演し、カーテンコールと相成り、思い切り拍手をしたい気持ちはあるのだが、今観ていた光景があまりにも鮮烈であったため、果たして素直に拍手をしてもいいのだろうかと訝ってしまう自分がいた。第二次世界大戦の戦闘の最中を生きた、沖縄の女学生たちの生き様が、あまりにも過酷で、哀しく、しかも、穢れなき純粋さを湛えているため、彼女たちが迎える悲劇を前にして、愕然としたままの状態で凍りついてしまっていたからだ。

表現方法は決してリアルとは言えない。戦渦を想起させる装置もなければ、衣装は生成りのモダンなスタイル。台詞も、ことさら状況を説明するようなことはなく、ごく日常的な会話で紡がれていく。幼少期を追想するかのような、いつものマームとジプシーの世界観が一貫して貫かれているのだが、そこで展開されていくのは明らかに戦争に翻弄される人々なのだ。

心の琴線にピッタリと沿うように、沖縄の少女たちの日常が綴られていくのだが、観ている途中までは、まるで、現代の女子校生を描いているかのように感じる程、敢えて時代性を強調しないため、懐かしさは感じるものの、70年前の過去の出来事だと思わせない表現が、秀逸である。

観客の心情に、違和感なく登場人物たちの思いが重ね合さっていくため、どんどん、作品世界に意識が吸い込まれていってしまう、藤田貴大が仕掛けた設定は、見事と言わざるをえない。

マームとジプシーの魅力の一つに、言動のリフレインにあると思うが、幸福な時の思いと、何が起こっているのかを把握するだけで精一杯な逡巡する時、そして、戦争の最中に巻き込まれた状況を必死に生き抜こうとする様などが、繰り返し、繰り返し提示されることによる効果は、購えない運命を想起させ、胸が苦しく押さえ込まれていくようなのだ。その光景が観た後にまで、残像となって堆積し、心の中に沈殿していく。

舞台は、目まぐるしく高速で転回していくのだが、小道具を駆使してシーンの変換を推進する演者たちも、非常に大きな存在だ。演じ手たちとの呼吸もピッタリに、まるで、モダンダンスのようなしなやかで美しい動きで、観る者を魅了していく。物凄い段取りの数であろうが、間違えずに進行しているだけでも凄いななどと感じ入る。

少女たちに襲い掛かるのは戦争だけではない。戦争で戦う兵士たちの欲望の対象にもなり、身も心も蝕まれていくのだ。戦争というものに人間が蹂躙されていく様が、ジワジワと胸に染み込んでくる。装いが、生成りの清潔感溢れるものであるため、悲惨な光景の奥に潜む慟哭が、浮かび上がる効果を発していく。

海へ、海へと向かうオーラスに、ふと「大人は分かってくれない」をオーバー・ラップさせながら、少女が希求する平和の光を、一緒に見出そうとする自分がいた。「過去の人は、こんな未来を描いていたのだろうか」という台詞が、心から離れない。過去の悲惨を塗り替えようとするかのような今の日本に叩き付けられた、自分の意思を問われるような試金石なような作品だと思う。傑出した作品である。

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