W・シェイクスピアの「マクベス」の物語を、たった一人で演じ分けていくという本作に興味を抱き、劇場へと足を運んだ。演出のアンドリュー・ゴールドバーグが、共同演出のジョン・ティファニーと台本を練り込み、アラン・カミングスと共に、作品を創り上げていったのが2012年。作品の成功を受け、日本公演へと相成ったという。
日本公演で、この重責を担うことになったのは、佐々木蔵之介。これまで、氏の舞台は幾度か拝見してきたが、程良い客観性が役柄の真情を深く掬い取るアプローチに清潔感が漂い、印象的であった。本作で、どのような「マクベス」を魅せてくれるのかに期待感が高まっていく。
どうやら設定は、精神病院のようである。何らかの理由で病室に隔離された一人の男を、医師や看護士がいなし、そして、去っていく。舞台は半地下のような設定で、上手に設えられた10段位の階段を上ったところに鉄の扉があり、舞台正面上部には室内を見下ろせる大きなガラス窓がある。また、室内に上方には、幾つかの監視カメラが据えられている。
狂人が「マクベス」を演じていくというのが基本設定であるが、男の内面と物語とが密接にリンクしているような気がする。この男には一体何が起こっていたのであろうか。彼が精神病院に居る理由は一体何なのか。漠然と疑問を抱きながら、舞台と対峙することになる。
観客としては、「マクベス」がどのように一人で演じられていくのかに興味が集中するが、人形、バスタブ、鏡、車椅子など、小道具を駆使しながら、コロコロと役柄を変転させ、飽きさせることがない。佐々木蔵之介の芸達者振りを堪能していく先に、微かに見えてくるものがある。多分、絶望の淵にまで陥った男の過去である。
彼は、子どもを、何かしらの理由で失ってしまったのではあるまいか。マクダフの子どもが殺められる際に発する雄叫びに、拭い去ることのできない底知れぬ悲劇が浮かび上がってくる気がする。壮大な物語が、一気に一人の人間の想いへと収焉していくダイナミックさに愕然とさせられる。
アンドリュー・ゴールドバーグは、繊細な手捌きで、「マクベス」の登場人物たちの哀しみを、男の真情と交錯させながら、繊細に積み重ねていくことに注視していく。そして、そのアプローチは、拭っても拭いきれない、手にこびり付いた血糊を滴らせる現代人が背負う絶望と響きあっていくようなのだ。マクベスの心の震えと、男の心のしこりとが、見事にスパークしていく。
佐々木蔵之介は、大抑なパフォーマンスは一切廃しながらも、本作の意図をしっかりと押さえ、一目でそれと分かるような「マクベス」の人々の役柄を見事に造形した。難役を、観客にそうと感じさせずに連打するパワーとスキルは圧巻だ。また、氏が放つ男のほのかな色香が、観客の耳目を魅了し、飽きさせることがない。医師の大西多摩恵、看護士の由利昌也の鉄壁で粛々としたサポートが、作品にある種の静謐さを与えていく。
美術と衣装デザインのマール・ハンセルは、作品をアートの高みへと牽引するクリエイティビティを創作した。ダミアン・ハーストを生んだイギリスの、冷徹な観察眼を俯瞰してみせたかのような造形が印象的だ。見る、見られるという関係性が、作品にパースペクティブな奥行きを付与させていく。
照明デザインのナターシャ・チヴァースの、対象者をことさらフューチャーし過ぎることのないナチュラルな視点が、物語に更なるリアリティを生んでいる。そして、ある時には、室内に据えられた監視カメラが、人物の様々な側面を活写し、そこに居ない人物までをも映し出し、ヒンヤリとした後味を残す、映像デザインのイアン・ウィリアム・キャロウェイの仕事振りにも感服だ。
現代に生きる人々が、まるで我がことのように体感できる「マクベス」の悲劇を、一人で演じきった稀有な作品である。作品を構成するスタッフのクォリティの高さも充分に堪能できる逸品であった。
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