2007年 2月

中央には、リングのような四角いステージ。開演時間が訪れると、舞台奥から、役者たちがそれぞれ素の状態で登場する。但し、松たかこだけは、もう、ジャンヌ・ダルクになっている様だ。舞台ツラに待機する者、上下の傍聴席のような場所に座る者、舞台奥の壇上に上る者など様々だ。そして、客席通路から益岡徹と橋本さとしが現れ、舞台での位置に付いた瞬間に、物語は始まる。

ジャンヌ・ダルクは、フランス軍を率いてイギリス軍に連勝し、フランスの名誉を回復させ王を戴冠させるのだが、後に、王に見捨てられ、最後は異端者としてイギリスに宗教裁判の場に引きずり出されることになる。その顛末が、リング上で、語られ演じられていくのだが、舞台が、まるで、裁判で証人が答弁する証人台のような役回りを持っていく。時に、事の顛末を語ることもあれば、フラッシュバックのように過去の出来事が再現されたりもする。上下の傍聴席の様なベンチに座る者たちは、その出来事に、驚き、怒り、意義を唱えていく。まさに、法廷である。

客席側も明るいままの状態が続くが、観客も物語の進行と一緒になって、全ての出来事を冷静かつ客観的に検証する傍聴者のひとりになっていく。物語を、裁判所のようなハコに組み入れてしまうことで、散逸する物語に大きなひとつの潮流を作り上げ、そこに向けて全てを集約されていくその手法は、見事であり、秀逸であると思う。

松たかこが、素晴らしい。語る言葉も明晰に、膨大な台詞を難なくこなし、グイグイと物語を牽引していく。彼女が、フランス軍兵士を率いたのだという強靭さや才気にリアリティを感じさせるのと同時に、神の声を聞いた少女の真摯な純粋さも併せ持ち、様々な時系列の出来事が交錯するどの場面においても、一貫性ある意思が破綻なく表現されている。神の声を再現するその声にも驚嘆した。松たかこが発したとは思えなかったのだ。その威厳ある言霊に、運命を透かし見る、まさに神の視点を感じることが出来た。

山崎一演じる王シャルルの、軽さと狡猾さを併せ持つ人物像は面白く、この日の回は、途中でかつらが取れてしまう珍事があったのだが、松たかこのフォーローもあって、事なきを得た。壤晴彦の異端審問官は、この裁きの本質を炙り出すような鋭い切っ先でジャンヌに言葉を斬り突け、重みある威厳を発揮していた。磯部勉の、何としてもジャンヌを有罪にしたい検事の意義のはさみ込み方も面白い。益岡徹のジャンヌを庇護する優しさ、橋本さとしのジャンヌを敵視する厳しさが対を成し、物語を側面から支えていた。小島聖の妖艶、月影瞳の清楚、阪上和子の高貴、二瓶鮫一の傲慢、塾一久の愚鈍など、それぞれの役柄が、クッキリとアクセントを醸し出す。

コロスの様に物語の進行を見守る14人の年配の男たちも印象的だ。蜷川氏主宰の「さいたまゴールドシアター」に参加する人々であるが、役者顔でないことがかえってリアルさを生み出している。台詞はないのだが、観客の心とシンクロする共鳴板のような役割を果たしていて、独特の在り方で面白い存在感だ。

ラスト、フランス国旗を掲げて戴冠する王を見守るジャンヌの、何と美しいこと。火あぶりが寸前に解かれた後の場面ゆえ、その、美しさの中に秘めた、哀しさも滲み出し、運命に翻弄された少女の一代記を見事に締めくくった。松たかこを得てこの作品は光輝くことが出来た、と言っても過言ではあるまい。

役者が持つスピリットやエネルギーをギリギリまで絞り出すことに注力した行定監督の演出は、そのシンプルなアプローチにて、サム・シェパードの戯曲の真髄を呼び起こすことに成功した。人の心の彷徨いとでも言うべきテーマを掲げるサム・シェパード独特の世界観が、自然と浮かび上がってくるのだ。また、物語の背景にある茫漠たる砂漠の空虚感をも取り入れ、更に人の心の深遠へと忍び込んでいく。

舞台は、あるモーテルの1室で展開される。中央にベッド。上手には外に通じるドア。下手にはバスルームに通じるドア。舞台奥の壁には、窓が設えてある。そして、その奥の壁の上方の位置に、ジオラマのようなミニチュアの荒野のセットが載っている。物語の内容とシンクロする度に、その上方の部分に照明が入り照らされるのだが、どうも見た目に違和感があるのだ。部屋のセットの壁の上にピッタリくっ付くように景色がはめ込まれているのだ。これが、書割などであれば舞台のお約束であり、その風景が遠くにあるように見えれば納得いくのであるが、リアルに作り込まれた縮小版のジオラマとなると話は違う。物語の心象風景であることは分かるのだが、物理的な可笑しさを感じてしまったのは、私だけであろうか?

異母兄妹の禁断の愛、が物語の軸である。その愛するがゆえのぶつかり合いや強烈な心の希求の振り子が、お互いがひとことひとこと交わす毎に大きく揺れ動く。ドアを開け外に出たり、あるいはバスルームから出てきたりと、くっ付いたり離れたり舞台上を行き来するのだが、そのドアが閉まる時に立てる効果音がとても大きく強烈である! 低いのだが切っ先鋭くもあり、お互いに向かう意識のベクトルを一切遮断するかのような怖さを感じさせる。また、ドアに打ち込まれる銃弾の音もショッキングであった。行定監督の演出的アクセントは、絶えず心を際立たせていくことに向かっていく。

役者陣も素晴らしい。主人公の兄妹を演じるのは、香川照之と寺島しのぶ。粗野で横暴に見えるのだが、実はこの上なく繊細なカウボーイである兄。彼は、亡き父とリアルタイムで会話を交しながら、過去の思い出と今の心持の間を逡巡している。包容力ある大胆な荒くれ振りだが、しかと妹を受け止める冷静さも兼ね備え、香川照之の上手さに舌を巻く。寺島しのぶもテンションを下げる暇がないくらい、終始、感情を放出している。しかし、兄を思う気持ちが募るいじらしさが可愛くも可笑しくも見え、時折、フッと笑いを誘ったりもする。その緩急自在の感情のコントロールで、観客の気持ちを翻弄していく。

兄妹の父を大谷亮介が演じるが、ここに存在しているのだが、実在はしていないであろう人物を巧みに演じ秀逸である。変に突出することは全体のバランスを崩し兼ねない、微妙なバランスを要求される役どころであろうが、モノの質を変化させるが如く、役柄の在り方自体の質を転換させ、現実世界と乖離した存在感を際立たせていた。妹の友人を甲本雅裕が演じるが、兄とは全く真逆の無害そうな性質がかえって妹を引き付けたのか、もしくは、兄に対する嫌がらせなのか、この童貞の青年の存在が、感情渦巻くこの物語の中において、唯一無垢な救いの場所となり、甲本雅裕がその意を汲み的確に演じている。

窓越しに映し出されるヘッドライトの光がリアルで美しい。この溶けるような光の演出は、映像的だなと思った。光は、映像とリンクするところがあるのであろうか。舞台人にはない、光、そして闇に対する繊細な思い入れ、光も闇も生きているのだという感性を、随所に感じることが出来た。古ぼけた砂漠の絵に、サッと刷毛で絵の具を載せたような感覚とでも言おうか、些細だがシカと刻印はされており、しかし、もう以前の状態には決して戻れない、その諦めとささやかな希望が染み出たエキスは、どうやら観客の心の内にもシンシンと降り積もってくるようなのだ。

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