2016年 8月

石田衣良原作の「娼年」と「逝年」をベースに、三浦大輔が脚本を編み演出を担う本作は、原作のアウトラインとエッセンスとを最大限に活かしながら、約3時間の見応えある公演として成立させる。

松坂桃李演じる主人公の領は、バーテンダーのバイトをしながらルーティンな日々を送っている大学生だ。そんな彼の職場に、ホストクラブで働く同級生が女性客と連れ立ってやって来るところから領の人生の歯車は狂っていく。いや、彼にとっては、ある意味正しい方向に向かってスタートを切った、と言えるのかもしれない。

高岡早紀演じるその女性客はボーイズクラブを営む経営者で、領にそのクラブで働くための試験を受けてみないかと誘うまでが、スピーディーに描かれていく。女性相手の男娼に、ルーティーンな生活を生きる青年が飛び込み、娼年となっていく。

三浦大輔は、性という側面から人間の本質を極限まで掘り下げるアプローチが独特であり、本作でも衝撃的な展開を期待する向きもあったのだが、何やらいつもと少々趣きが違うようなのだ。女性を心の底から愛おしむ領の眼差しがこの上なく優しく、何故か、観る者にまでその心情が伝播するのだ。

領は、クラブを訪れる女性たちの、一種のカウンセラーの様な役割を担っていく。女性たちがクラブでホストを予約するファースト・プライオリティは身体の交わりなのであろうが、一番欲しているのは、ありのままの自分を受け入れてくれるということ。どんな性癖があろうとも、心の葛藤があろうとも、丸ごと包み込むように受容する領が、人気のホストになっていくプロセスが繊細、且つ、大胆に描かれていく。

同じクラブに所属するホストの東は、領が「普通」だからいいのだとさらりと断じる。こういう世界に入ってくるコは、どこかに歪んだ心情を抱えていたりする場合が多いが、領にはその屈折がないのだと。また、領は幼いころに母を亡くしたという過去を持っており、その経験が女性を年齢で区別することのない感情を生み出しているという側面も描かれる。

まず、目の前に居る人を認めることの大切さが身に染みてくる。自分に対する対応が、受け売りであるかないかについて、特に女性は、瞬時に分かってしまうものなのだと思う。領は、全身全霊で女性を受け入れる。松坂桃李はそんな領と一体化するかのように、ナチュラルな意識を保ちながらも、身体を張ったアグレッシブさで、クライアントを骨抜きにしていく様を説得力を持って演じていく。男女を問わず、そんな領の言動に癒され、絆されていくようなのだ。男は女性の傍にいて、黙って見守り続けることが、最善の幸福を産むのかもしれないのだと感じ入る。

クラブのオーナー役を担う高岡早紀の、偽りのない艶めく色香が、作品にグッとリアリティを与えていく。そして、生きとし生ける人間の儚さも体現し、高岡早紀は様々な魅力を放熱する。また、領の母との出自がシンクロする共通点が、作品に重層さを付け加える。女優陣は、その誰もが愛おしく描かれ、それが本作最大の特質であり、魅力となっている。その中でも、江波杏子の存在感は圧巻だ。

女性の本質に潜むある部分をストレートに、そして、優しく紐解いていくアプローチは、原作者の石田衣良の意思を受け継いだ三浦大輔の女性に対する思慕と尊敬の念が、主人公の領の思念とクロスオーバーし、しっかりと添い寝する。但し、身体と身体とが接触する繊細な音にとことんこだわるなど徹底したリアルさを追求することで、作品を観念的な呪縛から解き放ち見事である。

自らの存在を、理由を問わず全面的に受け入れる桃源郷を、リアルに描いた衝撃作である。他人に、自分を分かってもらえているのだという絶対的な信頼感の醸成が、この上ない爽快感を感じさせてくれるのだという意外な感情をも掘り起こされ、嬉々としてしまった。

本作では、キャスティングをし、勿論、演出もされる予定であった蜷川幸雄の名前が監修という名目で冠されている。蜷川幸雄の名前がクレジットされる演劇の新作は、もう観られないかもしれない。胸に幾重もの思いが去来していく。

宮沢りえは、唐十郎作、蜷川幸雄演出の「下谷万年町物語」で蜷川とタグを組んで以来、唐十郎、清水邦夫、秋元松代の戯曲の他、村上春樹原作の作品で、蜷川幸雄の薫陶を受けてきた。振り返ると、日本人作家が関わる作品のみに声が掛かっているのですね。

「血は立ったまま眠っている」「祈りと怪物~ヴィルヴィルの三姉妹」に続いて蜷川幸雄にキャスティングされた森田剛も、寺山修司、ケラリーノ・サンドロヴィッチという、やはり日本人作家作品で蜷川に呼ばれているという、宮沢りえとの共通点があったことに気付くことになる。

宮沢りえと森田剛は、日本人の根っこにある土着性、繊細な奥ゆかしさ、そして、小股の切れ上がった女っぷりに、風来坊の無邪気な一徹さなどを凛として表現し、唐十郎の言霊の中から、観客の身体の奥底に眠る日本人のDNAを掴み出すことが出来る逸材だ。

唐十郎がかつて第七病棟に書き下ろした傑作は、満を持して蜷川幸雄の手により上演される予定であったが、結果、その遺志を金守珍が受け継ぎ、演出を担うこととなった。蜷川スタジオ、状況劇場を経て、新宿梁山泊を設立した、アングラ演劇を熟知し継承し得る人財だ。

唐十郎という日本演劇界に於けるレジェンドの様な存在の作品を、旬のスターを起用してシアターコクーンで上演するというのは、やはり蜷川幸雄でなければ実現出来なかった企画であろう。今後、唐十郎、清水邦夫、寺山修司など日本の才能が伝承されていくことが出来るのか? 細やかな危惧を抱いてしまう自分がいた。

かつて、緑魔子と石橋蓮司で観た傑作は、宮沢りえと森田剛によって、見事に蘇った。そこに金守珍の見事な手綱捌きがあったことも、作品に生命を宿す大きな要因となったに相違ない。演出家の迷いが一切感じられないため、安心して舞台に身を委ねることが出来、幸福感に包まれる。

叶わぬ恋のトライアングルというシンプルな設定に、時代の片隅へと追いやられていた30年前の浅草の焦燥感とがクロスし、独特の世界観が提示される。希求しても掴めないもの。その渇望感が希望へと繋がっていくマジカルな飛翔の瞬間。現代では失われてしまったかに思える希望というカタチのない想いに触れようと足掻くことが、何故かとても新鮮に感じてしまうのは、時代が大きく変わってしまったという証左に他ならない。この30年で、日本人の意識の何かが変わってしまったようなのだ。

数多の腹話術人形がギッシリと並べられ得た架台が立ち並ぶオープニングから、瓢箪池のある電気ブランを提供するバー、屋台が立ち並ぶ街並み、最後に瓢箪池の底からビニールの城が現れる圧巻のオーラスまで、どのシーンも賑々しさが充満している。しかし、何故か静謐さも湛えているというアンビバレンツさが、戯曲が孕む此処ではない何処かの世界が透けて見えてくるようで奥深い。

荒川良々が宮沢りえの夫役を担うが、名前に惹かれて結婚したのだという心は此処にない妻の想いを知りつつも離れるつもりのないいじらしさが心憎く胸に突き刺さる。江口のりこの酸いも甘いも噛分けるような気風の良い女っぷりも印象的だ。石井愃一、金守珍、六平直政の御仁がしっかりと脇を固め、アングラの臭いを振り撒き、現代へと継承してくれる。

俳優陣が持つ資質を最大限に引き出し、唐戯曲にスパークさせた金守珍の手腕は見事である。蜷川幸雄へのオマージュとも思われる表現が煌びやかに散りばめられ熱量の籠った逸品は、アングラをしかと継承する可能性をも秘め刺激的に仕上りになったと思う。

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