2016年 6月

ジョン・フォードが描いた同作は1633年に出版されたが、1660年代半ばから1923年までイギリスでは舞台上演されなかったと言う。近親相姦を縦軸に、不倫や殺人が横軸に織り込まれた物語は、現在でも、なかなか刺激的なインパクトを放つが、ジョン・フォードがタブーに斬り込んだ舞台が貴族社会であるところが面白い。但し、物語は異国のイタリア・パルマで展開される。

妹を愛していることを、その兄が修道士に語るところから物語は始動し始める。そして、どうやら妹も兄に対して同じような感情を抱いていることが、次第に分かってくる。そのインモラルな兄と妹を浦井健治と蒼井優が演じるため、近親相姦が純愛に見えてしまうというキャスティングの妙に、演出家の意図を感じ取っていく。

兄妹の回りで振り回されているかに見える、体制側のモラリストと見える人々が属する世界の捻じれた異形の本性が少しずつ露見していく、その常識の概念が覆されていく様を、諦観した視点で描くアプローチが秀逸だ。外連味を廃したリアルさが、登場人物たちの生き様を浮き彫りにしていく。

本作は、こうした栗山民也の演出的アプローチが見事に昇華し、善人とも悪人とも明確に判別出来ない、人間が抱合する業を、切っ先鋭く切り拓き提示してみせる。見た目の佇まいとは裏腹な、内に秘めたる真情をどの登場人物たちからも掴み出していくため、深淵な感情が物語を行き交い複雑に絡み合っていくのだ。物語の奇異性を強調し過ぎることなく、生きとし生ける者の哀切が観る者の胸を突いていく。

舞台はステージに設えられた十字の導線を行き来しながら展開していく。様々な人々や感情が交差する十字路、あるいは十字架とも解釈することが出来、演じ手が動きを限定されることにはなるのだが、物語を整然と語るための大いなる貢献を果たしている。濁りのある赤系統で渋みのある色合いも美しい。その導線の周囲に散りばめられた深紅の花びらも効果的に使われ、時折、ハッとした効果を発し楽しませてくれる。

背景にある壁面が上下左右に開閉することで、そのシーンの本質をシンボリックに刻印することに大いに寄与している。照明の効果とも相まって、センスの良さが滲む可視的なる魅力を大いに発揮している。

浦井健治と蒼井優は一片の花の如く、美しくも朽ち易い可憐さで観客を魅了するが、兄の妹に対する猛執さ度合のゲージに関しては、もっと倍増する位ベクトルを強調しても良かったと思う。ついつい兄妹の純愛に絆されそうになるのだが、禁断の恋であるというアンモラルなヒリヒリした背徳感をもう少々感じたかった。

一番悩ましいと感じてしまったのは、春海四方演じるドナードである。甥が殺されたにも関わらず、殺した本人は枢機卿の計らいでお咎めなし。モノも言わずにひたすら忠臣する様に胸がグッとくる。現代の会社組織にも通じる理不尽さが、薄っすらと重なって見えてくる。

枢機卿を演じる中嶋しゅうは、絶対的な権力を持つ者の威厳と、天上人でありながらも己の私欲を優先する横暴さを併せ持った人物をリアルに造形する。持つ者が持たざる者を疲弊させる圧が、氏が現れるだけで滲み出てくる様は見事である。

間違って人を殺めても悪びれることのない貴族を伊礼彼方が演じ、当時の特権階級の人間の傲慢さと脆弱さを作品に刻印する。物語の裏で権謀術数を張り巡らす召使を横田栄司が担うが、意のままに人を操る策士を嬉々として演じ圧巻だ。物語をぐいぐいと牽引するパワーに思わず目を見張る。

戯曲の奥底から人間の真情を掬い取り、清濁併せ持つ人間の矛盾をリアルに描いて見事である。エリザベス朝時代と現代とがスパークし、深淵で見応えある逸品に仕上がったと思う。

マイケル・フレインの戯曲が、秀逸である。終始、ワクワクとしながら物語の行方を堪能出来る楽しみに満ち満ちた、知的興奮を抱合した極上のエンタテイメントとして成立している。

1941年、コペンハーゲンに住むユダヤ人ボーア夫妻を、ドイツ人ハイゼンベルグが訪れた、その1日を巡る物語である。日本初演時も拝見しているが、同作は、登場人物たちの人種間問題、モラルの在り方、何を選択するべきかの決断など、1941年という時代を生き抜くことのヒリヒリとした困難さが、より前面に出ているような気がする。

約2時間もの間に、たった3人しか登場しない作品であるが、スターが持つ旬な輝きと、永年に渡り蓄積されたスキルとを併せ持った俳優が居並び壮観だ。ドイツの物理学者ハイゼンベルグを段田安則、師と仰ぐデンマークの物理学者ボーアを浅野和之、その妻マルグレーテを宮沢りえが、三つ巴でガッツリと組んだ布陣が、本作の肝となっている。

物語は、既に死した3人の独白からスタートする。1941年の3人が邂逅した1日、その時、一体何が起こったのかと過去を回顧していく。舞台は時空を軽々と超え、3人の意識を俯瞰しながら浮遊してく視点が、妙に可笑しく心地良い。

場は、クルクルと変転していく。登場人物同士の会話や、思いを吐露する独白、状況を説明する独白など、言葉を投げ掛ける相手も瞬時に変わっていく。今がどの時代のどの状況なのかをしっかりと把握しなければならない観る者に課せられた緊張感が、脳内をヒリヒリと刺激してくる。

これは演じ手たちもパワーを全開にして観客と対峙しなければならないため、この上ない微細な表現力が求められるのだと思う。その過酷とも言うべきシーンの連続を、違和感なくスムーズに観ることが出来るのは、演出家が導くアプローチに、俳優陣がしかと応えているからに相違ない。ナチュラルに見えるその水面下では、俳優陣を始めとする本作に関わる人々の才能とスキルとが見事に融合し、完全に昇華し得ている。

演出の小川絵梨子は、難解とも自由に解釈出来る余地が満載とも取れる本戯曲から、そこで起こる事象に左右され過ぎることなく、あくまでもそこで生きる人間たちの心の襞を、細心の注意を払って抽出していく。戯曲を隅々まで検証し、3人の一挙手一投足を徹底して分析していくため、言動が全て腑に落ちるのだ。秀逸なアプローチであると思う。

段田安則演じるハイゼンベルグが、浅野和之演じるユダヤ人である恩師ボーアを慕いながらも、ドイツ人である出自を誇るアンビバレンツさが、登場人物たちの意識を混沌としたカオスへと誘っていく。抽象的な概念を具象に転じてリアルに表現し、人間の哀切が滲み出る。戯曲に翻弄されない強靭さを持ち得て、見事である。

浅野和之が演じるユダヤ人の物理学者ボーアは、ハイゼンベルグが訪れる前より、既に彼には懐疑的だ。一体、目的な何なのであるのかと思いを巡らせているのだ。ハイゼンベルグに対する情と、現在の立場との狭間を逡巡していくが、核心に迫る物語の周縁は曖昧さを増し、なかなか真実を現さない。しかし、そんなもどかしさを氏の軽妙な資質が、深刻さから物語を救っていく。

宮沢りえ演じるマルグレーテは、2人の物理学者を客観的に論じる立場を貫くも、徐々に時空が跋扈する迷宮の世界の住民へと嵌っていく。彼女の存在があったからこそ、奥行きある静謐なる深淵さが生まれたのだと思う。宮沢りえは、謎を謎めいたまま提出するため、安易な謎解きに堕さないフェーズをキープし目が離せない。

観客の創造力を信じる創り手の意気に心して臨むことが出来る、台詞劇であり、ミステリーであり、何よりも時代に翻弄される人間の悲哀を滲ませたドラマとして秀逸である。言葉と演技を余すことなく堪能出来る上質な作品として記憶に残る逸品である。

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