2009年 6月

面白かった。まず何と言っても、さいたまゴールド・シアターの方々全員に当て書きをした、ケラリーノ・サンドロヴィッチの台本が圧倒的にいいのだ。しかもそれぞれの個性を十分汲み上げているため、キャラクターが明確に表現されているのだ。

高校時代に演劇部を指導していた安藤先生は、今は、ポルトガルの地で暮らしているのだが、死を予感した先生は、死ぬ前に一度だけかつての教え子のひとりに会いたいと秘書にコンタクトを取るようお願いする。しかし噂はまたたく間に広まり、ポルトガルの先生の家には教え子たちが大挙して押し寄せることになるというのが導入だ。

先生は皆に会いたいわけではないので、安静ということで部屋に籠もったきりだが、そこで繰り広げられるのは、ここに集う皆の紛れもない今のリアルな会話。かつての思い出話も交わされることもあるが決して郷愁に陥ることなく、皆実に前向きに話し行動していくのだ。何を食べようとか、どこに行こうとか、何故先生に会えないのとか、また些細なことで喧嘩にもなる。老人を識者でもなく弱者でもなく、欲望がまだまだ旺盛なひとりの人間として描いていて溌剌としているのだ。しかし何と言っても色恋に対しても、ますます盛んなところが実にいい。いくつになってもその欲望は衰えることはないのだ。だってそもそものきっかけだって、先生の生徒に対する思慕なわけであるから。

隣に住むポルトガル人は、先生の名前をあんどうと呼べずに、アンドゥと呼ぶ。アンドゥトロワじゃないが、人間いくつになっても始めの一歩を踏み出し手習いを続ける生き物なのではないかという意味合いが、このタイトルにシンボリックに込められている気がした。

先生は部屋から出ないのだが、あちこちに幻となって出没する。そして思い抱いていたかつての教え子をビリヤード台に押し倒したりもする。この悲喜劇! この意識が跋扈するという展開がいい。リアルを越え、意識同士がより近くなるという感覚は良く分かる。そして皆もそのことをことさら可笑しなこととして捉えない。この達観の具合が、大人、である。また、物語の先がなかなか読めないのも、スリリングだ。伏線かと思いきやそうではなかったりと、最後まで、飽きさせることがない。

会場の最前列には演出助手たちがプロンプ要員として張り付いているのもリアルで潔い演出である。これが、今のさいたまゴールド・シアターの現実なのだと言わんばかりである。しかしこのことが虚実の境目を曖昧にさせることとなり、物語の内容ともシンクロしてくるところは天晴れだ。

物語はだんだんと終盤に向かっていくのだが、正直言って、役者さんたちのパワーや集中力が少しずつダウンしてきていた気がした。休憩挟んで3時間30分弱は、台本としては少し長かったのではないだろうか。いらないところがあったと言う意味では全くない。このカンパニーに書き下ろすには、今後、上演時間の考慮が必要なのかなと思う。

よくもここまで見事なアンサンブルに仕上げられたなと演出力に舌を巻いた。ただ、最後に先生の魂が飛翔するシーンなのだが、シーンとしては感動的なのだが、流れる音楽が「美しき青きドナウ」なのだ。惑星のように旋回する魂に、この音楽。どうしてもイメージは「2001年宇宙の旅」に引っ張られることとなり、最後の最後でオリジナリティを欠いたと思う。

パーツが組みあがっていない途中段階のような出来栄えだ。初日ということもあるかもしれないが、役者もまだまだ手探りな状態で演じているような印象だ。演じながらも全体像が見えていない感じ。だから、これだけ一流の役者が揃っているにも関わらず、物語が大きなうねりにならず、奔流となって襲ってくる感情も立ち上ってこない。役者の出自はさまざまだが、その演技テイストの志向性にいかにもくっきりと相違があり、皆それぞれ奔放に演じていることが、また物語が拡散していくこととなる。演技をこういう方向性に持っていきたいのだという、演出家の意図が見えず、全てを役者に任せている感じなのだ。それぞれの役者が演じるにあたりポイントとしているところがバラバラなのだ。

勘三郎は台詞にリズムとテンポを音楽のように注ぎ込むが、露わな感情を放出することなくある種の型=スタイルを保っていく。大竹しのぶは、台詞の中から核となる感情を掴み出し、対する役者によってその感情の表出のさせ方をカメレオンのようにクルクルと変えていく。笹野高史は自然体だ。演出家・串田和美との仕事が長いと言うこともあろうが、役を演じるのではなく、役を生きているかのようなナチュラルさである。役と自分との境目を軽々と凌駕していると思う。古田新太は、独特の存在感で他の役者との差別化を図っているようでもあり、対する相手によっては、例えば大竹しのぶなどとは強烈に感情をスパークさせていくが、その行き来が叶わぬ相手も見受けられる。白井晃は、忠実に物語を再生しようと台詞を明確に語っていくということもあり、その生き様は確実に伝わってくる。秋山菜津子は感情を丁寧に、そして発破を掛けて伝えてくるため勢いがあり、硬質な輝きがある。

皆それぞれいいんですよ、役者の方々は。しかし、あまりにもテイストがバラバラなのだ。役者はもともと物語の部分を受け持つ訳だから致し方ないとは思うが、全体を通して、演出家・串田和美が、役者たちをどう融合させ、あるいは反発させ、この台詞をポイントにするのだというような細かなニュアンスなどはなく、演技を積み重ねていくことで、最後には物語をどの地点に持っていきたいのかと言う指針が不明確なのだ。

長塚圭史の戯曲は詩篇のようでいて、本家「桜姫」の物語の上で苦悩しながらも遊ばさせてもらっているような感じ。ひとつひとつの台詞には、染み入るいい言葉も散りばめられてはいるのだが、それぞれエピソードが分断されたものをつなぎ合わせているので、物語の核が作り難い本なのかもしれない。しかし、演出としての核が不明確で、そのいい台詞も役者任せで語られることもあり、台詞が生の感情として生きてこないのだ。また物語の展開とスパークすることもない。

唯一、演出の意図が明確なのが、物語の合間に挟まれる生演奏のバンドのシーン。この部分には、この物語を一種の祝祭劇として彩ろうという意図ははっきりと分かる。人間喜悲劇を笑い飛ばすかのようなパッションがそこには感じられる。しかし、これはあくまでもアクセントとなるシーンのはず。メインとなる物語の芝居が決して交わることのない異種格闘技戦になっているので逆にこの音楽のシーンが浮き上がることとなり、迫力不足の本編よりも強烈な印象を観客に与えることになる。ブリッジのシーンのはずが、このバンドに物語が集約されていくこととなる。

生バンドは戯曲の流れの中でブリッジであると観ながら解釈していたのだが、ラストシーンで、このバンドが前面に出てきて出演者たちとも絡み幕を閉じることとなる。あれ、このバンドをポイントに持ってきたのは、演出意図であったのだとハタと気付くことになる。このことが最大の問題だ。物語を俯瞰し、いいも悪いもひっくるめて人間の可笑しさを祝祭劇という枠で伝えたいということは分かるのだが、そこで生きた人々の生き様が伝わらないため、バンドが入ることで戯曲の濃度がより淡白に薄められてしまうのだ。祝祭劇というコンセプトを観に来ているのではなく、この滅多にない顔ぶれの役者たちがどうバトルしていくのかが観たいがために12,000円のチケット代を払うのである。何度も言うようだが、役者を指導し切れなかった演出家の力量に疑問を抱いた公演であった。

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