2018年 3月

三浦大輔が原作に因らないオリジナル作品を上演するのは、2014年の「母に欲す」以来であろうか。最近では、映画監督としても多忙の三浦大輔が、演劇作品でどのような手を繰り出してくるのであろうかと期待が高まっていく。

まず驚いたのが、三浦大輔作品には付き物の、性描写を封じているということである。確かに本作は、敢えて睦事を挿入する必然性が無い物語展開であるとは思う。但し、人間同士の間に生じるヒリヒリとした関係性の縺れの筆致は健在だ。

また本作は、シアターコクーンという大劇場での上演でありながら、スペクタクル的な仕掛けは一切ない。台詞劇に徹しているのだが、台詞の応酬は控え目だ。藤ヶ谷太輔演じる主人公の青年は寡黙で、自身の本音をなかなか語ることもない。故に、言い淀んだり、沈黙も多い。会話もオブラートに包まれているようであったりする。青年の回りの人々は、そんな彼に対して無茶苦茶ストレートにきつい本音の物言いをしたりする。いわゆる会話劇と称される作品とは一線を画す展開だ。

徹底的に受け身の芝居を要求される藤ヶ谷太輔が、しっかりと役柄の核心を掴み物語を牽引しているのが見事である。派手な見せ場はなく、台詞の数もかなり少ない。しかし、そんな彼についつい目がいってしまうのは、藤ヶ谷太輔が持つスターとしての資質故であろうか。

この青年役は、演じる役者によって、大きく作品の印象が変わってしまうのだと思う。藤ヶ谷太輔は苦悩する青年を表現しながらも暗い陰鬱さに陥ることなく、救いを感じさせる光明を指し示してくれる。

男と女の関係性に留まらず、男友達や先輩との諍い事、母、父、姉との、それぞれ異なる感情の縺れが、青年を中心として幾重にも絡み合っていく。かつて、何処かで体験したかのような、きっと誰もが遭遇していそうな辛辣なエピソードが静かに連打されていく。

登場人物同士が明け透けな本音を語っていく光景を見ることは、他人の秘密をこっそりと覗き見る感覚にも似ている気がする。そんな特権的なポジショニングで観劇することにより、観る者は気持ち良さを享受出来ることにもなる。

何故、三浦大輔が創造する舞台世界から、観客は目を離すことが出来なくなるのだろう。演劇的に施された言葉は一切廃され、そこで描かれていることが、今を生きる人々とかなり親和性がある出来事であるというのが、その要因なのであろうか。

ごくごく日常的な出来事を、シアターコクーンという大箱において飽きさせずエンタテイメントとして成立させた三浦大輔は、演劇公演に新たな地平を斬り拓いたのではないだろうか。劇場の規模によって、それ相応な外連味は必需なのだと思っていたのだが、そういう概念は全く払拭されたと思う。

台詞や仕掛けに頼り過ぎることなく劇世界へと没頭出来る演劇として画期的な逸品であると思う。これからの演劇制作に一石を投じた衝撃作として記憶に残る公演となった。

三谷幸喜初の新橋演舞場公演である。音楽もスペクタクルもない、台詞のみで大劇場に臨む三谷幸喜に勝算はあるのであろうか。「新橋演舞場史上、最高に笑える作品になるはず」というハードルを上げる三谷幸喜自身の発言も可笑しく、観る前から期待感は高まっていく。

時は大政奉還後の明治初頭。新政府軍が旧幕府軍を打ち破り江戸に向かって進撃を開始する最中、徳川慶喜が自らの命運の全てを託した勝海舟の三田の屋敷の下に、西郷吉之助(隆盛)が訪れることで物語が巻き起こっていくことになる。舞台は終始、この勝海舟の屋敷から変わることはない。敢えて自らに枷をかけているかのような設定自体を、三谷幸喜は楽しんで創作しているかのようにも思える。

物語は、いわゆる、とりかえばや物語。勝海舟との会談を求める西郷吉之助であるが、中村獅童演じる勝海舟は直接面談に腰が引けてしまい、事を案じた屋敷の者たちが庭師の平次を勝海舟に見立てて対応させるという設定が据えられる。庭師平次は松岡昌宏が演じていく。

この設定自体は面白いが、これを1本の芝居に成立させるのには、やはり才を必要とする。観客を飽きさせず舞台を注視させる創作者と演じ手の手腕が、見事にコラボする。堅苦しい説法など一切ない。いかに観客を楽しませようとするかという創り手の、エンタテイメントなスピリッツの意気がストレートに伝わってくる。

クセのある役者陣が居並んだ。中心に屹立するのは勝海舟を演じる中村獅童。偉丈夫さが微塵も感じられない、西郷吉之助と会うのに怖気づく気弱な勝海舟を愛嬌たっぷりに演じていく。女中役の磯山さやかと絡むあるシーンでは、この日のアドリブなのか、徹底的に一つの台詞の言い廻しにこだわりまくり、遅々としてシーンが進むことがない。それが、もう何とも可笑しくて堪らない。ひょんなところで、中村獅童の抽斗の多さというか、観客を飽きさせることのない魅力に絆されることになった。

勝海舟の影武者というか、影に隠れることなく西郷吉之助とのピントのずれた丁々発止を繰り広げる庭師を演じるのは松岡昌宏。てやんでぇな江戸っ子気質も全開に、悪意なく事を良き方向へと向かわせるピュアな思いは伝わってくる。しかし、どこかでこの状況を楽しんでいるとも見え、真剣さが今一つ感じられない他人事な言動が、更に事を複雑にしていく役回りを松岡昌宏は嬉々として演じていく。

相手をかわそうとする嘘を重ねていく内に、その状況を後押しする皆が段々と深みに嵌っていく様が、観客の爆笑を誘っていく。笑いの本質とも言うべき“ズレ”の異化効果が矢継ぎ早に畳みかけてくるため、舞台から目が離せなくなっていく。

役どころの性格のエッジがそれぞれ際立っているため、どの役者の資質も上手く引き出されているのが見事である。思うに宛て書きであろう戯曲の面白さに寄るところが大きいのだとは思うが、登場人物たちが右往左往しながらも活き活きと舞台上で闊歩する姿に、観る者がエンパワーされていく様なのだ。

「江戸は燃えているか」というタイトルは、「パリは燃えているか」という1966年制作の米仏合作の映画の邦題からとられたのは明らかだ。笑いを散りばめながらも、戦いの先にある彼の地の動静を憂うる思いが通底音として作品に流れているところは共通しているのだと思う。エンタテイメントに徹しながらも、憂うる社会状況を透けて魅せるアクセントが効いた喜劇として一級品だ。

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