三浦大輔が原作に因らないオリジナル作品を上演するのは、2014年の「母に欲す」以来であろうか。最近では、映画監督としても多忙の三浦大輔が、演劇作品でどのような手を繰り出してくるのであろうかと期待が高まっていく。
まず驚いたのが、三浦大輔作品には付き物の、性描写を封じているということである。確かに本作は、敢えて睦事を挿入する必然性が無い物語展開であるとは思う。但し、人間同士の間に生じるヒリヒリとした関係性の縺れの筆致は健在だ。
また本作は、シアターコクーンという大劇場での上演でありながら、スペクタクル的な仕掛けは一切ない。台詞劇に徹しているのだが、台詞の応酬は控え目だ。藤ヶ谷太輔演じる主人公の青年は寡黙で、自身の本音をなかなか語ることもない。故に、言い淀んだり、沈黙も多い。会話もオブラートに包まれているようであったりする。青年の回りの人々は、そんな彼に対して無茶苦茶ストレートにきつい本音の物言いをしたりする。いわゆる会話劇と称される作品とは一線を画す展開だ。
徹底的に受け身の芝居を要求される藤ヶ谷太輔が、しっかりと役柄の核心を掴み物語を牽引しているのが見事である。派手な見せ場はなく、台詞の数もかなり少ない。しかし、そんな彼についつい目がいってしまうのは、藤ヶ谷太輔が持つスターとしての資質故であろうか。
この青年役は、演じる役者によって、大きく作品の印象が変わってしまうのだと思う。藤ヶ谷太輔は苦悩する青年を表現しながらも暗い陰鬱さに陥ることなく、救いを感じさせる光明を指し示してくれる。
男と女の関係性に留まらず、男友達や先輩との諍い事、母、父、姉との、それぞれ異なる感情の縺れが、青年を中心として幾重にも絡み合っていく。かつて、何処かで体験したかのような、きっと誰もが遭遇していそうな辛辣なエピソードが静かに連打されていく。
登場人物同士が明け透けな本音を語っていく光景を見ることは、他人の秘密をこっそりと覗き見る感覚にも似ている気がする。そんな特権的なポジショニングで観劇することにより、観る者は気持ち良さを享受出来ることにもなる。
何故、三浦大輔が創造する舞台世界から、観客は目を離すことが出来なくなるのだろう。演劇的に施された言葉は一切廃され、そこで描かれていることが、今を生きる人々とかなり親和性がある出来事であるというのが、その要因なのであろうか。
ごくごく日常的な出来事を、シアターコクーンという大箱において飽きさせずエンタテイメントとして成立させた三浦大輔は、演劇公演に新たな地平を斬り拓いたのではないだろうか。劇場の規模によって、それ相応な外連味は必需なのだと思っていたのだが、そういう概念は全く払拭されたと思う。
台詞や仕掛けに頼り過ぎることなく劇世界へと没頭出来る演劇として画期的な逸品であると思う。これからの演劇制作に一石を投じた衝撃作として記憶に残る公演となった。
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