本作は、訳あって江戸から東北に流れついた、日本橋の薬種問屋の跡取り息子とたいこもちの珍道中の物語である。井上ひさしが山形県出身ということもあり、氏の作品は東北を舞台にした作品が多いが、奇しくもこの時期に本作が上演されるということは、何かの因縁のようにも感じてしまう。
また、初日が5月2日ということもあり、明らかに震災後に稽古が開始され、作られていった作品と言うことになる。この戯曲がどのように演じ、演出されていくのかに期待が募る。
開幕すると江戸の街並みが舞台上に広がり、その装置の陰や下などから出演者が一斉に立ち現れ、出演者のお披露目が成される。蜷川作品では、冒頭に出演者の顔見世が行われる演出はしばしばあるのだが、今回は、「ようこそ、このような時期に劇場に足を運んでくださいました」というような無言の目力が役者の方々から感じられ、劇場内がほのかな一体感包まれていくのを感じた。
物語はスタートする。時は慶応4年、幕末の時期である。尊皇攘夷を叫ぶ薩摩侍と女郎・袖ヶ浦の取り合いでいざこざを起こした清之助と桃八は海へと舟を漕ぎ出すが嵐に巻き込まれてしまう。そこで助けられた船は東北に向かう千石船で、二人は陸中釜石の地に辿り着くことになる。そこから、良い目に逢えば悪いことに巻き込まれ、騙し騙されながら、流転の道中が展開されていくことになる。
清之助を演じる中村橋之助と桃八を演じる古田新太のコンビが絶妙だ。慕い慕われる関係でありながら、ベタベタとした付き合いではなく、どこかキッパリとした線引きもあるところが面白い。粋、である。しかし、膨大な台詞量を始めとして、様々な芸事の抽斗が要求される役どころである。観客にとっては楽しいシーンが展開していくのだが、演じる役者にとってはこの上ない過酷な労働であると思う。しかし、そこが面白いのだ。極限に近いところまで力を振り絞ることで現出するある種のエクスタシー感が、観客の気持ちとシンクロしていくのだ。
演出的にも面白い工夫が沢山詰まっている。船が江戸を遠ざかる風景を、後方でスタッフが手にした富士山の書割を上手から下手へと連続させて移動させていくのだが、次に上手から登場する時には富士山が小さくなっているのだ。このシーンに限らず、それぞれの場面が1編の書割のような印象で、まるで紙芝居の紙を捲るかのように場面が展開していく。
役者陣も実力派が揃い、いい意味で力を抜いた名人芸でなかなか楽しませてくれる。事の発端となる女郎・袖ヶ浦を始め何役もの役どころを演じる鈴木京香は「カノン」以来の舞台出演だが、華と度胸を兼ね備えた気風のいい女振りが格好良く、舞台に色香を振り撒いていく。六平直政のコミカルな存在感は作品に芳醇なふくよかさを与え、瑳川哲朗の重厚さは随所で場面を引き締める。
9年に渡り東北を放浪した2人であるが、ようやっと江戸へと帰還すると時代は明治元年。すっかりと様相を変えた江戸は、東京となって2人を迎えることになる。1個人が生きることとは全く別次元で動いている体制側との落差が、ここで大きく浮き彫りになる。この浦島太郎状態になってしまう危惧に、井上ひさしは警鐘を鳴らしていく。常に、庶民に眼差しを向けてきた氏の愁いは時代を経ても、今もなお連綿と続いているのではないか、と。そのことを、日々、実感させられる状況下にある“今”の私たちの胸に、グサリと刃が突き付けられる。
市民たちは、江戸から東京となった町で「ここから日本は変わるのさ」と大合唱をして作品は大団円を迎えるのだが、その後に、さらなる衝撃が待っていた。伊藤ヨタロウのアレンジの「アメージング・グレイス」が流れ、冒頭と同じように出演者全員が舞台上に集合すると、舞台の上下から、まるで北斎のようなタッチの「波」の書割が押し寄せてくるのだ。
まさに“今”、この戯曲を上演することの意義が見事に結実し、弩級のインパクトを観る者に与えてくる。先程歌われていた「ここから日本は変わるのさ」のフレーズが、頭の中でリフレインされてくる。舞台が生の芸術であることが勝利を勝ち得た瞬間だと思う。この締めくくりにより本作は、忘れられない作品として私の心に残り続ける1作になった。秀作である。
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