ドラムンベースのリズムにのり舞台が開くと、フェリーニの「サテリコン」に出てきた迷路に迷い込んだ白馬のごとく、一頭の白馬が舞台奥から走り込んで来る。しかし、白馬は方向を取り間違い転倒してしまう。すると、空から馬や豚やヨーク家ランカスター家の紋章でもある白薔薇赤薔薇がどかどかと降ってくる。ダミアン・ハーストのモチーフのようなそれらの落下物は、ダミアンの作品の中に潜む「生と死」というテーマと同様に、見る者を否応無しに不愉快にしながらも、人間にとっての逃れられない呪縛「エロス/タナトス」を突きつけ、市村正親の独白で舞台は始まっていく。開幕シーンは初演の時と同じ衝撃を与えてくれた。
何といっても市村正親が圧巻である。ジョーゼットのマントを羽織り軽やかでセクシーなリチャード三世は、疎まれたこぶ男というキャラクターを越え、人間の欲望を掬い取って観客の共感を獲得するまでに至っていた。もはやシェークスピア劇の域を超え、観客の心を手玉に取る市村正親は本物のアーティストだ。市村正親を得て、この作品はより普遍性を持ち得ることとなった。特に、1幕の終盤、王に推され1人になったリチャード三世が、隠れ蓑で携えていた聖書を放り投げニヤッと笑みを浮かべ成功への階段を昇っていくシーンなどは、悪の美しさの打ち震えてしまう程、格好良い。
後半リチャード三世は、独占欲と猜疑心に満ちた言動で側近の者を翻弄し、自分の敵と見るや、その者たちをどんどん殺していくことで、自分が生きる道を模索していく。しかし、その先に答えなどなく、最後に行き着いた先は自分自身でしかなかった。「ああ、俺は俺を愛している。なぜだ。」なのだ。
女優陣も健闘している。夏木マリは芯を崩さず生きていく揺れる女心を謳い上げ、香寿たつきも一瞬にして変化する不安定な心持を凛と演じ上げた。
終幕、清廉なリッチモンドが王に即位するが、いくら誠実な人物といえども権力ゲームの登場人物であることには変わりはないとは言わんばかりに、演説中にも拘らずオープニングと同様に様々な落下物が降り注ぐ中、幕を閉じていく。オープニングとエンディングを同じ効果で振り分けながら入れ子細工の中に封じ込めるように描くことで、悪と権力のひとつのサンプルとして抽出することに成功した。
ブーメランのように繰り返される権力闘争は、今も懲りずに世界中で当たり前のように跋扈している。2003年、日本を越えた世界言語として、毅然とグロテスクに華開いたこの舞台の美しさは絶対だ。
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