2016年 2月

蜷川幸雄の入院により、藤田貴大作の「蜷の綿」の公演が順延された。同じ戯曲において、違う演出家、蜷川幸雄と藤田貴大が競演するという、かつて蜷川幸雄が野田秀樹と同時上演した「パンドラの鐘」のような楽しみを味わえることを期待していたが、その穴を埋めるカタチで上演を決めた藤田貴大がかつて上演した作品を再編集した同作に、完全ノックアウトさせられることになるとは想像だにしなかった。

通常、マームとジプシーの公演は、客入れの時間に出演者が舞台に立ち現われ、漂うように存在しながら、開演と共に袖へと消えていくことが多いが、本作では、開演時まで登場人物が舞台に登壇することはない。観客はベンチが置かれたアクティング・エリアを見つめて開演を待つことになる。

物語は、どうやらある町が舞台となっているようだ。今は社会人となっているその町で生きるかつての同窓生たちとその周辺の人々が、共に行動し、偶然道端で出会い、過去に時空を遡ったりしながら、何気ない日常の一瞬をリフレインさせることで、ある種の“違和感”を染み出させていく。その何かがしっくりときていない“違和感”は、中心軸を大きく欠いたような「喪失感」へと変奏していく。

コミュニケーションを取ろうとすればする程、他者との間に決して交わることの出来ない溝が在ることを、皆が認識していくことになる。その事実を登場人物たちは自覚しつつも、そういう自分を俯瞰して見る「俯瞰の視点」も獲得していく様な気がする。皆が抱えて生きる「喪失感」と「俯瞰の視点」とが共振し合う、震えるような苦渋の想いを繊細に掬い取り、失われた何かを観客にじんわりと想起させていく。

失ってしまったものは一体何だったのかを巡る推理劇の様な途中までの展開は、抽象性を帯びている。永遠に、その失われたものが明確にならなくてもいいのではないかという想いが頭をもたげてくる。観る者は観客席という安全圏に存在しているため、思う存分他者の哀しみに寄り添うことが出来るのだ。虚構の中のリアルに浸れること、他者の哀しみに寄り添うことの、心地良さ。

しかし、物語が展開していくに従い、真実が浮かび上がってくる。ある人を失ったことが、中心軸にあったことが明らかになるのだ。曖昧であった状態と、核心が急に明確になったことの驚きに折り合いを付けていくという刺激を受けつつ、新たな展開を示す物語の中に、再度、没入していくことになる。

「夜、さよなら」「夜が明けないまま、朝」「Kと真夜中のほとりで」という3作を融合させたことによる作品のゴツゴツとした感触も、藤田貴大の脳内では想定内であるに相違ない。この「違和感」が、無理なく作品の本質へと肉薄する「喪失感」へとリンクしていく。何かを失うということは、心の奥底に何かしらのしこりを残すものなのだ。心のさざなみとも言うべき展開が、胸に深く突き刺さる。

登場人物たちの感情がパラレルに散逸するのだが、「真夜中のほとり」で皆が獏とした哀しみを共有する終盤のシーンが印象的だ。未来は拓かれていくのだという可能性と、拭い去ることの出来ない哀しみが綯い交ぜになった混沌とした状態が、まさに“現代”なのだと感じ入る。そのことを、左脳ではなく右脳に訴えかける在り方に、心が癒されていく様なのだ。

観劇後の帰り道、同作を思い起こすと、何処からともなく嗚咽が沸き上がってくることに、自ら驚くことにもなる。現代を生きる人が抱える喪失感を繊細に描き秀逸であった。

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