2015年 6月

会場内に入ると、そこはクラッシックのコンサート・ホール。客席とステージとが、もの凄い近い距離なのには驚いた。オーソドックスなプロセニアム・シアターとは様相を異にする劇場構造に、観る前からグッと親近感が増していく。舞台前面にはオーケストラ・ピットの様な囲いはないため、オーケストラの面々が座るスペースとステージと観客席とが一体化する。

ステージ上には大きな3つのボックスの様な装置が据え置かれている。この物体が、出入り口に、壁に、箪笥にと、様々な様相へと変幻自在に変転していくことになる。このシンプルな設定に、オペラの豪奢なイメージが覆されることになる。

野田秀樹演出は、名作オペラを額縁の中に綺麗に収めるのではなく、作品の中で生きる登場人物たちを活き活きと、生々しく提示することに注視しているようだ。そして、何よりも一番のサプライズが、このモーツァルトの名作歌劇を、原曲におけるイタリア語と、その言葉を野田秀樹が自ら和訳した日本語とを、混声させながら展開していくということだ。

音楽的な見地からは、この作品をどう捉えるのであろうか。革新的と見るのか、邪道と映るのか。おおよそ、あらゆる反応を想定してこのような設定を設けた野田秀樹は、2015年の日本に、本作をどのように提示するということに腐心しているのだと思う。そこが、唯一無二のオリジナリティを生むことになるが、その果敢な挑戦をどう捉えるかということが、本作の評価を分けるポイントになってくるのだと思う。

音楽を朗々と歌い聞かせることと、軽演劇のような可笑し味ある演技とを共存させていることも、また、新鮮な驚きを観る者に与えてくれる。荘厳で上品なイメージがあるオペラとは一線を画す、まさにタイトルにも冠されているように「歌劇」という言葉に収焉していく。なんと、マエストロ・井上道義も、この「歌劇」に、ごく一部ではあるのだが、演者として参加するのにも驚いた。

野田秀樹がオペラを手掛けるのは、2004年の「マクベス」以来だが、前作とは異なるアプローチにて、観客の既成概念を逆手に取りながらも、飄々と新たな地平を切り拓いた画期的な表現方法が、妙に違和感なく心にストンと腑に落ちる。王族たちにではなく、市民のために創作したというモーツァルトの意思が継承されたような印象すら感じられる。

小林沙羅と大山大輔が、スザンナ、フィガロを演じ、主に日本語で詞を歌い上げる。演劇的な要素が大きく求められたのだと思うが、軽妙に新しい挑戦に果敢に臨み、見事に成就した。ナターレ・デ・カロリス、テオドラ・ゲオルギューは、アルマヴィーヴァ伯爵と伯爵夫人を担い、主に原曲のイタリア語を弄し、原典のスピリッツを体現する。

TV「家政婦は見た」を想起させられる、本作のサブ・タイトルは「庭師は見た!」であるが、廣川三憲が演じる庭師アントニオが狂言回しになっていることが、男女のさや当ての可笑しさを、パースペクティブに浮かび上がらせていく。この視点が観客の意識とシンクロし、古典が現代へとグッと迫ってくるのだ。

何の予備知識がないまま観ても、面白可笑しく、気軽に楽しめる歌劇として成立した快作である。しかし、そこに至るまでには、様々な出自の出演者が集っていることや、日本語が駆使されるという仕掛けも施されているため、創作するプロセスには様々な工夫や智慧が注ぎ込まれたに相違ない。軽やかに見えるその水面下での仕事振りが、揺ぎ無い基盤を形成しているため、チャレンジングな表現方法にも関わらず、実に安定感ある出来栄えになっているのだと思う。

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