2007年 6月

6月26日(火) 全国書店にて絶賛発売中!

今、注目のスピリチャリスト・松下仁美さんの本を出版することになりました。

題して「パワーストーン シンデレラ」。サブタイトルは、“美的オーラはキレイの秘訣”です。

本書は、パワーストーンをただ紹介するだけではなく、読んでいただく皆さんそれぞれの方々が、自分の生活の中にパワーストーンをどう取り入れていけるのか、どのように役立てていくのかを、キレイな写真や可愛いイラストを万歳して、分かりやすくプレゼンテーションしていきます。

専門書のような堅苦しさは全くありません。手に取った、その瞬間から、どなたにも幸せが舞い降りてくるかのようなビジョンが広がっていくはずです。

著者の松下仁美さんは、パワーストーンのみならず、レイキやヒプノ、アロマ等々、多彩なジャンルに精通するプロフェッショナルです。そんな、松下さんの多岐に渡る活動フィールドも、もれなく紹介しています。

また、この本を出版するにあたり、本の内容と連動したショッピングサイトもオープンする運びとなりました。どのパワーストーンが、今のあなたに必要なのかが分かる診断も盛り込んでありますので、今まで機会のなかった方々も、手軽にお試しできるチャンスです。ご紹介している商品もアクセサリーが中心ですので、普段使いで身につけることができるものばかりです。

自分を護り、またより一層運気を上げていくための手助けをしてくれるパワーストーン。自然の力を、是非、あなたの中に取り入れていきませんか?

ショッピングサイト

クサカワ ハジメ

さいたまゴールド・シアター第1回公演である。蜷川幸雄が提唱した、55歳以上の団員による演劇集団である。確か、1年位前より、レッスンを開始しているはずである。全くの未知な集団の公演である。何の先入観もなく、開幕を待った。

舞台は、役者たちが、ステージである客船のデッキに、ふらりと、姿を現してくることで始まっていく。1年の訓練を積んだ者をもはや素人と呼ぶことは出来ないが、気負いのない自然な存在感が、とてもリアルに感じられてくる。無名であるがゆえの特権であろう。まるで、その人物そのものがそこに実在しているかのような、錯覚に陥ってしまう。役者と役柄が混然としていくのだ。

集団を描いては右に出る者がいない蜷川幸雄の繊細な指導の賜物であろうか。役者ひとりひとりが、確かにそこに何らかの思いを抱き悩みながらも、確実に存在しているのだ。それぞれの行動の裏付けが、どの役者の中にも明確にあるため、表層的な浅薄さはない。むしろ、今までに蓄積されてきた人生の重みを最大限の武器として、その実人生と戯曲の話とを絡ませながら、独自の世界観を作り上げているのだ。このメンバーであるから成し得たオリジナリティに溢れている。

岩松了の戯曲も素晴らしい。リストラされたホテル従業員を乗せた客船は、彼の地で建設中のリゾートホテルに向かっている。皆は、その地で再雇用されることになっている。しかし、本当にそこで働くことが出来るのか? また、途中、漂流する難民を助け引き上げるが、些細な行き違いが広がり、船上には不穏な空気が流れ始める。シルバー世代の行方を案じる寓話が、リアルな肉体を借りることで、現実の話のような様相を帯びてくる。また、言葉の通じない難民が登場することで、視点は世界に広がり、ある世代の憂いを飛び越え、生きていくことの奥底にある普遍的な悲しみを炙り出していく。

皆の間で、少しずつ気持ちの行き違いが広がっていく。いじめではないが、異分子であると認識された者が仮想敵とされ、糾弾の標的になっていく様は、人間の本質を暴いているようで、その暴力性に思わず愕然としてしまう。特に、終章に向けて、船上の人々と難民との間には、決定的に埋められない溝が出来ていってしまう。こういう時の人間の思考の怖さというものも、実感した! 相手を敵であると思った瞬間より、相手の全ての言動への理解度は、ゼロに帰してしまうのだ。敵のことは、理解しない、ということなのだ。今、世界の、そこ此処で起こっている、様々な紛争が、アタマをもたげてくる。戯曲の内に仕組まれた、毒が、ジワジワと染み出し流れ出してくる。幾重にも交錯していく展開に、目が離せない。老成した果てにある希望は、世界へとつながっていくのだ。

難民と諍い、その内のひとりをつるし上げて叩きのめす。その時、老人が打ちひしがれた難民に向かって「何処へ向かっていくのだ!」と叫び上げる。自戒の念とも、世界を憂うるともとれる、その言葉はズシリと重い。不寛容さがこの今の現実を生み出してしまったのではないのか、そして、それを生み出してしまったのは誰なのか? この糾弾の先には、一体、誰がいるのだ! それは、個々人が考えていくべき命題なのであろう。

ラスト、道化のようにチュチュをまとった白塗りをした男性2人が、返り血を浴び、瀕死の白鳥のようにフラフラとたゆたう姿が圧巻である。誰もが、きっと、多かれ少なかれ、血を流して生きてきたのだ。「船上」は、「戦場」とも、言い替えることが出来るかもしれない。思い悩みながらも、生き続けるしかないのだ。荒廃を救うも放り出すも、自分次第。戦いながらも、どう生きるべきかを模索し続けていくのだ。きっと、多分、死ぬまで、この巡礼の旅は、終わらないのだ。

1時間10分という上演時間の中にグッと濃縮されて表現されていたのは、人間の在り方、そのものであった。それは、世界そのもの、とも言い替えることが出来るかもしれない。人が生まれ生きているというこの現実、そのこと自体に疑問符を突き付けられたような衝撃に、少しずつ自分の細胞が洗脳されるがごとく、この劇世界に侵食されていってしまうようなのだ。

日常生活の中で自然に身につけていると思っている理性や知性というものが、何らかの理由で壊れてしまった時、その地点からの行動には、起因となる理由など全く存在しないのだという底なし沼のような恐ろしい現実を見事に暴いてみせた。筒井康隆の原作を得て野田秀樹が描くのは、日常から照射された非日常の光景である。彼岸で展開されている戦争は、決してひとごとではなく地続きの延長線上にあるのだが、それに気付かない振りをして過ごしている意識の矛盾を鋭く突きまくる。

ある日帰宅した父は、自宅が犯罪者に占拠され、妻と息子が人質になっている事実を突き付けられる。煽るマスコミ。そして、警察に促され、犯罪者を説得するために向かった場所は、その犯罪者の妻と子どものいるアパート。そこで、父は、突然豹変する! 同行した警察官を殴り外に放り出し、その犯罪者の家を占拠してしまうのだ。

このバイオレンスな行動は、敢えてどの戦争に置き換えて説明する必要もないであろう。人間、誰もの中に眠っているであろう、人智を超え善悪を問えない地平にある意識、ある種の本能のようなものが、全ての要因なのだ。しかし、それは、はっきりと確認出来る種類のものではない。暴力の衝動は、不可解なのだ。防衛本能とも取れるが、それは知性がする解釈である。理由のひとつでしか有り得ない。

そんな不可解を現実世界に持ち込んだ時、一体そこでは何が起こったのか? これは、実験、であるのかもしれない。誰に対しての、実験か? もちろん、それは、この劇を観に来た観客たちに対してである。観客が、この光景を観てどう感じるのか。いろんな「ロープ」から、本能に近い幾本かをセレクトし、何故それを選んだのかという理由を、一切、語らないことに対して、どう思うのか。私が感じた感情は、恐怖、であった。

占拠した家では、監禁、妻へのレイプ、子どもの指を日ごと切り落とし相手の犯罪者に送りつけていくという陰惨な毎日が繰り広げられるが、このねじれた現実が、だんだんと、日常化していくこと、その、恐ろしさ。その光景を、ポップに、身体を駆使して語っていく、野田演出の面白さ。

時折、蜂が飛び交い、アタマを悩ませる。まるで、アタマの中の、決して結び付くことのない回路同士が、蜂が舞うことで引き寄せ合い、今までにない能力を誕生させてしまったかのような違和感に、感情が引きずられていく。

ことの顛末は意外とあっけない。全ては無に回帰し、何事もなかったかのように、ヒトもモノも、そして、そこで起こっていたであろう事実も、ただ、蜂がたかるゴミと化して堆く積まれていくだけなのだ。

永遠に解決しないメビウスの輪の中に閉じ込められているような自分を感じ、またもや戦慄を覚えてしまうのであった。

感動した! こんなにも演者が、思う存分、溌剌とイキイキ動き回っている姿を観せてくれ、また、観客にもその演じている楽しさがストレートに伝わり、何だか、ガツンと熱いハートを直球で投げ込まれたような震えがきた。

服部有吉の公演であり、彼が目当てで集まった観客も多いであろうが、ダンスに関しては、服部有吉は自らがメインで前面に出過ぎることなく、他のダンサーたちといいバランスを保ちながら、コラボレーションしていることも、好感度がアップした要因のひとつだ。ダンサーたち皆に均等な見せ場を作ることで、それぞれの個性が引き立ち、作品全体にふくよかな広がりが生まれてくるのだ。

また、金聖響のタクトにも敬意を払っていることが観る者にも心地良く、シーンによっては、音楽演奏だけたっぷりと聴かせる場面もあるくらいである。ジャズピアニストの松永貴志とのセッションにもいい緊張感があり、即興風演出を織り交ぜながら、観客の心をグイとステージに魅き付け離さないテクニックにも脱帽である。

ドビュッシーの「月の光」から、ステージは始まる。プロローグの位置付けであるが、6人のダンサーたちが、それぞれ別々の動きを見せることで、観客に集中力を喚起させ、一気に舞台へと目が釘付けにされていく。途中で、迷彩パンツに黒いタンクトップのHIPHPOのりのジェト団のような一群が現れ、微かな驚きがあった。6人の個性あるダンサーたちと、若手のダンサーとの融合! 本公演のテーマを視覚化する意味でも、このチームは絶妙な編成であると思う。

音楽は、メンデルスゾーン「イタリア」、バーバー「アダージョ」、シェーンベルク「浄夜」と続いていく。一旦休憩を挟むが、この3曲で、あるひとつのストーリーが展開されていくことになる。融合、コミュニケーション、伝承というワードが観ていて浮かび上がってくる。

あること、例えば伝統のようなものを伝えていく場合、当初は着慣れない燕尾服をまとうようなことかもしれないが、装うことで慣れ親しみ、そこから新たなものが生まれるかもしれない。しかし、新しさも慣れると権威にすり替わることもあるだろう。そうすると容赦なく引きずり下ろされることにもなりかねない。そういう時は、いっそのこと、一旦全て脱ぎ去り孤独な身に自らをさらすことで、次なるステップに進んでいけるのではないか。しかし、最後は、人だ。人を理解し気持ちを融合させることで、初めて深くコミュニケーションが出来、信頼が生まれてくるのだ。何だか、彼らの舞う姿から、そんなことを感じていった。服部有吉のダンスには、物語がある。そしてそこから詩情が立ち上ってくるのだ。そこが、心の琴線に触れ、気持ちが揺り動かされるのであろう。

ダンサー同士が、肩や足を叩き合う仕草が印象的だ。殴る、のではない。この、叩き合うスキンシップ! 意外にも、忘れていた、何か、を思い出させてもらった気がした。

そして、最後はタイトルにもあるように、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」で、皆が弾け飛ぶ。自分の技を競い合う子どものように、皆が超絶のテクニックを存分に披露してくれる。いやあ、実に楽しそうで、ウキウキしてしまう。そして、冒頭の「月の光」でエンディングを迎える。オーラスは、オーケストラ団員が徐々に席を離れる中、松永貴志にスポットが当たり、そして最後に、誰もいないステージに残る金聖響にスポットが当たり静かに溶暗していく。紗幕が下りる。

カーテンコールもいいなあ。スルスルと紗幕が上がると、先程迄は席を離れていたオーケストラ団員全員が揃っているのだ! この粋な演出といったら! 最後の最後まで、演出の細かな気配りが行き届いているのだ。アーティストの旬を感じさせてくれる、稀有な公演であったと思う。感動した。

舞台セット上部の堀の上の緑の雑草が、照明によりだんだんと赤く染まっていく。夕陽ではなさそうだし、血を連想させる赤でもない。どういう意味? とか思っていると、舞台上下と舞台端からスモークが流れ出す。そのスモークの出所がはっきりと分かるので、何か無理やり状況を作っている感じがする。1~2分くらいかな、結構、長い間、そのスモークが1階会場の床に浸透するまで、吐き続けられる。客席の一番前の客が、スモークを手で仰いでむせている姿が可笑しい。

会場が暗闇に包まれる。会場中を重低音の唸るような音が包み、ブルブルと劇場内の空気を振るわせる。戦争の恐怖感? それとも兵士の心象風景? などと思っていると、ほの暗い会場の奥から2人の兵士が登場してくる。主演の坂本昌行と兵士役の市川しんぺーである。ああ、ここは夜の戦場という設定なのか、とは思うが、じゃあ、この大量の煙は何? とか思っている中、芝居は始まっていく。この後、すぐ傍で起きた砲撃の爆風で、2人は塹壕へと吹っ飛ばされることになる。幕開きから、大量の疑問符が降ってくるのと比例して、気分はだんだんと冷静になっていく。

塹壕に放り出された2人。倒れたままの友人ツェラを残し、坂本昌行演じるチキが偵察にその場を離れている隙に、内田滋演じる敵兵ニノが現れてくる。塹壕の中を調べ、そして、地面に穴を掘り、そこに地雷を仕掛ける。その地雷の上に倒れているツェラを寝かせるニノ。身体を動かすと地雷が爆発するという仕掛けである。そこに偵察からチキが戻り、ニノに銃を突きつける。そして、今まで微動だにしなかった倒れたままのツェラが声を発し、実は生きていたことが分かる。そこから3人のシーソーゲームが始まる。

このブラックユーモアに覆われたアイロニーな舞台設定そのものが、この作品の肝である。敵兵と共に居続けなければならないという状況。何のために戦っているのかというバカバカしさが頭をもたげてくる。しかも、まさに、爆弾、も抱えており、ツェラが動くと殺傷能力が50m四方に及ぶ効果により、自らも命を絶たれてしまうという四面楚歌状態。政治倫理、宗教、使命、復讐、などあらゆる観念が渦巻くが、何処にも突破口はない。国連軍が救出に来てくれるのを待ち続けるしかないのだ。

演じる役者も、作る演出も真面目である。真面目過ぎる気がする。映画は映画で別物なのではあるが、同郷のクストリッツァなどの作品も思い浮かべついつい比較してしまうのだが、あらゆる混沌を突き抜けた先にある生命力とでも言おうか、混乱する現実を高らかに笑い上げる達観したシニカルさなどは、ここにはない。

坂本昌行は真摯に役に取り組むが不真面目な隙を作らないためチキのリアルな人間性がほころんで見えてこない。また、銃を持ち構える時に瞬時に走る緊張感のようなものが伝わらない。内田滋はテンションを上げて奮闘するが、緊迫した意識を維持出来ず空回りしている。これは、演出の指導も反映されているのではないか。ゆったりと緊迫感との緩急が薄いため全体的にメリハリがないのだ。市川しんぺーの存在が曖昧でいい。敵でも味方でもないという立ち位置がぶれず、見ていて安心出来る。浅野温子には驚いた。この戦場において、その格好はないだろうとは第一印象。3階席からも決して素ではないと分かるくらいバッチリ施された舞台メイクと、うねるようなソバージュのウィッグ。また、迷彩服をまとってはいるのだが、折り目さえついた汚しが一切な衣装は、まるでパリコレだ。この役が、天使なのか悪魔なのか、みたいな超越した次元で語られ、演じられているのであれば、それはそれで納得するが、一本調子で演じられる裏も表もない深みのないアプローチであるので、天使でも悪魔でもないのだ、と言うことだけはよく分かった。

私にも戦争や戦場は分からない。しかし、戦いを掘り下げて考え、また、その奥に潜む人と人とのコミュニケーションを問うという思考や作業を経て作品を生み出している訳であろう。タレントさんの嗜好と作品の整合性とのコントロールも含め、作・演出の、技量が、問われた作品だと思う。突き詰めていく前段階で混沌としているような空虚さを感じてしまった。カーテンコールは2割の観客がスタンディングオベーション!? でした。きっと、坂本くんファンは満足出来たのでしょうけどね。

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