2017年 9月

勝地涼と笠原秀幸の二人が立ち上げたユニットである。勝地涼の兄と笠原秀幸が友人であったことから、「ともだちのおとうと」というユニット名が冠されているようだ。自分たちがやってみたいことをやりたいという思いが詰まった一回目の公演は、実に面白かった。

脚本・演出を石井裕也監督が担っているということも、本作を観たいと思った大きな要因であった。氏が映画で描くリアルな感情表現には共鳴することしばしばであったが、演劇というステージにおいて、映画とは異なるアプローチを仕掛けていることが新鮮であり、新たな驚きも与えてくれることにワクワクしてしまった。

時代設定は、何かの戦いの後の様な、荒廃とした世界。そんな世界に生きる勝地涼演じるロドリコは命を絶とうとしているが、果たせないでいる若者だ。一見、近未来に見えるこの設定は、もしかしたら、現代のメタファーかもしれないと思いを巡らせる。

そんなロドリコは、宇宙船を購入しようとディーラーを訪れる。宇宙船が購入出来る世界というのは、ちょっとわくわくする。近未来の設定なのかもしれないが、もはや時代設定はどうでも良くなってくる。

宇宙船のディーラーは、笠原秀幸演じる高校時代の親友クルピロで、久しぶりに邂逅した二人は、その出会いを喜び合う。そして、ロドリコはクルピロに宇宙船で夢に向かうのだと語る。勝地涼と笠原秀幸にとっての宇宙船はこの舞台で、二人で夢を掴むのだというリアルと本作の設定とがクロスオーバーする。

勝地涼と笠原秀幸の熱い思いを、石井裕也が見事に掬い取る。今の人生に満足しているのか、くやしくはないのかと、自ら問いただす姿は、もはや演じるという域を超え、今を超克しようともがく男二人の生々しいあがきが滲み出る。

宇宙船を購入したロドリコは、クルピロと共に、希望を目指して宇宙へと旅立つことになる。技術的な問題などはすっ飛ばし、二人きりで異空間へ飛び出し、未来を希求していく光景は何だか心地良い。これからどう生きていくのかを模索していくはずなのであるが、過去の出来事を呼び起こしながら、相手よりも優位なポジションに立ちたいという男のエゴも噴出させていく展開が面白い。

暇に任せて、役割を設定してロールプレイングをしてみたりするエチュードっぽいシーンなどはご愛敬だ。俳優のポテンシャルを引き出す石井裕也に、勝地涼と笠原秀幸に寄せる信頼が溢れ出ている。二人の魅力を最大限に引き出そうというクリエイターの意気がしかと感じられる。尖がり過ぎることなく、台詞に重点を置き過ぎることもない石井裕也の筆致は実に面白い。

二人が思慕していた高校時代のマドンナ、マチコが、映像で登場するのが一服の清涼剤の様な役割を果たしている。マチコは、吉岡里帆が演じている。差し込まれる映像が、異化効果を発し、二人が自分たちを客観的に見据えるスイッチになっているようでもある。宇宙空間の映像なども表現されていくが、玩具を弄ぶように敢えて力を抜いた風に見える映像は、石井裕也のセンスが大いに生きていると思う。

俳優二人のパッションが、才気溢れる映画監督の心を動かし具現化された本作は、自分たちが創りたい演劇を皆に提供したいのだという思いに満ち溢れている。そして、演劇はかくあるべきという呪縛から解き放たれ、新たな表現の地平を斬り拓いていく展開に観る者も魅惑されてしまうようなのだ。ナマの舞台でしか味わうことが出来ない醍醐味が詰まったオリジナリティ溢れる意欲作であった。

橋爪功と井上芳雄の二人芝居という1点において興味をそそられ観劇することにした。日本では、仲代達也と風間杜夫、杉浦直樹と沢田研二が、かつて演じたことがある演目だ。いずれも華ある実力派俳優がキャスティングされている。

ノルウェーの孤島に住むノーベル賞作家アベル・ズノルコの許に、新聞記者エリック・ラルセンが取材のために訪れるという設定が成されている。舞台となる作家の屋敷の居間にその記者が慌てて駆け込んでくるところから物語は始動し始める。作家が銃を威嚇発砲したためのようである。冒頭から不穏な雰囲気が舞台に忍び込んでいく。作家を橋爪功が、記者を井上芳雄が演じていく。

作家の最新作はこれまでの作風とは異なる、男女の往復書簡のような内容だということが分かってくる。偏屈な作家が、何故、取材を受けることにしたのか。取材をする記者は持参したテープレコーダーを何故稼働させないのか。序盤から、少しづつ伏線が配されていく。

細かな布石が其処此処に仕込まれた戯曲を、ごく自然な出来事のように見せ続ける技がなければ成立しないホンであるが、薄皮を剥いでいくように真実が露見していくミステリアスな展開にリアルさを与えていくのは、橋爪功と井上芳雄に他ならない。

芸術家の一種の狂気のような妄信と屈折した記者の疑念とがぶつかり合い、捻じれてほぐれた事実の後に、また、次の疑念が染み出て連鎖する。井上芳雄が橋爪功の胸を借り、橋爪功はがっつりと井上芳雄のボールを受け止める。その両者が対峙する様が実にスリリングだ。

物語が進展していくに従い、二人の関係性がどんどんと変転していく。主導権がコロコロと転回していくため、舞台から目が離せない。台詞の機微をピックアップし、観客に伝播するようナビゲートする森新太郎の繊細な演出も見事である。

エリック=エマニュエル・シュミットは、これでもかというくらい、色々な仕掛けを連打していく。ネタばれになるが、作家の往復書簡の相手が、実は記者ではなかったその男の妻と同一人物であったという展開には驚いたが、その女性がかなり前に亡くなっていたという事実にも驚愕した。では、手紙の返信をしていたのは、一体、誰なのか?

真実が露見していくに従い、そこに現れてくるのは、男二人が抱えた果てしない孤独であった。そして、その孤独に寄り添い男たちの心を支えていた先にあったのは、愛であったという微かな安堵。もがき苦しむ男たちの心情に、観る者の気持ちもだんだんとほだされていくようなのだ。

見事な構成の物語に知的好奇心が満足させられ、橋爪功と井上芳雄の演技が堪能できる、まさに、芝居を観たなという満足感に浸れる一級品の出来栄えだと思う。

ケラリーノ・サンドロヴィッチが手掛けるチェーホフ作品を観るのは、「かもめ」「三人姉妹」に次いで3公演目となる。劇場は新国立劇場小劇場という小ぶりなハコで、出演者は華ある実力派俳優陣が居並んでいる。

こういう小空間で、チェーホフを観れるのは何とも贅沢だ。室内劇は、交わされる会話が無理なく聞こえるサイズの空間で演じられると、劇世界に没入しやすく、登場人物たちの営みがよりリアルに感じられる気がする。

本作も最初は舞台に紗幕が掛かったまま、しばらく物語が進行していく。大きな空間だと、そこで演じられている息吹を階上の奥の席にまで伝えるのは困難になると思われるため、舞台が見えないという演出はリスキーになってくる。小空間であることを活かした演出だ。また、音楽は、伏見蛍のギターの生演奏だ。物語とも上手く絡み合い、劇伴という概念から解き放たれている。ケラリーノ・サンドロヴィッチが仕掛ける繊細なアプローチに、知らず知らずのうちに引き込まれていく。

物語は、ワーニャ叔父さんの家に集う人々の人間模様が、悲喜こもごもに展開していく。現在の生活に満足している人は誰もいない。皆、胸の内に不満や不安を抱えて生きている。

100年先の人は私たちをどう思うであろうという台詞は、100年先を生きる私たちの心情とクロスする。人間が抱える悩みは、時空を経ようとも大きく変化しないのだということに、妙な親近感を抱いてしまうのは、チェーホフの真骨頂だ。だから、チェーホフは上演され続けているわけなのですね。

チェーホフ戯曲の神髄を言葉の奥底から掴み出し、身体に馴染ませリアルに体現する俳優陣のナチュラルな存在感に、グッと親近感が湧いてくる。皆、小屋のサイズに合わせた表現を心得ているため、変な違和感は全くない。誰もが突出し過ぎることのない、バランスの取れたアンサンブルが心地良い空気感を醸し出していく。

タイトルロールを段田安則が担い、氏の求心力ある存在感が、周りの俳優陣を牽引していく。作品の中における無理のないワーニャ叔父さんの在り方が、緩やかなリズムを舞台に投射していく。宮沢りえが登板するだけで、ステージがパッと華やかになる。スターのオーラを浴びることが、観る者が幸福感に浸れるということが実感でき、嬉々としてしまう。黒木華も今や売れっ子であるが、コンスタントに舞台経験を積み、実力を培っている。近々、再演となる「表にでろいっ」での好演も懐かしく思い出される。地味な娘像をナチュラルに演じ、印象的だ。

生きとし生ける者の哀しさが、切なく胸に迫ってくる。生き方に迷い悩みながらも、それでも生きていかなければならない人間の宿命に、思わず共鳴している自分を見つけることになる。等身大の人間を精緻に筆致し、生きることの覚悟を浮き上がらせたチェーホフ劇として出色の出来であると思う。

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