2004年 9月

まずスピーディーなストーリー展開に圧倒される。色々なシーンを候補として挙げ尽くし、その中から話が展開していくために重要なポイントとなるシークェンスを抜き出し、そのシーンを過去と現在の時空間を行き来しながら構成したのだな、と思わせるような、無駄のないというか、強引に観客をグイグイ引き込む手腕というか、とにかく飽きさせない工夫に満ち満ちている。

今回思ったのだが、ミュージカルというのは、観客の飽きさせない率をグッと上げる手法であるのだということが、実感出来た。この話、ストレート・プレイで演じられたとしたら、この上なく悲惨な印象になったに違いない。観客も興味と集中力を持続させるのに苦労しただろう(ベトナム戦争版「蝶々夫人」といった趣)。歌があるから救われ、その詩に酔い、華やかな演出を施すことに違和感がなくなる、といった具合に、至極ポジティブな表現方法へと向かっていく。観客もまた、その緩急自在なうねりがあるから、気持ちを重ねるきっかけが作り易くなるのだ。

市村正親はやはり圧巻であった。作品の狂言回し的な役であるが、全体を底辺で支えるパワーが他の役者にも伝染しているかのようだ。松たか子のストレートな感情表現の強さにも圧倒された。歌に感情が完全に沁み込んでいるというかなり高度なレベルの表現で観客を唸らせる。「うまく歌い上げているなあ」とか客観的になれない程、キムという女性を生きていた。石井一孝は、実直がゆえ悩み心惑う青年を誠実に演じてみせた。このクリスという役は、特に演じる役者によって特徴が出し易いのではないか。今回はトリプル・キャストであるが、結構、それぞれの役者が様々な解釈をしていそうな気がする。今井清隆もまたストレートな演技にて役柄にアプローチしていた。前半、娼館でクリスをそそのかすシーンなどは、真面目な人が何か無理しているかのような、ちょっとした違和感はあった。

今作は舞台装置の物凄さも売りのひとつである。前半は部屋のシーンが多いが、上下後方からスライドして出てくるパーツが組み上がると部屋になるという展開もスピーディーに処理され、舞台転換のもたもたさ加減は一切ない。これも、観客の興味を中断しない工夫の賜物であろう。装置の出入りする光景もまた、楽しく見せるのだ。後半のヘリコプター登場は、入場料を決して高いと思わせないという観客の満足感と驚きを与えたいというプロデューサーたちの渾身の表現の結果である!

全てがスピーディーで決して飽きることはないが、片や、テーマパークのアトラクションにも通じる即効性の連続といった感じにも似て、憂いや感情の揺れ幅といった次元でのモノが少しだけ、擦り抜けてしまった感が拭えない。ともあれ、観客は満足するであろうし、ジェットコースター・ミュージカル、ここに健在、いって締めたいと思う。が、最後にキムの判断だけは、解せないかな。「母の強さ」の解釈次第であるとは思うが。

世界に通じる傑作であると思う。初演時からタイ公演まで何度かこの舞台は見続けてきたが、これ程、戯曲のエッセンスが見事に消化され開花した稀有な作品なのではないか。

デザインに携わる優秀な方々は、「デザインというのは何を切り捨てていくかの判断力の問題なのである。」などと良く言われるが、不安であるから色やモノを足していく未熟さなどからは完全に解き放たれた地平に位置する本作は、役者もスタッフワークも全く無駄が無く、そのいらないものを剥ぎ取ってしまったからこそ伝わる、硬質で揺ぎ無い表現がストレートに観客の胸に突き刺さってくる。

タイの役者たちのピュアさ加減はどうだろう。かつてこの本作でタイの現代劇に風穴を空け、その後、世界を股にかけ活躍するようになっている皆であるが、初演当時のういういさは変わらず、また、ベテラン然としない余裕も身につけ、更に、自由になっているようだ。確か、皆、高学歴の者が多く、また、前回公演の記憶によると、機転の利く頭のよさが印象的であったのだが、知識を詰め込むというアタマの良さではなく、状況判断が利くという反射力の強さにおいて、どこまでもしなやかだ。

行き場がないゆえ役者という道を選ぶという次元のパワーも捨てがたいが、自己に固執するあまり自己が伝わらないという袋小路のような役者たちが、これを見てどう思うのか? ある種の踏み絵のようでもあるが、自己から発する気持ちの高まりなどを楯に表現していると思い込んでいる輩がとても目につく今日この頃、自己を拡大するための自己鍛錬と自己投資を自分の意志でどれだけ出来るかが、まずは、表現者としての第一歩なのかもしれない、などと、思ってしまう。「天才」は別だけどね。

日比野克彦の衣装が美しい。白い布のバリエーションがタイの役者の褐色の肌を更に美しく見せ、また、共同体というモチーフを同色で彩ることで表現しているもかもしれない。
小道具として登場するテーブルにも船にも扉にもなる物体は、イマジネーションを彷彿とさせるという点において、「アート」に他ならない。
海藤春樹の照明は絶品である。展開内容にしっかりシンクロしつつ、役者の感情的な部分までも交錯させ、且つ、微妙な変化によってそれが行われるため、野田演劇のスッと振り返るともう別の次元が始まるというスピーディーなエッジの効いたストーリー展開に、登場人物の感情的なニュアンスをアクセントとして挟み込むことに成功した。あっ、ここで話しが別次元で展開するのだな、というようなことが明らかに分かる変な切れ目がないのだ。

日本版は4人で演じられるところであるが、タイ・バージョンは14人。個対個の対決が外部へと拡散し、共同体が仮想敵としてまたは同胞として目に見えて存在することとなった。
また、周囲を観客に囲まれるということを十分意識した演出にて、全く飽きさせることはなく、ライティングとのコラボレーションにて縦横無尽な空間を現出させていた。

野田秀樹はこの作品においても、現代に向けてのメッセージを強烈に発してくる。排斥や不寛容が生むものとその果てには、一体何があるのか。自分はどう在らねばならないのかという問いを真摯に噛み締め、思いを馳せるところから始めなければならないのだ。

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