2017年 1月

「キャバレー」は、ナチス台頭前夜のキナ臭さ漂う1929年のベルリンが舞台となっている。演出の手綱さばきで、物語の何処がフューチャーされるのかが大きく変わる演目であると思うが、本作は長澤まさみ演じるキャバレー「キット・カット・クラブ」の歌姫サリー・ボウルズが中心に聳え立ちオーラを放つ、華やかなミュージカルとして生まれ変わった。

同作が初演されたのは1966年。ベルリンという地で1929年を舞台とすることや、その時代におけるユダヤ人の在り方、はたまた夜の世界、そしてジェンダーの問題など、現在でも取り上げる際にはデリケートなタッチを要するであろうスペックが居並ぶ、野心的な作品である。

最近ではめっきり見かけなくなった「退廃」という言葉があるが、同作にはそういった爛れた感触が内在しているのだと感じてはいた。甘い果実の中心部からじわじわと腐っていくような表現とでも言ったらよいであろうか。しかし本作は退廃をスタイルとして掴み、流転する人生をまるでジェットコースターにでも乗っているかのようにスピィーディーに描いていく。

また、全体的に喜劇的な要素を作品から掴み出しているのも特徴的だ。不幸だと思われるような境遇を笑い飛ばしてしまうパワーを、随所で放出していく。来場者の誰をも楽しませることに腐心したエンタテイメントが志向されており、堕ちゆく様々な人生も、何故か前向きに捉えることが出来るのは、登場人物に対する松尾スズキの温かな眼差しが反映されているからであろうか。演出家によって様相を変化させる要素が詰まった作品であることが証明されることになったと思う。

長澤まさみの伸びやかで澄んだ歌声は耳に心地良い。また、コメディエンヌな側面もフューチャーされポップで明るい資質が全開だ。1929年から時空を超え、今、現代に生きる女性として舞台に生きている。長澤まさみを中心に物語は展開していく。

小池徹平はアメリカからやってきた作家志望の青年を演じるが、バイセクシュアルでもある。しかしその青年の資質の多様性を突き詰めるよりは、サリー・ボウルズに惹かれる側面が押し出され、ゲイ的なやり取りはコミカルに描かれ深く言及はされない。ぶち当たる問題は、爽やかな青年が抱える苦悩へと置き換えられていく。

「キット・カット・クラブ」のMCは、石丸幹二が演じていく。時代、空間を俯瞰し、物語を推し進めていく存在であり、同作が内包する退廃的なアクセントは石丸幹二が全面的に担っていく。MCは作品に通底する1929年の時代性を現代にブリッジさせる役割を課せられているのだと思う。

小松和重はユダヤ人の果物商を演じていく。変転する時代に翻弄される一人の人間から儚い想いを真摯に掴み出し、そのぶつけようのない苛立ちに笑いを加味させながら表現していく。その男と添い遂げようとしたドイツ人の大家を秋山菜津子が担っていく。想いは募れど、時代の歯車に巻き込まれていく悲劇の人物をポジティブに演じ、作品に明るさを照射していく。自分が悲劇だと想わなければ、悲劇ではないのかもしれない。自分の判断は、自分の責任なのだということを自覚する女をクールに演じ格好良い。

村杉蝉之介は捉えどころのない怪しげなドイツ人を演じ、敵か味方かが判然としないキナ臭いグレイなアクセントを作品に付与していく。平岩紙は水兵たちを客にとる気風の良い女を軽妙に演じ、笑いを誘う。秋山菜津子との丁々発止のやり取りが、また、楽しい。

登場人物たちそれぞれに課せられた役割が明確に分担されており、同作を多面的な視点で捉える松尾スズキの視点は、現代に同作の魅力をどのような手段を取ったら届けることが出来るのかを熟考していることが感じられる。名作ミュージカルを現代の感覚で蘇えらせた松尾スズキの手腕が光るエンタテイメントとして見応えある仕上がりとなった。

本作が野田秀樹が中村勘三郎にオマージュを捧げたという触れ込みは、観る前から漏れ聞こえていたため、さて、一体どのような展開になるのかと期待感は高まっていた。三、四代目出雲阿国と、その弟という設定の寂しがり屋サルワカが物語を牽引していくのだが、歌舞伎のルーツである出雲阿国を中心に据えた設定が面白い。

中村勘三郎本人を追悼するという狭小な眼差しではなく、芸事に身を投じる人間を描くことを通して、人生を駆け抜けた一人の歌舞伎役者の姿を浮き彫りにさせていく。どストライクな直球が投じられるとは思ってはいなかったが、どう物語が展開していくのか、その行方が掴めないのが実にスリリングである。

三、四代目出雲阿国は宮沢りえが演じていく。中村勘三郎とも親交があったと言われている宮沢りえが出演していること自体が、追悼の一環なのだと感じ入る。歌舞伎というものが辿ってきた様々な変転を、その原点から現代にまで一気に結ぶ役割を担い、観る者を完膚なきまでに打ちのめしていく。

しかし、物語は芸事だけに終始する訳ではない。時の体制の転覆を図る一味が地の底から這い出てくるのだ。野田秀樹の筆致は感傷的に中村勘三郎を描くことだけに集中するのではなく、芸が政と抵触する横軸を織り込み刺激的だ。

作品には、戯作者の存在も、しかと刻印されていく。妻夫木聡が担う三、四代目出雲阿国の弟サルワカは、姉のために台本を創作する。しかし、その物語を創り上げていく過程で、古田新太演じる売れない幽霊小説家が指南する光景が描かれていく。この幽霊小説家であるが、冒頭、死体として現れる。そして、その死体を解剖する目的で購入する腑分けものを、野田秀樹が演じていく。

妻夫木聡は次元を行き来しながらも現実世界をしかと生き抜き、作品を生み出す者を嬉々として担い生命力を放出していく。此岸彼岸を巡りながら、今を生きる人に智慧を提供していく古田新太に有り様は、同カンパニーにおける本人の在り方と共通するものがあるのではないだろうか。ある種の大黒柱だ。サルワカが受ける黄泉の国から指南を受けるという設定は、野田秀樹と中村勘三郎との関係性を彷彿とさせられる。

生死の境を行き来する幽霊小説家を解剖しようとする役どころを、野田秀樹自らが担うという捻じれ具合が面白い。野田秀樹は、作品全体をサポートするようなポジションから、創作することの苦悩と愉楽を導き出していく。

中村扇雀が伊達の十役人という役どころで、シーンごとに全く異なる役人として登場するのがご愛嬌だ。熟練の歌舞伎役者が、どの場面にも現れることで場がキリリと引き締まる。

大儀を掲げる佐藤隆太の戯けものの存在は、キナ臭い香り漂う今の世の中に対し野田秀樹が仕掛けた発破なのかもしれない。閉塞感ある社会に風穴を空けようとする雄姿は、これからの行く末を占う分水嶺のようでもある。

鈴木杏の踊り子ヤワハダは、三、四代目出雲阿国の妹分だ。タナトスが通底音で流れる作品の中において、溌剌とした若さが女の生々しいエロスを発散し体温を感じさせてくれ心和む。万歳三唱大夫を演じる池谷のぶえの豪快で気風のいい女っぷりは、三、四代目出雲阿国の複雑な在り方とクッキリと対比される存在感でインパクト大だ。

芸事を創り上げる苦悩の魂を掘り下げながら、膠着した現在の未来を憂う思いをクロスさせた一筋縄では括れない警鐘を孕んだ秀作として、語り継がれることになるに相違ないと感じた逸品であった。

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